五郎八は久しぶりの現世の青空をぼんやりと見上げた。桃源郷の空は朝焼けの美しさや雨の後の虹など美しいものを合わせたような良いとこ取りの空と言った具合だし、地獄の空は一生晴れそうに無いどんよりと重たい雲が広がるばかり。純粋な白い雲がポカリと浮かぶ青空は、生きていた頃にしか見ていなかった。亡くなった人間はこの青空が珍しいものになるだなんて思いもしないのだろう。五郎八はお香に借りた大きなツバの帽子を風に取られないように押さえつつ、少し前を歩く鬼灯の後を追った。生前もんぺを履いた経験はあったが、お香に借りた現代風のスキニーパンツは動きやすいが窮屈でなかなか動きづらいものである。その点前日に視察を終えた鬼灯は、Tシャツにジーンズなど現代の服装の着こなしもなかなかのものであった。

「鬼灯様はよく現世にいらっしゃるのかしら」
「ええ、まぁ。それにしても貴女は漢服姿しか見たことなかったんですが、意外と似合いますね」
「あらあら」
「さながらキャリアウーマンです」
「褒めても何も出ませんよ」

集団に続いて暫く畑の横道を歩くと、ネットの向こうの広大な土地に丸々と熟れた桃が見え始めた。するとぼんやりと現世を眺めていた五郎八も途端に顔を綻ばせた。鬼灯はそんな五郎八の表情を横目で見ながら、五郎八が通りやすいようにとネットを開けてやった。ツアーの案内人が一時間半の自由時間を言い渡すと、まとまっていた集団が甘い香りに誘われて散り散りになって行った。待ちきれないと言った五郎八の為に鬼灯は綺麗に色づいた大きな桃を差し出すと、五郎八は手にとってその芳醇な香りを嗅いだ。

「本当に桃がお好きなようで」
「ええ」
「思い入れでもあるのですか?」
「…秘密ですよ」
「ええ」
「私が初めて白澤にもらったものです」

五郎八はもう一度桃の香りを嗅ぐと、近くの水道で軽く桃を洗ってから小さく口を開けてかぶりついたみせた。途端に鬼灯の鼻にも強い桃の香りが届く。

「丸ごとですか」
「あら、果物は皮に一番近いところが甘いのですよ」
「まぁ、そうですが。未熟な桃には気をつけなさい」
「未熟な桃をバケツいっぱい食べなければ大丈夫です」
「知ってますよ」

鬼灯も近くの大きな桃の身をもぎ取ると、水道で適当に流してかぶりついた。無言のまま口を動かしてあっという間に桃を一つ食べ尽くした鬼灯は、入り口で受け取った緑のプラスチックのカゴに適当に桃を詰め込んだ。そしてまだ一つ目の桃を苦戦しながら食べている五郎八を見つめた。どうやら五郎八はあまり丸ごと食べるのが苦手なようで、何度も桃の角度を変えながらかぶりつこうと苦戦していた。顎にしたたりそうになる果汁を気にする五郎八にハンドタオルを差し出して、木陰へと誘導した。

「鬼灯様?」
「一つ聞きたいんですが」
「はい」
「貴女、転生する気は?」

転生。その言葉を聞くと、五郎八の手から食べかけの桃が転がり落ちた。平然を装いそれを拾おうとするも、泥と草まみれになった桃はもう食べれず、熟れて柔らかくなった桃の表面が五郎八の手の圧力を受けた歪んだ。地獄の王の審判を受け、きちんと転生の手続きを取るのが何百年と培ってきたこの世の理であることは五郎八も重々承知していた。五郎八は現に公式の手続きで死んだことにはなっていない。妖による行方知れずとされ、五郎八が嫁いだ先の家は妖の祟りだ気味が悪いとそのまま荒廃したらしい。そんなことは五郎八は知る由もないのだけれど。
五郎八は18であの男に嫁ぎ、世間知らずなりに必死に家を守ってきたつもりであった。あの男に恋慕の情はなかったが、夫婦になった以上それなりの愛情はあったのだ。しかし、その愛情はあっさりと裏切られて殺されかけた。あの当時五郎八の心の隙間を埋めていたのは確実に白澤の方だった。最初こそ生きる意味すら掴めなかった五郎八も、白澤と暮らし白澤に薬剤師という職を与えてもらってこうして生きている。幾ら自分が理に反した存在であったとしても、五郎八は白澤のそばを離れるわけには行かなかった。ただ白澤は自分のことを好きだというけれど、白澤は五郎八にそう言った関係になろうという意思は無い。それがとても悲しいのだ。

「貴女の言わんとすることはわかります。ただ、転生することで貴女の中にある過去の思い出も消すことも出来ます。今の地獄には情状酌量にも似た制度があります。貴女の過去からすれば転生も容易いかと思われますが」
「…私は」

鬼灯は落として汚れた桃を取り上げて籠の中から新しい桃を取り出した。五郎八はそれを見つめるだけで口にしようとはしなかった。

「…そうですね。転生、すべきなんでしょうね」
「おや」

鬼灯は五郎八のその言葉に素直に驚きを示した。提案程度はしようと思ったが、それを五郎八が簡単に受け入れるなど思っていなかったからだ。しかし、その言葉に反応したのは鬼灯だけではなかった。あっという間。ほんの一瞬のうちに白い塊が五郎八と鬼灯の間を遮った。