傷痕


 物心がついた時に母は、綺麗な花が咲き乱れる天国に行ったのだと教えられた。夜空に散りばめた砕いた硝子のような星になったとも聞いた気もする。私の世界には、独り身にも関わらずこうして何不自由ない高校生まで育ててくれたおじさんとその友人、後輩で構築されていて母が入り込む隙間は存在しなかったのである。例えるなら、そう。曇りの日にできるうすぅい、気付くことも稀な影。実際に顔を、身体を、心を目にしたことがない母という存在は私にとってその程度だったのだ。そのはずなのである。

「お前は本当にあいつに似ている」

 紅茶の香りが居間を支配する。向かいの席で優雅にアンティークなティーカップを片手に語るのは私のおじさんだ。私は、お茶菓子のクッキーに手を伸ばしながらそうかな、と適当に相槌を打った。あいつ、というのは母のことである。従兄妹関係だった母と立花のおじさんは母が二十歳に事故でこの世から去るまで頻繁に交流があったらしい。その歳までよく顔を合わせていたからか、私が成長し母が亡くなった歳に近付くにつれて先程の言葉を呟くことが多くなっていた。

「ああ、見た目も中身もあいつが若返って戻ってきたようだよ」
「私は十八で子供を産めるほどもてないのに?」
「そういうところは似てないな」

 あいつは取っ替え引っ替えだったからな、とおじさんは唇に笑みをのせる。どうせ私は男が近寄って来ませんよ。容姿も中身もそっくりだと言うらしいのに何故だろうか。眉を寄せればおじさんはまた笑った。

「まあ、そんなところは似ていなくても良いだろう。私の心労が減って助かる」
「お母さんの頃は苦労したんだ?」
「高校の時なんかは特にな」

 開け放された窓から穏やかな風が花の香りと一緒に流れ込み、おじさんの溜息をくるくると何処かに追いやった。それと同時におじさんの艶やかな黒髪をさらりと揺らす。春の香りがした。
 母は、私を十八の時にこの世界へ産み落とした。どこの誰との子か分からない、けろりとそんな言葉を吐いた母に周りは呆れた。気持ち良いこと、楽しいことが何より一番で世間体や倫理観など気にしない母は私のことをどう思っていたのか。考えることが怖くて、あまりそのことに目を向けたことはない。ともあれ、いつも持てる力を全て使ってのびのびと二十年を生きのびた母は、きっと死んでもあまり後悔なんてしていないだろう。周りから聞かされた母の性格ととても似ているらしい私の思考回路を元にそう結論付けた。
 がちゃり。玄関の方から誰かが入ってくる音がした。おじさんはそちらへちらりと視線をやり、ティーカップへまた戻した。この様子だとおじさんの知り合いだろう。私は立ち上がり台所へ一つ、ティーカップを取りに行った。

「名前、文次郎にそんなもの必要ないぞ。文次郎がティーカップなんて持っても笑えるだけだ」
「おじさん、意地悪いっちゃ駄目だよ」
「あー名前、いい。俺も紅茶はおまり好かん」

 ティーカップなどと一緒に戻れば、潮江さんが居心地悪そうに座っていた。確かに潮江さんと紅茶や洋菓子、ついでに言えばこの居間は似合うとは思わない。失礼だから口には出さないけれども。代わりに緑茶でも淹れようか? ティーカップは隅っこに置いといて訊いてみても首を振られた。

「お茶はいい。それよりも名前、ちょっと外に出ないか」
「良いけど。どこに行くの?」
「――だ」

 おじさんが潮江さんへちらりも目を向ける。非難の色が伺えた。



 母はとても愛されているのだと、亡くなってから十数年経った今でも分かる。色んな人々が定期的に訪れているのだろう。綺麗に掃除された墓石。瑞々しい花。彼女の好物であるお饅頭はいつ行っても新しいものだ。
 私はいつも不思議だった。聞いている限りだとただの節操のない少女であったのに、母は、彼女は何故こうにも様々な人の心を揺さぶるのだろうか。その存在はずっと消えず、私たちの周りに甘い香りの如く漂っている。
 周りは揃って言う。私と彼女はそっくりだと。顔も癖も、性格も。享楽に身を落とし、刹那的に生きたこと。それを除いて。
 だからなのだろう。母という少女を知る人々は皆、私を彼女を通して見ていた。私の好きなもの、嫌いなもの、考え、すべて私を見て認識していない。母を通して認識している。愛されていないわけではない。ただ、母の存在が強すぎて私の影は薄い。それだけだ。
 私の横でじっと墓石を見詰める潮江さんもそうだ。これは私の推測でしかないけれど、潮江さんが一番彼女と私を重ねている。高校時代、母とよく一緒にいたらしい。意外と面倒見の良い潮江さんのことだから、一種の問題児であった母の面倒を見ていたのだろう。
 しばらく沈黙を守っていた潮江さんが、ぽつりと零した。

「×××」
「……文次郎」

 静かに、弱々しい声で少女の、彼女の、母の名前を呼んだ。あまりにも弱々しく呼ぶものだから私は思わず応えてしまう。母と同じ声で、母が潮江さんの名を呼ぶように。
 潮江さんは瞠目し、私の方へ向く。懐かしさや怒りや悲しみ、色々なものが混ざった顔はすぐに俯き、大きくごつごつとした手で覆われた。私と母しか知らない、彼が泣くときの癖だ。
 彼の涙を掬わずにじっと隣で空を仰ぎ見た。
 これが唯一私に残された、私という意思だった。

14/11/16