少女残酷論


*恵猪前提


 よく観察すれば、すぐに分かることでした。
 例えば、授業中に何度も目が合う。そして綻ぶ色の違う二つの微笑み。
 例えば、お互いを呼ぶ声に微かに混じる、甘い響き。
 例えば――

 クリーム色のロ型の校舎が印象的なこの女子校に、猪々子さんと恵々子さん、そして私は通っています。
 もうすぐ卒業を迎える私たちの学年ですが、そのまま附属の高等部に進学する人が大半なので特に私達は悲しむこともなく。おっとりと穏やかに残りの時間を過ごしていました。……とある二人を除いて。
 とあるお昼のこと。ロ型校舎の真ん中。そこにぽっかりと空いた中庭は桜のつぼみが膨らみ、仄かに花の甘いあまい香りが風にのって漂ってきそうです。透きとおる空気と暖かい日差しに誘われて、私はふらふらと中庭に行きました。
 校舎の真ん中にある中庭の、更に中心に。マリア像は存在をぐっと主張して、私たち生徒を見下ろして、否、見守っています。聖母マリア。実のところ私は彼女を讃え敬ったことが一度もありません。理由など、特に無くシスターに言ったらきっと怒られることでしょう。でも、崇敬する気持ちが微塵も湧いてこないのだから仕方ないと思います。彼女の優しげな笑みとも無表情ともとれるそのかんばせを眺めていると、出入り口の方から声が流れてきました。その声は、よく知る二人のものでした。
 私は慌てて身を隠そうと、マリア像の裏に隠れ、じっと小さく縮こまります。二人――猪々子さんと恵々子さんはマリア像つまり先程まで私のいた場所でひっそりと、けれど少し荒立った空気が混じっています。耳を澄ませば、それは主に猪々子さんから漂っていることが分かりました。

「――別に、そこじゃなくても良いじゃない! ここだってちゃんと勉強を重ねれば恵々子の望む道に充分進めるのよ……!」
「……確かにそうね。でも、それじゃあ待てないの。遅いの」

 鳴呼、私はとんでもなく大変なことを知ってしまったようです。きりりと目を吊り上げているで猪々子さんと、曖昧に微笑を唇にのせた恵々子さんが容易に想像できました。どうやら恵々子さんは附属校へと進まずに、外部へと行ってしまうのです。そんなこと、無いと思っていました。だって――
 
「じゃあ、恵々子は私を置いていくって言うの……。置いてかれた私は、どうすれば良いのよ……」
「猪々子ちゃん……。ごめんなさい。置いていく訳じゃないわ。それに離れ離れでも気持ちは変わらないでしょう?」
「……そんなの、分からないじゃない! 未来のことなんて! 確証が取れるわけないじゃない!」

 二人は愛しあっているのに。慈しみ、その感情を共有して。なんということでしょう。猪々子さんが泣いているのが、しっとりとした空気で伝わってきました。私も胸がずたずたに引き裂かれそうなほどに痛くなり、ぎゅう、と胸のリボンを掴みました。それ以上は耐えられなくて私はそっとそこから立ち去りました。
 噂は花が咲き、濃密な香りがぶわりと広がるように隅から隅へと伝わりました。この閉鎖的なぬるま湯のような学校では、外部から入る者はいても外部へ行く人は滅多にいません。
 私は再び、あの中庭に行きました。ぐるぐるとまわる思考を落ち着かせたかったのです。ひんやりと冷たい銅像、聖母マリアに手を這わせ瞳を目蓋で覆い隠すと少し楽でした。ほぉ、と息を吐いたそのとき。

「ちょっと、良いかしら。苗字名前さん」

 目を開けるとおっとりと、けれど決して弱弱しい雰囲気を感じさせない恵々子さんが眉を下げて佇んでいました。私はあっ、と声を漏らし聖母マリアのように硬直してしまいます。恵々子さんが、何故ここに。私に近づくと恵々子さんは私の手を握り真剣な眼差しを向けました。

「この前ここで聞いていたでしょう? 私と猪々子ちゃんの話。貴女が立ち去るのを見かけたの」

 私の頬は朱色にぱっと染まります。まさかばれていたなんて! 私は深くふかく頭を下げました。もう消えてしまいたい。
 
「ご、ごめんなさい! 失礼なことだと分かってます。でも……」
「いいえ。良いの。寧ろ貴女に聞いてもらえて良かったのかもしれないわ」

 ゆっくりと首を振ったのが、影で分かりました。私が思わず顔をあげると、なんと恵々子さんの細くて白い指が私の頬を、輪郭を伝うのです。わけが分からなくて、でも心に罪悪感という石がずしりと落ちました。猪々子さん、ごめんなさい。自然と涙が溢れ出てきます。それと同時に恵々子さんの指の動きが止まりました。

「ごめんなさい。猪々子ちゃんにちょっと似てて、つい」
「わ、私が猪々子さんに……?」

 ほたりほたりと流れる涙は止まり、私は瞳を瞬かせ首を傾けました。あんなに美しく、海の如く深い感情を内包している彼女と私の共通点なんて見当たるはずもないのに。恵々子さんは優しく穏やかな瞳でくすりと笑みを浮かべます。

「猪々子ちゃんは、見た目は芯が強そうだけど中は繊細だから。そう、貴女のように」
「そんな……そんな、私は繊細なんかではありません」
「そう。でもね、似てる気がしたの。嫌なら忘れてね」

 それでね。貴女に大事なお願いがあるの。
 一拍おいて、紡がれた言葉は嬉しくもあり、悲しくもあるものでした。




 少女たちの軽やかなソプラノが響く。
 どうせ高等部へ進学するだけとは言ってもやっぱり悲しいらしく、一人、また一人とハンカチを濡らしています。私は特に何も感じず、そっとここにはいない卒業生二人のことを考えていました。

「――組」

 卒業生の名前が一人ずつ呼ばれます。
 ――元気よくからりと返事する者。
 ――嗚咽で言えてない者。
 ――呼ばれても、居ない、者。
 式が終わったあとは皆、大騒ぎでした。卒業式に出ていないなど前代未聞のことで、胸につけたピンクの花が散りそうな勢いです。
 私は、待機しているように言われた教室からこっそりと抜け出して例の中庭へ足を運びました。中庭の桜はあの日のつぼみから見事、綺麗な花を咲かせています。そして見ると私の予想通り、猪々子さんと恵々子さんが聖母マリアの銅像の前で二人寄り添うように座りこんでいました。静謐な空気と二人から醸し出される甘やかな空気が交わってなんだかくらくらと眩暈がする光景です。その空気を味わうように二人、瞳を閉じて。手は蔦のように絡み合う。うっとりと、魅入ることしか出来ません。しかし、そのままにする訳にもいきません。私はそぉっと、声をかけました。

「あ、あの……」
「……名前さん。もう、そんな時間なのね。どうだった?」
「それはもう……大騒ぎでしたよ」
「ふふ。そりゃそうね。名前さん、ありがとね」
「いえ……」

 私の存在に気づいた恵々子さんは、私を見てふわりと微笑を浮かべます。そして。

「……誰?」

 訝しげにこちらを見る猪々子さんは綺麗なまっすぐ伸びた緑がかった髪を揺らし、整った唇からぽつりと疑問の言葉を零しました。それは邪魔者は去れ、という感情も含まれているようでした。恵々子さんが窘めるように彼女の頭を撫でます。猪々子さんはたちまちその白い頬に赤みが差し、抵抗するかのように頭を左右へ振りました。

「ちょっと、やめて」
「猪々子ちゃんは撫でられるの好きじゃない」
「それでも時と場合によるでしょ……!」
「あらあら、照れちゃって。それでね、こちらは苗字名前さん。同じクラスだったでしょう?」
「……ああ。思い出したわ。委員長じゃない」

 そうです。実は私は学級委員長でした。いまはそんなこと、どうでも良いのですが。
 恵々子さんは猪々子さんと繋いでいた手を解いてそっと立ち上がり、私の方へ寄りました。猪々子さんが少し寂しそうなのに心が痛みます。恵々子さんはゆっくりと告げました。

「猪々子ちゃんね。……私居なくなったらこの人と仲良くして欲しいの。私が紹介した人だもの。安心できるでしょ?」
「は……な、なによそれ」
「だって猪々子ちゃん、私以外ともう自分から仲良くしなさそうだもの」
「余計なお世話よ!」
「私は心配なの。ゆっくりでいい。本当に嫌なら止めない。でもね、私は本当に心配なの」

 少しの沈黙が場を支配しました。猪々子さんは逡巡したあと、微かに嫌そうですが首を縦にこくりと落としました。

「……これは、恵々子のためよ」
「いまはそれでもいいわ」

 私は、猪々子さん元へ歩きました。そして恐る恐る手を差し出します。

「あの、よろしく、お願いします」
「……なに遠慮してるのよ」

 恵々子さんが、先程まで恵々子さんと繋いでいた方の手で私の手を掴みます。先程まで二人分の温もりを共有していたからか、とても温かいものでした。後ろで恵々子さんが嬉しそうに笑うのが分かりました。それに、きぃと猪々子さんが眉を寄せます。

「恵々子! なによ!」
「別に? ただ嬉しいだけよ」
「もう……名前も何か言いなさい! 人をからかってばかりな恵々子に!」
「わ、私は別に……」
「名前さんはいい子ね……さ、そろそろ教室に行きましょう。たっぷりとしかられに」

 私と猪々子さんは顔を見合わせ笑いあいます。猪々子さんと一緒に恵々子さんと肩を並べていまはまだ、三人で歩き出しました。
 教室に戻った私たちはそれはもう、おそらく一生忘れられないほどにシスターのお説教を受けました。本来なら卒業できないですからね、と教室で猪々子さんと恵々子さんは卒業証書を貰います。

 ――卒業式から一ヶ月後。私と猪々子さんは無事に高等部に進学でき、少し中等部と変わったところはありましたがそれほど変化のない生活を送っていました。外部へと抜け出した恵々子さんから届いた手紙では彼女はがらりと変化した環境に目を回しながらも彼女らしい道を歩んでいるようです。
 その手紙を猪々子さんと一緒に教室で読んでいると、ふと、思い出しました。恵々子さんに頼みごとをされた、あの日のことを。





「貴女に大事なお願いがあるの」

 緩やかな風が、私と恵々子さんの間を通り抜けます。風は私と恵々子さんの深海のようなふわふわした髪で遊びます。恵々子さんはそっと目を伏せて呟きました。

「私がいなくなったあと、猪々子ちゃんと友達になって欲しいの」
「え……」
「猪々子ちゃんは、閉鎖的な子だから。私がいなくなったあとにちゃんと周りと上手くやっていけるか心配で」
「私じゃなくても、適任はいると思います。それに他クラスに猪々子さんはご友人もいますし……」
「貴女が良いと思ったの。前々から、私たちもこと知っていたのでしょう?」

 はっと、一瞬呼吸を忘れてしまいます。これも気づかれていたなんて。
 しかし恵々子さんは責めるわけでもなく、ふぅと一つ。息を吐き出しました。

「最初は、貴女が学級委員だから私たちのことを見ていたと思うの。でも違うようだったから」
「……恋していたんです。お二人に」

 そっと、そっと。影から見ていました。お二人の綺麗な恋を、愛を。文字通り、恋に恋していました。それだけで幸せでした。二人だけで作られた小さな世界を愛していたのです。

「だから私は、貴女なら大丈夫だと思ったの。貴女なら私と猪々子さんの気持ちを理解してくれる。尊重してくれる。私の代わりとなって猪々子ちゃんの気持ちを理解してくれる。他のクラスの子には出来ない」
「……私は、恵々子さんの代わりになんてなれません」
「無理にならなくて良いの。名前さんのやり方で、名前さんらしさで。猪々子ちゃんと一緒にいてくれたらそれ以上のことを私は望まないわ」

 ひしひしと、恵々子さんから猪々子さんへの愛情が私の心に流れこんできました。苦しいくらいに、溺れてしまうくらいにそれは私の心に淀みなく。
 猪々子さんと、友だちになるというのはたいへん嬉しいことです。けれど、私は猪々子さんとは相応しくない気がしてしまいます。ぐらりぐらりと天秤が左右に傾き私を悩ませます。私は、最後の抵抗とでも言うように恵々子さんに問いました。

「本当に、恵々子さんは外部へと行ってしまうのですか。猪々子さんを残して行ってしまうのですか」
「もう、決めたことなの。かえることはないわ」

 彼女の迷いのないその瞳が、私の天秤を片方へ大きく傾かせました。
 ――恵々子さんがそこから去り教室に戻ったあと。私はマリア像の前に手を組み跪きました。
 聖母マリアよ。貴女はどう思っていますか。同性愛という罪を犯したあの二人を。貴女ではなくあの二人を崇拝しているこの私を。貴女は赦すのでしょうか。それとも赦さないのでしょうか。
 ねえ教えてください。マリア様。

20130526