天国の桃源郷にある極楽満月には、いつも穏やかな空気が流れている。
元よりここは仙桃の甘く芳しい香りで満ちているし、吹く風は穏やかで、外で飛び跳ねるうさぎたちものびのびと暮らす平和なところだ。そして何より、極楽満月で働いている彼女の存在が大きいのだろうと、桃太郎は漢方薬の資料に目を通す五郎八を盗み見した。
彼女はとても美しく、まるでこの桃源郷のように穏やかな人だった。白澤が泥酔して帰ってくれば、お決まりのように「あらあら」と笑って介抱をするし、関係が拗れた女が極楽満月に乗り込んで来た時も、同じように「あらあら」と静かに頬に手を添えるだけ。また、本当は仙桃よりも水蜜桃が好きなのだと言って、現世視察に赴いていた鬼灯に秘密で貰った土産の水蜜桃を、白澤の庭でこっそりと育てているお茶目な面もある。他にも、基本的に常に財布の寒い桃太郎の事情を知っている五郎八は、よく天国や地獄に桃太郎を連れ出しては、美味しいと評判の店に連れて行っては、たらふく食べさせてやるのだ。
五郎八は優しいというより、もはや目先の損得勘定などに捉われるとこはない。自分がしてやりたいと思うことをする。ある意味欲にとても忠実な人であったが、その欲はあまり自分に向くことはないようだ。

そんな彼女だからこそ、きっと白澤も特別大切に思っているのだろう。そんなことを考えていると、桃太郎は、昨晩から若い娘をたらし込んだまま帰ってこない白澤に頭が痛くなるのを感じた。
五郎八は桃太郎がここに勤める前からここにいた。最初は彼女も、女を取っ替え引っ替えにする白澤のそういう一人なのだと思っていたが、新しい女が現れてまた去って行くというのを3回ほど繰り返した頃、彼女は白澤にとってそういう女性ではないのだと悟った。白澤が彼女を特別な存在であると認識しているのは間違いなかったが、彼女と白澤の関係はとても捉えにくいものであった。かと言って本人たちに直接真実を尋ねるには、少しばかり勇気がいった。しかし女にだらしなく、彼女とは逆の意味で欲に忠実なあの男の傍にいる彼女が、白澤のことを嫌いなはずがない。桃太郎には彼女の優しさが、とても自虐的に思えてならなかった。

「五郎八さん」
「桃太郎くん。そろそろ白澤が帰ってくるから準備しましょう」「…え?そんな連絡ありましたか?」
「わかるんですよ」

長年の勘です。と退紅色の唇が弧を描くとほぼ同時に、ぴしゃんと戸が乱雑に開く音がした。途端に部屋に満ちるアルコールの臭いは、五郎八が開けた向かい窓から風に乗って流れていった。足がおぼつかなくなるほど飲んだのであろう、白澤のアルコールの臭いに連れ立つのは、ここにある桃の香りとは違う甘く、若い娘が好みそうな香水の匂い。桃太郎は余りの醜態に思わず眉をひそめるが、五郎八は何を気にした様子もなく、慣れた手付きで玄関から白澤を自室まで運んだ。桃太郎もこのままでは嘔吐しそうだと喚く白澤にため息を吐き出し、コップ一杯の水と、二日酔いに効く薬を片手に白澤の元に向かった。


「好きだよ、五郎八」


足がすくんだ。白澤の自室一歩手前で、そんな声が聞こえたからだ。呂律は半分回っていなかったが、今の声は確かに白澤の声である。桃太郎は手に持ったコップを落としかけた。その言葉を聞いてまた「あらあら」と微笑む五郎八の表情が、これ以上ないほどに苦しげなものであったからだ。
いつも自分のことは二の次三の次にしてしまう彼女だからこそ、自分くらいは彼女の幸せを願っても良いのではないか。そう感じた桃太郎であったが、ふつふつとマグマのように次々に湧き上がる言葉は、全て嚥下せざるを得なかった。五郎八は既に何時もの穏やかで嫋やかな笑みをこちらに向けるのだから。