二話


 いつもより早く目が覚めて、支度もすぐ終わったから、今日は早めに家を出た。のんびり駅の改札を通るとちょうど乗る予定の電車が来る。通勤通学ラッシュで、車内は今日も満員だった。いつもより一本早い電車は、普段の車両より気持ち混雑しているように感じた。ぎちぎちの満員電車の中、吊り革に捕まりながら電車に揺られる。

 この間、リカちゃんとテニス部を見に行って以来、私はちょこちょことテニス部の見学に行ってしまっている。リカちゃんが部活で居ない日も、一人で。もちろん、忍足くん目当て。テニスをしているところはもちろん、タオルで汗を拭いたり、飲み物を飲んだり、部員と会話をしていたりするところも、一挙手一投足に目が離せなかった。なんか、これじゃストーカーみたいかも・・・いや、さすがに私生活を尾行したりだとかはしていないけど。こんな風に見ていると、同じ学年の人だってことも忘れてしまいそう。別世界の人を見ているみたい。話しかけられる日なんて来るのかなあ、知り合いにならないと話しにならないのに・・・。はぁ、とため息をついたところで、お尻の辺りに違和感を感じた。

「え、っ・・・」

 最初は鞄か何かが当たるような感触だったから気にしないでいたところ、さわ、と手のひらの柔らかさを感じた。それが電車の揺れとともに撫でられたかと思えば、がっちり片側のお尻をつかんできた。全身ぞわぞわっと粟立つ。ち、痴漢だ、これ。気持ち悪い。人が多すぎてうまく身動きも取れないし、何しろ怖くなってしまって声が出ない。

「や、やめてください・・・っ」

 勇気を振り絞るも、消え入るような声で全然覇気がない。痴漢男に対してそれは逆効果だったみたいで、スカートの上から触られていたのが、中に侵入してきた。

「君、可愛いね・・・良いお尻してるし・・・興奮してる・・・?」

 ゾワワッと全身に鳥肌が立つ。気持ち悪い気持ち悪い、ふざけんなって怒鳴りつけてやりたいのに、気持ちとは裏腹にうまく声を出せなくて。ムニュムニュ触られているのが気持ち悪いし、その痴漢男のものであろう荒い吐息が首筋に当たるのがめちゃくちゃ不快だった。もうすぐ降りる駅だ、早く、早く電車ついて・・・! 泣きそうになりながら耐えていると、急にお尻を触っていた手が離れた。

「おい、何してんねんおっさん。」
「ヒッ・・・!?」

 振り返ると、痴漢男が私を触っていた手を取り上げられていた。そして、その腕を掴んでいるのは、他でもない忍足くんだったのだ。キッと痴漢男を睨め付ける忍足くんに、こんな状況でもドキドキしてしまう。

『氷帝学園前ー、氷帝学園前ー。』
「っ!!」
「あっ待てやクソジジイ!」

 電車が止まってドアが開いた瞬間、隙をついて男は逃げ出した。忍足くんはすぐに追いかけようとしたけれど、ここで降りる人と乗り込んでくる人の数が多すぎてすぐに見失ってしまった。私たちもここで降りるから、結局電車は降りたのだけど。

「あの野郎・・・」
「あ、あのっ」
「ん、あぁすまん、逃がしてもうた・・・大丈夫、やないよな」

 先ほどまでとは打って変わって、優しく声をかけてくれる忍足くん。や、やっぱりかっこいい。まさか同じ電車に乗っていたなんて・・・今まで電車で見かけたことなかったから、全然知らなかった。

「なんかその、ごめんなさい、助けてもらっちゃって」
「ええんよ、そんなん。怖かったやろ」
「声、出なかった・・・」
「そらそうや。もっと早よ気付いてやれたら良かったんやけど」

 忍足くんは優しくそう言葉をかけてくれて、それだけでもう胸が一杯になった。さっきまでの怖かった気持ちが、あっという間に上書きされていく。犯人には走って逃げられてしまったけど、念の為駅員さんに事情を報告しに行って、それも忍足くんがついてきてくれた。学校には間に合うけれど、朝練とかじゃなかったのかな。申し訳なく思う気持ちと、まさか忍足くんと二人で話せる日が来るなんて、と信じられない気持ちが混ざる。だって、そのまま一緒に駅を出て、忍足くんと登校してる・・・!

「あ、あの、私! C組のみょうじなまえって言います」

 声が震える。裏返ってないか心配だった。でも、こんなチャンス滅多にないはず。痴漢にあったのは災難だったけど、忍足くんに助けてもらえて、二人で登校できるだなんて、超ラッキーだ。こんなチャンス無駄にしたくない。

「みょうじさん、な。よろしゅうな。俺はH組の忍足侑士っていうねん」
「忍足くん。今日は、本当にありがとうございました」
「ええよ、そんな。てか、なんで敬語やねん」
「あ、あはは」

 知ってはいたけど、改めて本人に言ってもらえると嬉しくなる。これでひとまず、知り合いには慣れたわけだ。最初の一歩だけど大きな一歩のはず。ここから頑張らなきゃ。
 それから学校までの道で、一緒に話をしながら歩いた。今日はたまたまこの電車に乗っていただけで、いつもは違う方向から来るらしい。忍足くんは読書が好きで、最近読み始めた本の話をした。聞いてすぐ、その本のタイトルを忘れないように頭の中で復唱した。昼休み、図書室に行ってみよう。駅から学校まではほんの十分もないから、あっという間に着いてしまって。部室に寄るから、と校門前で別れた。そうしたら偶然その場でリカちゃんに会えて、忍足くんと話していたのを見てびっくりされた。リカちゃんに飛びついて、朝助けてもらった話をした。浮かれっぱなしの私の話を、リカちゃんは優しく聞いてくれた。

 翌日。朝、つい電車内を見回したけれど、忍足くんは居なかった。普段は違う電車だって言ってたもんね、仕方がない。ダメ元ではあったものの、少し残念に思う。忍足くん、今日も朝練なのかな。毎朝大変だよなあ。また、一緒に登校できる日、くるのかな。
 私の教室の席は、一番窓際の前から二番目の席。大の苦手な化学の授業は眠気を誘う。ああ、早く終わらないかなぁ、なんてぼんやりと窓の外を眺めていると、忍足くんの姿を目が捉えた。
 体育の授業中だったようで、男子生徒と話しながらボールを持って歩いていた。サッカーボールだ。テニスのイメージしかなかったから、新鮮。化学の授業なんてその後全く耳に入ってこなくて、ずっと忍足くんの姿を目で追いながら、忍足くんのことを考えていた。
 背が高くて、スラッとしてスタイルが良い。足も長いなぁ、モデルさんみたいだ。男の人にしては長めの髪は、癖っ毛だけど不思議と嫌な気持ちにさせなかった。程よく筋肉がついて、男の子らしい体格。・・・かっこいいなあ。やっぱり同じように思う女の子なんてたくさんいるんだろうな。

「・・・彼女、いるのかなぁ」

 居ないわけないよなぁ。この人気じゃ、きっと中等部の頃から大人気だろう。忍足くんほどの人なら、きっと美人な女の子たちだって惹かれるに決まってる。どんな子が好きなんだろう。人気者の恋愛なんて、凡人の私には全く想像がつかなかった。

 次の授業は美術。教材を持って、リカちゃんと美術室へと向かっていた。校舎が大きい分、移動も大変だなぁ。そう思っていたのもつかの間。向かっている方向の曲がり角から、忍足くんが歩いてきたのだ。

「あっ・・・」

 わかりやすく反応してしまって、足が一瞬止まる。リカちゃんもそれに気づいて、どうした?と顔を覗いてきた。だめだ、不自然すぎる。深呼吸をして、前を向く。忍足くんと目が合った。

「お、忍足くんおはようっ!」

 声が上ずってないか心配だった。リカちゃんはびっくりしたような顔で私を見ていた。心臓の音がどんどん早くなる。挨拶だけでどんだけ緊張してるんだよ、私。

「あぁ、おはようさん。今朝はなんともなかったか?」
「あっ、う、うん! 全然平気!!」
「そうか、よかった」

 眼鏡の奥の目が優しく笑って、ドキドキする。私のこと、ちゃんと昨日会った人だって覚えていてくれていただけでも嬉しかった。社交辞令でも、心配してくれたことも。

「なんだよ、なんともないかって」
「いや、こっちの話やって。ほな」
「あ、うん!」

 一緒に歩いていた赤髪の男の子が不思議そうな顔でこっちを見ていたのが少しだけ気になる。でも、ほんのちょっとだけど、会話ができた!!顔が真っ赤で、浮き足立ってるのがわかる。ぐるっ! とリカちゃんの方に振り向くと、苦笑いされつつも、「よかったね」と言ってくれた。そんなに私、浮かれ顔だったんだろうか。私はルンルン気分で、スキップで美術室へと向かった。ばかみたいだけど、幸せだった。そう、完全にばかだったのだ。


「あれ、絵の具足りない」
「なくなっちゃったの?」
「いや、赤がチューブごとないの。教室置いてきちゃったのかも。とってくる!」

 絵の具の赤がまるまるないことに気がついた。新品をセットで買ったから買い忘れたなんてことないし、きっと教室のどこかに落としたんだろう。私は先生に事情を話して、一度教室から出た。
 絵の具は机の近くに落ちていて、簡単に見つけることができた。早く戻らなきゃ、描く時間なくなっちゃう。さっき通った道順だと、授業をしているクラスを横切らなきゃいけなくて、ちょっと気まずい。それに空き教室が多い道を通ったほうが、さっきよりもショートカットできそうだった。・・・来た道を戻れば、知らなくて済んだのに。
 空き教室を幾つか通り過ぎていると、人がいるのが見えた。

「ゆーしっ」

 女の子の声だった。なんだか、甘えた声。後姿が見えた。髪の長い女子生徒の隣に、男子生徒がいる。嫌な予感で、足が震えた。さっきまであんなに幸せで浮き足立っていたのに、今は信じられないくらい重い。
 ゆーし。ゆうし。聞き覚えがあったその名前は、忍足くんの下の名前。

「なんや、まだ足りひん?」

 聞き覚えのある関西弁。低くて甘い声。女子生徒と一緒に居たのは、他でもなく、忍足くんだった。






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