うかれて泥濘

自身の肩に恐る恐る視線を向けると、真っ白な頭が重しのように私に預けられていた。叫びそうになったのを何とか口元を抑えて堪える。


「ご、ごごご、五条くん...!?大丈夫!?」


慌てて声をかけると、五条くんが顔をむくりと持ち上げた。ズレたサングラスから揺らぐ青色の瞳がこちらを見上げる。


「うるせーよ」
「す、……みません…」


よくよく観察すると、頬は赤く染っていて、触れている肩から伝わる体温も熱い。まさか――。


「……酔ったの?」
「…あのひとくちで?」
「嘘だろ」
「え、五条ってまさか下戸!?」


いかにも面白いものを見つけた、という視線が六つ、自身へ向いても、五条くんは据わった目で素知らぬ顔。


「あー邪魔」


五条くんがうっとおしそうに眉をひそめたかと思うと、真ん丸なサングラスが宙を舞う。ガチャンッと悲しい音を立てて床に着地したそれに、私は息を呑んだ。


「ご、五条くん。サングラス、割れたんじゃない?取りに行かなきゃ…」


相手は酔っ払い。相手は酔っ払い……!体が触れ合うような距離感にそう言い聞かせても、どうしたって気持ちがムズムズと疼いてしまう。何とか距離を置こうと、そう提案したのだけれど、五条くんは、そんな私の様子を見てきゅうっと目を細めた。その時、彼は何を思ったのだろう。次の瞬間、グイッと強く腕を引っ張られ、私の体はあっという間に傾いていく。


「え、」


バランスを崩したすぐ先で熱い何かに包まれた。ヒュッと細く自分の喉が鳴る音と、歌姫があげる悲鳴めいた声をどこか遠くで聞いていた。


「つめてー。やわらかい…きもちいー」


擦り寄せられた熱い吐息。頬へと触る柔らかな髪の毛。じわじわと伝わる高い体温。いつの間にか背中に回っていた腕がぎゅうっとすっかり固まってしまった私の体を締め付けた。


「俺のこと、嫌いなんでしょ」
「……え、」


ゆらゆら、ゆらゆら。目の前で青空が揺れている。まるでお互いが吸い込まれるように、ゆっくりとアルコールを纏った空気が近付いてくる。――あ、まずい。ぎゅっと唇を噛み締めた、次の瞬間。目前に迫った五条くんの顔が苦しげに歪んだ。グェッと潰れた声を漏らした彼はぼんやりとした熱だけを残して急激に私の前から去っていく。ひとつ、瞬きをすると、ひどく冷たい目をした夏油くんが、五条くんの首根っこを捕まえているのが見えた。彼が、五条くんを引き倒したのだ。五条くんの体は、ずるずるとそのまま後ろへと引き摺られていく。


「悟、たとえ酔っていたとしても合意なしにそういうことをするのはセクハラだ。覚えておくといいよ」
「ハァ〜〜〜!?まるで俺を変態みてーに……傑ぅ!!!!」


「夏油、ナイス」


くいっと腕を引っ張られて、そちらへ視線をやるといつの間にやら五条くんのサングラスを纏った家入さんが、私の腕を自身のそれに絡め取りながら、グッと親指を立てていた。


「家入さん、」
「……びっくりしましたね、名前さん」

私の顔を見た家入さんは一瞬目を見開いたあと、柔らかく微笑んだ。家入さんの温かい手に頭を撫でられて、私はようやく飲み込んでばかりだった息を大きく吐き出す事が出来たような気がした。



300mLの控えめな瓶の残りが少なくなっても、奥の壁際にあるソファに項垂れるように座っている五条くんは動かなかった。……何となく、気になってしまう。ここで精算しておかなければ、先程のことが一生自分の中にどうしようもない感情として留まり続けてしまうような気がしていた。私はひとつ、息を飲み込んで、グラスを各々煽りながら楽しげに話し込む三人を背に五条くんが座るソファへと向かった。


「あの……五条くん、大丈夫?何か飲む?」
「…――――そう。」
「……え?」


普段の快活さはどこへやら。遠く離れた三人の会話にすら負けそうな声量で呟かれた言葉が上手く聞き取れず私は耳を寄せた。


「………………吐きそう」
「えっ」


情けなく固まった私の体を腕で押しのけた五条くんがヨロヨロと立ち上がる。色白の彼の頬は、それ以上に色を失くしていた。


「……トイレ、行くからどいて…」
「……あ、」


彼の体の動きがピタリと止まる。気付けば私の両手が彼の腕を掴んでいた。眉間にとんでもない量のシワを寄せた彼がジトリとこちらを睨む。


「……私も、行く」
「…………ハァ?」


――自分でも意図しない方向へと体が動いていく。まるで脳みそと、気持ちと、体がばらばらになってしまった、そんな感覚。思えば五条くんが関わる時の私は、いつもそんなふうに情けない。でも、何だかそれでもいいと、そう思った。お酒のせいで強気になっていたのかもしれない。半ばやけくそになった私は五条くんの腕をぐいぐいと引っ張る。


「…………最悪」


途中、消え入りそうな声が聞こえたけれど、抵抗する元気もないのか、彼ももうやけくそなのか、こちらへと寄りかかってくれるその温もりがどこか心地よかった。


共有のトイレがそこまで遠く離れていないのが幸いだった。便器の前にしゃがみ込み、苦しそうに五条くんが嘔吐く。丸まった背中へ伸ばした手は一瞬空を掴んで、結局何も触れることなく自分の元へ戻ってきた。しかし、涙で潤んだ青い目が彷徨うようにこちらへ振れたのを見て、今度こそ私は彼の背中に手を添えた。なるべく優しく上下に動かし、時折軽く叩いてやると、ぶるりと身体を震わせた五条くんが体に溜まったアルコールを便器へと吐き出す。


「上手だね、五条くん。大丈夫。大丈夫だよ」


虚ろな青色がこちらを睨むけれど、あの時以来、苦手意識があった彼の瞳も、ここ数時間で鋭さ以外の色を見たおかげなのだろう、幾分かまともに見れるようになっていた。


数分後、ようやく落ち着いた様子の五条くんの腕を引いて、休憩スペースへと足を運んだ。ベンチに寝転ぶ五条くんの近くに腰掛け、キャップを取ったペットボトルを差し出す。目元に押し付けた腕の隙間からこちらをチラリと見た五条くんは体を起こして、素直にそれを受け取った。吐いたことによってかなり酔いも覚めたようだ。雰囲気はすっかりいつもの五条くんに見える。ペットボトルに口を付ける彼を観察していると、突然、大きな手が私の視界を覆った。


「……あんま見ないで」
「あ、ごめ……」
「…………今の俺、超かっこ悪いから」
「…………」


彼の言葉をゆっくりと咀嚼して、理解して、私は思わずぽっかりと口を開けてしまった。五条くんは今どんな顔をしているのだろう。どうしたって知ってしまいたくなって、五条くんの手を両手で掴み、下にずらす。すると思ったよりあっさり私の視界は晴れていく。口元に手を当てて、そっぽを向いた五条くんの耳が少しだけ色付いているのを見て心臓が大きく音を立てた。


「五条くん」
「……何」
「……あのね、私……その……」
「…………」


――五条くんとの今後の関係性を決めるのは紛れもなく今だ。


「私、五条くんのこと嫌いじゃないよ」


五条くんが勢いよく、こちらを振り向く。暗ぼったい蛍光灯の光すらよく集める彼の瞳の周りにちかちかと光が舞う。


「あの、これまでおかしな態度を取ってごめんなさい。あまり関わることもないかもしれないけど、卒業まではどうか歌姫やほかの一年生と同じように仲良くしてくれたらなって…」


もう随分長いこと新たな友人ができたことがない私から出たのはこんなどうしようもない言葉だった。大きく見開いた青空がきゅっと窄む。嘲笑、嫌悪、疑念。そんな言葉が頭に巡ったけれど、目の前の五条くんの表情が顕したものは私が思い描いていたどの感情とも違っていた。


「……んだよ、それ」


口角を左右へ大きく引き上げた五条くんは、それはそれは綺麗に笑って見せた。また。まただ。また私の心臓が大きく音を立てる。五条くんの指がゆっくり折り曲げられて、私の両手を柔く握り返す。それはまるで初めましての握手のように。


「しゃーねぇな。まあテキトーに仲良くしてやるよ。……名前センパイ」
「……うん、よろしくね。五条くん」


昂る心音も、じわじわと高揚する気持ちも、きっと何一つ隠せていない。そんなどうしようもない表情で、私はこの時五条くんとようやく初めて向き合ったのだ。


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