それは退屈凌ぎに過ぎなかった。
真っ白な獣が桜の咲く桃源郷から何気無しに現世を覗き込むと、そこに彼女がいた。化粧っ気のない素朴な風貌に華の無い野暮ったい格好ばかりしていたが、時折引く紅が恐ろしく綺麗に映える白い肌に柔らかな笑みが魅力的な女だった。退屈凌ぎに見つめるには充分なほどだ。女には亭主がいて仕事は出来たがあまり家庭に省みないようで、女は夜な夜な冷めないようにと夕食を作って寝ずに待っていた。桃源郷のような基本的に自由な環境に身を置いていれば縁のないことであったが、当時女が暮らしていた時代は所謂亭主関白で妻が旦那より先に眠ることは許されないのだ。次第に女は窶れていったが、綿のように毒気を抜かれる柔らかい笑みだけは絶やさなかった。ただ、そんな生活を続けていると女は蔑まれるばかりである。そのうち子供を作らない女に姑は石女と心無いことを言われるが、彼女のことなど点で興味のない旦那は日に日に弱る妻は目もくれない。次第に亭主の心は別の女へと移り変わろうとしていた。妻の元には帰ろうとしない亭主の帰りを待ち続ける女の姿は誰が見ても哀れでしか無い。しかし時折旦那の見せる気紛れに見せる笑顔が狂気的なまでに美しい。それがまた自虐的で獣はそのうちそれが可笑しくてたまらなくなってきた。


「辛くないのかい、あんな男待ち続けて」


耐え切れずに獣が女に声を掛けたのが、それからしばらく経ってからだった。火鉢の前でうとうとする彼女のそばに現れた獣は、獣の姿を見せるわけにも話を拗らせそうな男の姿で出向くことも出来ず、陰に隠れて女に近づいた。もうとっくに日も沈んだが、勿論家に亭主は戻っていない。女は何処からともなく聞こえる声に目を覚まして狼狽えるような仕草を見せるも、暫く考え込んでから火鉢の中の小さくなった火種を少し掻き回してからにこりと笑みを浮かべた。女は獣からの質問には答えずにそこにいて寒く無いかと問うが、獣は首を横に振った。耳についた飾りが角を数回かすめて、チリンチリンと音を立てる。女にその音の意味がわからなかったが、火が大きくなってきた火鉢を前にしても現れない声の主に目を細めてそうですかと安心そうに呟いた。

「あんな男が好きなんだ」
「…私が彼を好きであるかそうで無いかは関係ないのですよ。私は彼の方を支えねばなりませんからね」
「虐げられてまでそれはやり遂げることなのかい?」
「彼の方が私を要らないと言うまでは」

獣は女からの回答が心底気に入らなかった。ふうんと適当な返事をすると、女が火鉢を覗き込んでこちらを見ていないことを良いことに女の窶れて細くなった背中を眺めた。 女の背中から漂う死相にも似た負のオーラを獣は見て見ぬ振りをして、女の家から立ち去った。またおいでなすって。そう言った女の細い声は獣の鋭い耳にははっきりと聞こえていた。



獣はそれからも、女の亭主がいないことを良いことに何度も女の元を訪れた。ただ獣は初めて会った時のように女の気持ちを問うようなことはせず、他愛もない話をして女を笑わせた。そして決まって土産に桃源郷の桃を持ち寄る。自分の姿を見られたく無いであろう獣が白い毛に塗れ蹄のついた前足がたどたどしく桃を差し出す様子が女にとっても可笑しくて、女にとってもその桃が楽しみの一つになっていた。綺麗に色付き熟れた桃は柔らかく、思わず口元を緩めてしまう。

「実は美味しいし、桃仁は生理痛にも効くからね。効果的に使ってよ」
「そういうのを下世話というのですよ」
「酷いな君は」

女は前よりも良く笑うようになった。そして、不定期に訪れるこの一件不審者とも思われる来訪者の為に、窓の戸口に暖かい茶と茶菓子を用意するようになった。獣は茶碗に手を伸ばす時だけ人間の姿になるが、基本的には獣の姿でのんびりと廊下に寝転がり女の心地よい声を聞いた。

「どうだい。たまには何処かに出かけたら」
「外ですか」
「もう冬だよ。千両の実もなってるし山茶花も咲いてるよ」
「そうですね、そうですか」
「興味なさそうだ」

詰まらないなぁ。獣がその言葉を紡いだと同時くらいだっただろうか。玄関の戸ではなく女が腰を下ろしていた部屋の引き戸が勢い良く開いたのだ。勿論開けたのは女の亭主である。何故か血相を変えた男は女の胸ぐらに掴みかかると、そのまま火鉢に向かって女を放り投げた。女は頭に火鉢があたり、ガツンと酷い音を立てて畳に転がる。獣は目の前で起きた出来事があまりに唐突でその場を動くことは叶わなかった。男は少し開いていた引き戸の向こうで獣と女の会話を盗み聞きしていたそうだ。それがこの男は逢引に映ったのだろう。頭に昇りきった血に任せるように女の腹を殴り、顔を殴った。女はなにも言わなかった。ただされるがままに床にだらんと寝そべるばかり。

死んでしまう。獣は直感的にそう思いその場に飛び出すが、茶碗を掴んで獣の姿に戻ることを完全に忘れていた獣は、人間の姿のまま修羅場に飛び込んでしまった。それを見た亭主はさらに怒り狂い石女がと女を蔑んだ。男は女が蔑まれていたこともこうして待っていることも全て知っている。知っている上でこの男の中で優ったものが支配欲だったのだ。自分の支配対象が思いのままに動かない今の状況が気に入らない。男はそのような趣旨を叫び、女が用意した食事のそばにあった漆の箸で女の太ももにそれを勢い良く突き刺した。女は代わりに悲鳴一つあげなかった。

「っ、僕と行くと叫べ!言葉は契約になる!」
「ふざけるな!この女は俺のものだ」
「ふざけてるのはどっちだ!お前には別の女がいるだろ!」
「それとこれとは話は別だろう。男と浮気して許される女など聞いたことが無い!」
「一緒じゃ無いか!第一彼女はお前のことを待ち続けてたんだぞ!っ早く!お前このままじゃ死ぬぞ!」

獣には他にない力があったが、死んでもない人間を同意もなしに桃源郷に引き入れることはできなかった。獣は妖である。獣の言う契約とは即ち女の逃げたいと言う願いと引き換えに魂を譲り受けると言うもので、決して無条件なものではない。しかし、女を逃がすにはそれ以上のうまい案が見当たらなかったのだ。早く。獣は叫ぶが、女の口は無数に切れていて口を聞ける状態ではなかった。男はそれを満足そうに見下ろすと、女から突き刺した箸を引き抜いた。
男は挑発的に女の髪を引き、何か言おうものなら顔に箸を突き刺さん勢いであった。もちろん、獣が動けばまた然りと言った様子だ。
獣は女から男を離そうと一瞬で獣の姿になって見せるが、すでに混乱状態にあった男に効果はなかった。

「 」

女の名前を口にすることが精一杯だとでも言うように、獣は鋭い牙の見え隠れする口を動かした。しかしそれを答えるように女は血と痣で酷い状態になった顔を傾けて、薄くしか動かない唇を必死に動かして確かに言った。

山茶花が見たい、と。
獣はその言葉を契機と言わんばかりに女の細くてボロ雑巾のような身体を口に加えて一目散に桃源郷を目指した。獣は口の中で次第に冷えて行く女をただあの男から一番遠いところへと逃がすことしかできない不甲斐なさに、男と女が暮らしていた家の戸が粉々になるほどの力で叩きつけた。それから女は獣の一睡もしない賢明の看病で目を覚ましたが、目を覚ました時には魂はすでに獣と言う妖にとらわれていて何処に存在すべきでも無い存在へと変わり果てていた。

「ごめん 。」
「…いいんです。助けてくれてありがとうございました」
「君の名前と魂は契約で僕のもで2度と君に返せない。本当なら死んでしまうんだけど、でも僕は白澤と言う妖怪で君をこうして生かしてやることもできる。意思も感情も君のものだ」

白い獣、白澤は正直に全てを話すと女は笑って名前が欲しいと言った。贖罪のつもりで白澤は女に名前を与えた。女はその日から白澤に囚われた五郎八になった。外で暖かさを運ぶ風に揺れる山茶花の花弁が一枚桜に紛れて散った。