花に誘われた蝶の話


※現パロ、百合


 『ユキちゃん』は生粋のお嬢様だ。今の時代にはあまりお目にかかることは出来ない、正真正銘のお嬢様。そんな彼女がこの私立といえど平凡の域に入るこの高校に入学したのは校内でまことしやかに囁かれる七不思議の一つである。噂によると、我が強いが美人な娘とのこと。噂によると、というのは私は全くその娘と関わりがなく、ちらりとも姿を見たことがないからだ。
 朝だって、優雅に黒塗りの高級車で登校する彼女は学校に来るのは早い。対して私は徒歩通学でしかもギリギリまで寝ているので学校に到着するのは始業の鐘が鳴る時刻に限りなく近い。なので会うことはないし、授業の合間の休み時間や昼休みも私は基本的に教室から出ない。私の在籍するクラスには彼女の友人はいないらしく逆も然り。放課後は帰宅部の私はさっさと帰ってしまうけど、女子テニス部に所属する彼女は日暮れまで部活に励んでいる。
 素晴らしいほど接点が無い。二年も同じ校舎で過ごせば一度くらいは顔を合わせても良いはずなのに。集会で彼女が部に良い成績を修め、表彰されたときも私は熱をだしてしまい居なかった。ここまでなにもかもすれ違ってしまうと笑ってしまう。見事すぎて、彼女を一目見てみたいと思った。見ることは簡単だ。いくらでも方法はある。けれど、会って話してみたいと思った。果たしてそれはおかしいことだろうか。
 しかし、会って話をするとなると途端に事は難しくなる。自然に話す機会など今まで通り皆無だ。いきなり私と話しましょう、などと言って怪しまず、和やかに会話など出来るものか――と、私は昼休みにぼんやりと窓際の自席から外の風景を眺めながら思案していた。校庭では男子がサッカーに興じ、それを近くで応援する女子がきゃあきゃあと黄色い声をあげている。頬杖をつきながら『ユキちゃん』のことを考えていると、いきなり後ろからぽん、と軽く肩を叩かれた。一拍溜めてから振り向けば、隣のクラスの卯子がよっすーと気の抜けた挨拶を手を小さくあげながらした。

「どうした卯子。私になにか用?」
「名前がぽっつーんと寂しそうにしてたから来たの」
「天才は孤独を好むものだよ」
「どこに天才がいんの」

 からからと軽やかに笑い声をあげる卯子は私の数少ない友人である。捻くれた性格からか、あまり人が近寄らない私に初めて声をかけてくれたのも、卯子だった。卯子は今は誰も座っていない私の前席の椅子に腰をおろす。そしてにんまりと笑みを作った。

「まぁた『彼女』のこと考えてるんでしょ」
「もしかして、からかいに来た? それなら教室に戻って彼氏サンと愛を育めば良いよ」
「ばっ、か、彼氏って!」
「だって事実」

 耳まで赤く染まりあがる卯子にくすくすと笑うと、卯子は一つ咳払いを落としその彼氏サンの話題から逸らす、いや戻すが正しい。で、どうなの? と問うてきた。私は肩を竦め答える。

「ご名答。私は卯子さんの考えている通り今日も『彼女』のことを考えておりますよ」
「名前もマメだよねぇ」

 『ユキちゃん』については卯子に特定されぬように『彼女』として話している。勿論、細かく話すと『ユキちゃん』だと知られてしまうから、さらりと軽くしか話していない。ふぅん、と曖昧な相槌を打ち、ふと卯子は呟いた。

「それ、まるであんたが『彼女』のことを――」




 授業も終わり、放課後にそそくさと帰宅しようとする私が偶然目にとまったのか、担任が先刻の授業で集めたプリントと教材を音楽室に置いといてくれと頼んできた。我がクラスの担任の担当教科は音楽なのだ。私はとくに断る理由もないので嫌そうな素振りを見せながらも承諾し、今は四階の突き当たりにある音楽室に続く廊下を歩いていた。窓から夕陽が滑り込み、廊下を橙に染めあげ昼間とは違う風景を作り出していた。
 ひと気はなく、静寂に満ちた廊下にはぺたぺたと上履きが床に擦れる音しか聞こえない。さあ、音楽室まであと十メートルというところできぃ……と蝶番が擦れる音をたて目前に広がっていた音楽室の戸が開いた。開いた隙間からピアノの音と共に綺麗な黒髪を持つ少女が出てきた。黒髪の少女は中へ顔を覗き込ませ、じゃあとやや声を張り上げて叫ぶ。

「ユキちゃんまた明日ね!」

 一瞬だけ、中から流れる演奏は止まり女の子の声が微かにだが聞こえた。私はいつの間にか歩みを止め、ぶるぶると小刻みに震える身体を必死に抑えようとしていた。……今、あの黒髪の少女はなんと言っただろうか。まさか、あの音楽室にいるのは――
 ばたりと扉が閉まり、音が遮断されるとまた廊下は静謐な空気に包まれる。黒髪の少女は廊下の中途半端な場所で佇む私に訝しげに眉根を寄せたがそれきりで、すぐに短めに折られたスカートを翻し、音楽室の隣にある階段へ駆け降りていった。私は床に根が張ったように動かぬ足を無理矢理、前へ前へと引き摺っていく。そして未だに震える手で扉を開けると――『ユキちゃん』がいた。
 教卓の隣に設置されているピアノに向き合う少女。狐色に似た、波打つ髪が背中を泳ぎ、長い睫毛はそっと伏せられ影を落とし、形の良い唇はきゅっと結ばれている。白く細い指は鍵盤の上を軽やかに踊っていた。そんな少女を窓から差し込む夕陽がスポットライトのように照らしている。その光景はまさに美だった。思わず息を呑んでしまうような美しさ。飾らなくとも分かるような、究極的な美である。くらくらと目眩がした。ひっそりと噂で聞いた通りの容姿と、先程の黒髪の少女が呼んだ名から間違いない。念には念を、と少女の上履きをちらりと見遣る。学年色のラインが入ったその上履きは私と同じ学年。この学年にユキという名は一人だけだ。つまり、彼女が『ユキちゃん』であろう。
 噂には聞いていたがまさかここまでとは。それにしても何故、彼女がここに居るのだろうか。確か彼女はエレクトーンが得意と聞いていたが。
 ピアノに熱中していた彼女だが、視線に気づいたのかこちらへ顔を向けた。神が丁寧に作り上げたような端正な顔が見えた。一瞬の間。口を開いたのは彼女だった。

「あら。先生に雑用頼まれたの?」
「……うん、そう」
「ふぅん。じゃあそこの教卓に置いといたら? あの先生よく生徒に雑用頼むのよねえ」
「へ、へぇ。詳しいね……」
「エレクトーンを習ってるんだけど、たまにピアノもやるからその練習をするために、あ……私テニス部入ってるんだけど、部活が休みのときとかはよくここ使ってるのよ」

 軽く、まるで顔見知りのように話しかけられる。人見知りに口下手を兼ね備えている私には到底真似できないものだ。それはそうと、ずっと前から願い続けたものがいま成就している。昨日の、いや一時間前の私にこのことを伝えればきっと卒倒してしまうだろう。ああ、なんたる幸福!
 幸せをひそりと噛みしめ、のろのろと教卓の上にプリントや教材を置く。多少、乱雑な置き方になってしまったがまあ大丈夫であろう。ぼんやりと、どことなく物憂げに私を眺めていた彼女は唐突に「あら」と声を零した。視線は私の足元……上履きへ注がれている。

「あなた、私と同じ学年じゃないの。でも見かけたことないわ」
「ああ……私はあまり教室から出ないから」
「へぇ、あなた何組?」
「――組」
「仲いい子はいない組だわ。ふぅん、この学年の女子は一応全員の顔と名前覚えたつもりでいたけど、まだ知らない人いたんだ」

 そりゃあそうだ。彼女が私を知るはずがない。清々しいほど、完璧に接点という接点も、運もタイミングもなかったのだから。彼女と違って目立たぬ薄暗い私を、彼女が知っているはずも記憶の片隅にあるわけがない。一方的に私が興味を持っていただけだ。理解していたのに、何故だか心に細い鋭利な針を突き刺したように痛みを感じた。
 自然と生まれてしまった気まずい沈黙を破ったのは最初と同じく彼女だった。徐に彼女は椅子から立ち上がり私の方へ一歩、踏み出した。ピアノは教卓のすぐ隣。一歩で充分だ。私と彼女の間はもうひと一人分だけである。
 彼女はすぅ、と浅く息を吐き、私の方へ真っ白いその手を差し出した。にぃと猫のように細められた瞳もとても美しい。

「私のことはユキって呼んで。あなたの名前は?」
「……苗字名前」
「そう。名前ね。よろしく」

 彼女の手がぶらりと意味もなく垂らされる私の手を掴みぎゅっと握る。私は事態がうまく呑みこめぬまま、ただ彼女の低い体温にうっとりとしていた。そしてふわりと昼休みに卯子が呟いた言葉が甦る。

 ――それ、まるであんたが『彼女』のこと好きみたいだね。

 ああ、きっとそうに違いない。姿も知らぬのに恋情を抱いていたのは実に可笑しな話だが、よく考えてみれば顔を合わせたことがない者など彼女以外にも多くいる私がああも彼女の存在を気にしていたのはこれに違いない。
 私は、彼女――ユキに恋い焦がれていたのだ。


12/08/17