蜂蜜色の夢


 ひんやりと、真冬の刺すように冷たい空気のする二月は過ぎ、春がひょっこりと姿を現し始める三月が訪れた。
 三年生は大体の者が進路を決め、鬱陶しいテストも片付けば後はもう暇で、遊んでいたり大学への様々な準備をしている者が殆どだった。
 私は家から近い大学へ進学するために一人暮らしをすることもなく、気紛れに所属していた陸上部へ顔を出したりしている。

「あれ、先輩来てたんですか」

 陸上部員たちと会う前に何か飲み物でも買おうと、ラウンジにある自動販売機から適当にお茶のボタンを押してるとき、聞きなれた後輩の声が鼓膜を震わせた。
 振り返れば、真っ赤なジャージを身に纏う次屋ちゃんが気怠げに佇んでいた。いっとうに可愛がっている後輩は窓から差し込む光できらきら輝く色素の前髪を揺らし、くしゃりと目元を緩ませ破顔する。

「うん、ちょっとね。暇になったから」
「名前先輩、最近来なかったから寂しかった」
「ごめんね。忘れていたわけではないよ」

 いくら実家通いで人より余裕があるといっても、全く暇なことはなく暫くこちらには手が回らなかった。まあ別にもう引退した部活に顔覗かせることは義務ではないので、寂しいけど特に気にしてはいなかったが、どうやら私は思ったよりこの後輩に慕われていたらしい。好意には好意を、悪意には悪意を。というスタンスが基準の彼女といえば彼女らしいと言える。
 忘れかけていたお茶を取り出し口から掬い、ついでに次屋ちゃんにも一本スポーツドリンクを奢ってあげラウンジのテーブルを間に挟みソファーに向かい合って腰を下ろした。
 次屋ちゃんの話を聞けば、今は休憩時間らしくちょっと教室まで忘れたタオルを取りに来たら何故かラウンジまで来てしまったという全く変わらない様子に、思わず笑みが零れる。

「でも、みんなより一足先に名前先輩に会えたから良いです」
「嬉しいこと言うね。可愛いかわいい」
「先輩のほうが可愛い」

 なんだか、引退前に戻った気分だ。絞めるような暑さのなかでも、刺すように寒い冬でも地を蹴り、風と一体化していたあの空気をこのラウンジいっぱいに詰め込み満たしているような、そんな錯覚をした。
 しかし、窓の外ではもう桜の木が蕾をいくつもつけ、もう少しで咲きそうだ。それが現実を私の前に突き付けてくるのだ。

「……もう蕾があるんだね。卒業式にちょうど咲くのかな」

 ぶわり。放った言葉は、どうやら引き金になってしまったらしい。ぼろぼろと大粒の涙をたれた瞳から溢れさす次屋ちゃんは小さく嗚咽を、かみ締めた唇から漏らした。突然のことに一瞬理解が追いつかなかったが、慌ててハンカチを出し涙を拭ってあげようと身を乗り出す、が彼女のやんわりと制止する手によりそれはできなかった。次屋ちゃんはぐっと伸ばしたジャージの袖で乱暴にふき取り、叫ぶようにひっそりと紡いだ。

「先輩が卒業するの、嫌だ」

 過去には戻れない。あるのは未来に続く道だけ。一つ息を吐いた。次屋ちゃんは我慢してたのだろう。ずっと隠して。なんていじらしいことか。
 もう一度身を乗り出し優しく頭を撫でて抱きしめてあげる。次屋ちゃん、次屋ちゃん。

「ごめんね。これはどうしようもないことなんだ。留年でもしてあげれば良かったけど」
「そういうわけじゃ、ない」
「うん。知ってる。全部理解してるもんね。次屋ちゃんは、馬鹿な子じゃあないもんね」

 落ち着くまで、ずっと抱きしめて、まるで大きい赤ん坊のように、あやし続けた。

「――落ち着いた?」
「はい」

 真っ赤に目を腫らした次屋ちゃんは、少しすっきりした顔をしていた。私もすこし感情の整理ができたような気がする。堪えていたけど、私だって辛くて泣きたい。

「休憩時間終わったんで、もういかなきゃ」
「そうだね。私も一緒に行くよ。ついでに教室にも途中で寄って、ね」

 次屋ちゃんの背中をぐいぐい押し、私達はラウンジから出て行く。甘い空気を孕む幻想から、冷たい痺れる現実へ。
 次屋ちゃん、私はね、悲しいだけじゃないんだ。貴女を待つのが楽しくて仕方なくもあるの。だから早く追いついてきてね。私の可愛いかわいい後輩ちゃん。

13/03/18