今日は珍しく三人揃っての配達だった。
白澤の弟子である桃太郎はともかくとして、今日の顧客は中国の方のお偉いなのだが、店主であり神獣でもある白澤よりも五郎八の方を痛く気に入っているからだ。降圧作用のある黄蓍を届けると、少しの世間話を交えてから桃源郷の賑やかな界隈にやってきた。初めてやってきた店の並ぶ風景を桃太郎は物珍しそうに眺め、白澤は街をゆく流行りの服を来た愛らしい娘たちに目を奪われている。意外とマイペースなところがある五郎八も五郎八で、店番を頼んだ薬剤師ウサギ達のお土産にと甘い香りを漂わす茶菓子を吟味していた。紫陽花を象った上生菓子や深緑をイメージさせる和菓子。どれも気を引かれたが、せめて少しでも夏を感じられればと透明の薄い黄色の羹からは輪切りのレモンが透けて見えて美しかった。上機嫌で購入を決めたが、購入して紙袋を受け取ってから辺りを見渡してみても白澤の姿も桃太郎の姿も見当たらなかった。初めてここに来た桃太郎のことは心配であったが、どうせ白澤のことだ。その辺で可愛い女の子を引っ掛て遊んでいるのだろうと思い、五郎八は人混みの中から二人を探すことを諦めて一人で帰宅することにした。

裾と袖の長い漢服は着物の文化がある国に生まれた五郎八にも動きづらいものだった。もとより五郎八が生まれ育った時代は既に洋装の文化が入って来ていて、五郎八も着物を来たのは正月などの改まった時だけであった。少しだけ裾をつまみ上げてからからと音を立てながら家までの道をたどるが、和菓子の紙袋をかけた右手をつかむ腕があった。色が黒くてささくれまみれ。骨ばってこそいるが女の子を扱う為にと手入れを欠かさない白澤の手でも、荒れにくいと言っていた肉付きの良い分厚い桃太郎の手でもなかった。振り返ると其処には明らかに桃源郷の人間ではない男がいた。桃源郷の人間は穏やかで、例え家を開け放って出掛けようが誰一人として荒らすようなことはしない。気性が根本的に穏やかなのだ。そういう人間だからこそ天国にいるのだと言われればそれまでだが、こんな邪悪を具現化したような男に会ったのは後にも先にも初めてであった。

「…何か御用でしょうか」

五郎八は出来る限りの柔らかな笑みを浮かべるも、それは逆効果だったようで男を付け上がらせてしまったらしい。調子に乗った男は自分の方に五郎八を引き寄せると、期限良さげに黄ばんだ歯を見せてニヤついた。

「一人だろ、こんなとこ女が寂しそうに歩いてどうするよ」
「いえ、私は別に…」
「いいじゃん、俺も暇でさ」

そう言うと、男は強引に五郎八の腕を掴んだ。毎日店周りの草抜きをして途轍もない量の生薬を擂り粉木で擦っているとは言え、女と男の力の差は歴然であった。男も男で五郎八の腕橈骨筋を親指で力強く押し、抵抗出来ないように動きを制限している。眉を寄せた五郎八を不審そうに見つめるものもあったが、先ほどの通り桃源郷の人間は穏やかで争いごとを好まない。遠目で不安げにするばかりであった。生前も死後もこういう経験がなかった五郎八はどうすれば良いのかわからず、あたふたとするばかりで明確な解決策が見当たらない。あまりに男が雑に腕を引くものだから、足取りが跳ね上がってしまい五郎八の漢服の裾が擦れた。終わりの見えない不安や焦りというのは、いつしか恐怖に変換されるのだと五郎八は悟った。しかし、それに終止符を売ったのが綺麗に手入れされたささくれ一つ無い骨ばった手だった。

「君なにしてるの」
「あ?」
「誰の許可とって五郎八に触ってるのかって聞いてるんだよ」

手の主は白澤だった。今まで何処にいたのかなど聞きたいことはたくさんあったが、今の五郎八はそれどころではなかった。対して神獣はまさにご立腹と言ったように細い目をさらに釣り上げて男を睨みつけた。普段の柔らかい物腰は消え、表情にはおどろおどろしさすら感じられる。元々あの恐ろしい形相の鬼灯と似通った点のある白澤だ。白澤が彼のように眉を顰めて目を釣りあげればそれなりに恐ろしい顔になって当然なのだ。白澤は慣れた手付きで、まるで麩菓子を扱うかのような雰囲気で関節を本来ならば曲がらないであろう方向に捻じ曲げた。男の手はあっという間に五郎八から外れ、そのまま男は逃げて行ってしまった。
五郎八は嵐のような出来事に目を白黒させるばかりである。しかし、掴まれた腕を見て見ると不健康なまでに白い腕には真っ赤な掴み痕がついていた。五郎八としてはそんなことはどうでもよかったのだが、目の前にいた男にとってそれはそんなことで片付けられるものではなかった。「吃驚した」程度で済ませようとした五郎八を睨みつけると、怯んだ彼女にも御構い無しに腕に抱え込んだ。

女の子を引っ掛けていたのでは。そう思っていた白澤の衣服からは甘くて若い子向けの香水の匂いなどせず、自分を走って探したのであろう証拠の汗の匂いがした。その事実に五郎八は複雑でとても泣きそうな気持ちを抑えずにはいられなかった。