行けばいい
のに
鬼灯からの提案は確かに悪くないと思うが名前は受けるか迷っていた。本当にそんな非現実的な話があるのかということはもちろんだが、誰にも告げずにここを去るのかと思うと少しためらわれた。
悩んでも悩んでもときの流れが遅くなるわけでもなく、あっという間に例の水曜日になってしまった。少し思い足取りでバイト先に向かえばすでにスタッフルームには鬼灯の姿があった。
「名字さん、おはようございます」
「あ、おはようございます。ほお…」
「しっ…」
鬼灯が口に人差し指を当てる。
危うく「鬼灯さん」と言ってしまうところだった。幸い、鬼灯と名前以外のスタッフはいなかった。
名前がカバンの中から帽子を取り出していると鬼灯が話しかけてきた。
「決心はつきましたか」
「………」
鬼灯の問いかけにすぐに答えられなかった。
「少し、ためらっていますか?」
「…はい。」
鬼灯は息を一つ付くと続けた。
「無理に来なくてもいいですよ。あなたが来たいといえば連れていきますし、行きたくないのなら連れて行きません。」
「すみません…。行きたくないわけではないんです。ですが、誰にも言わずにここを去るのかと思うとどうしても…」
名前は俯きながら言った。
「では、あなたがこっちに行きたくなるようなことを言ってあげます。」
名前はキョトンとしていた。
「誰にも言わずにとおっしゃいましたが、誰に言うのですか?学校にお友達はおらず、親からも見放されている。貴女と関わりがちゃんとあるのってここくらいではありませんか?しかしまた倒れて鬼の姿に戻ったらどうです?ずっと鬼であることを隠せると思っているんですか?」
「それは…。」
「誰かに止めてもらいたい。そういうことでは?」
「……」
確かに誰かに寂しがってもらいたかっただけかもしれない。しかし名前にそんな深い情を持ってくれる人なんていなかった。
この世では自分は一人ぼっちなんだ、そう思うと涙がこみ上げてきた。。
「それともう一つ。仮にこの世で結婚し、貴女に子供ができてそれが何代も続いたとしましょう。そのうち貴女と同じように先祖返りが生まれ、同じように苦しむ子供ができるかもしれないのですよ。」
名前はハッとした。結婚云々は別として、自分と同じ思いをさせるのは嫌だと強く思った。
「加々知さん…。私を地獄で雇ってください…。」
意思は固まった。
「わかりました。色々準備もあるでしょうし、2週間後に迎えに行きます。」
「はい。よろしくお願いします。」
鬼灯はちらりと時計をみると「時間ですよ」と言ってスタッフルームを後にした。
バイトが終わり、この二週間でやらなければならないことを考えてみると結構あった。引っ越しの準備に、学校の退学手続き、バイト先にもやめることを伝えなければならないし、それにケータイも解約して…考えただけで頭が痛くなりそうな程だった。なによりこの世から自分がいなくなるなら書類上の私の存在はどうなるんだろうか…。悶々とそんなことを考えているうちに家についてしまった。
鍵を開けて、誰もいなかった冷たい空間に一歩踏み入れば今日も無事、誰にもばれなかったことに安堵する。
ベッドに寝そべり、ケータイを開いて、電話帳でカ行を調べると一番上には「加々知さん(鬼灯さん)」という文字。
きっとどうにかなるだろう。
そう思って二つ折りのケータイを折り、そのまま寝てしまった。
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