夢から醒めそうな距離で

弟のことを告げた時、五条くんは挑戦的な顔つきで笑った。どこか遠くを見やった五条くんの視線はすぐこちらに戻ってきて、情けない顔をする私に今度はまた違った顔で笑ってみせた。くしゃっと弾むような笑顔だった。


『大丈夫だって』


そう言って私の頭をかき混ぜた五条くんに、ほんの一瞬弟の顔が見え隠れしてそわりと心臓が音を立てた。



あの日の寒さが嘘のように、照りつける日差しが暑い。入道雲が浮かぶ満点の青空を仰いだ五条くんがサングラスを上に引き上げて、またひとつ唸り声を上げた。


「傑、絶対体に何か仕込んでるわ。そうじゃないならあんなに体固いの有り得ねぇ」
「…ふふ」
「はぁ〜?面白くねーって。マジだよマジ」


笑った私に眉をひそめた五条くんの手元には炭酸飲料やら、スポーツドリンクやら、色んな形をしたペットボトルが吸い付くようにいくつもぶら下がっている。


近々開催される交流会に向け、一年生の二人、夏油くんと五条くんは、むしろ在校生全員から頼み込まれるような形で出場が決まった。ここ最近は授業もそこそこに、時折上級生も混じえながら特訓を重ねている。そんな最中、


『手合わせで負けた方が、全員分のジュース買い出しな』


そう言い出したのは他でもない五条くんだった。申し出に数秒とかからず名乗りを上げた夏油くんと、凄まじい体術三本勝負を繰り広げた五条くんは、結局夏油くんに一度も勝てることなく、こうして大量のペットボトルを抱えている。私はその"おつかい"のお供に任命されてしまったのだ。まあ、ペットボトルは五条くんが術式で難なく全員分を持っているので、お供は何の役にも立たないのだけれど。購入してからほんの数分しか経っていないというのに、それらはじわじわと汗をかき始めていた。


「本当に体術が強いね、夏油くん」
「……二勝一敗のつもりだったのに予定狂ったわ」
「技術の差っていうよりフィジカルの差かも。ほら、夏油くんってたくさんご飯食べるから」
「そこかよ」
「っふふ、冗談。…でもやっぱり最後は夏油くんの力押しが効いていたんじゃないかな」
「傑はスタミナあるから最後の最後まで手数と威力が衰えねぇんだよなー…。ま、呪力強化アリにして呪力消費も考慮したら、俺の圧勝だけど」
「でも、二人とも本当にすごいね。体術だけで見ても、少し上の年代まで二人に敵う人いないよ、きっと」
「トーゼン。最強だし、俺達」


ずいぶんと穏やかなトーンでそう言った五条くんの横顔を盗み見て、口角を緩めた。親友、好敵手どちらの言葉もしっくりくる関係性の二人はこうしてこれから先もお互いを高め合っていくのだろう。二人がいる呪術界の明るい未来を想像したところで、五条くんがぼんやりと口を開いた。


「そういや、実際弟ってどんな奴なの」
「どんな…?」


呪力量、術式、センス。手合わせをしていた時の弟を頭の中で思い浮かべ、悶々とした結果、結局思い当たったのは無邪気に笑う弟の顔だった。求める情報とは違うとわかりつつ、口に出さずにはいられなかった。


「…いい子なの」


「姉ちゃん」と私をまだ姉だと呼んでくれていた時の弟は、よく笑い、活発な子だった。深い深い記憶を辿るのに合わせ、ふと目の前に視線を移す。辿り着いた先の先。くしゃっと弾むような笑顔に淡く青色が滲んだのを見て、ドクリと大きく心臓が音を立てたような気がした。


「……五条くんに、少しだけ似てるかも」
「……は?」
「頭の回転が早いところとか…、どんな場面でも冷静なところとか、…努力家なところも。あっ、それに強さの追及にすごく一途なの!どうして今まで気づかなかったんだろう。だから私五条くんと――」
「……俺と、何?」


話すのに一生懸命で、気づかなかった。体が陽光に艷めく制服に軽く当たったところで、ようやく足が止まる。目の前に迫った高専の校章を模したボタンは間違いなく五条くんのものだ。


「センパイはさ、俺のこと弟みたいだとか思ってんの」


真上から降ってきた声は刺々しい。できた影を見上げると、そこには案の定こちらを射抜くような鋭い視線があった。反射的に後ろに下がった足を咎めるように腕が掴まれ、制服が手の形に合わせて歪む。それと同時に大量のペットボトルが地面を打つ大きな音が辺りに響き渡った。


「…それとも、俺は上手くいかなかった弟の代わり?」
「……そんなこと、一度も……」
「じゃあ、さっきなんて言おうとしてた?」


――五条くんと昭人が似てるから。自分が口走ろうとしていたことを含んで、繰り返して、私は掴まれていない方の手で自分の口を覆った。


「…ふーん、」


何も言葉を発していないのに、何かに納得したようにそう呟いた五条くんが勢いよく肘を折ったことで、彼との距離が急激に縮まる。今度はボタンが目の前に、なんてそんな距離ではない。彼の腰と、私のお腹がぴったりとくっついている。ハッと息を飲み、腰を引こうと動いたところで、それを察したらしい彼は迷うことなく私の腰に腕を回した。


思い返せば五条くんと距離が近いことはこれまで何度かあった。でも、どちらかといえば彼はパーソナルスペースが狭い方で、夏油くんや硝子ちゃん、歌姫にも距離を詰めているのを見かけたことがある。それに何より彼特有の柔らかい距離の詰め方が私は嫌ではなかった。でもこればっかりは違う。顎を掬われて目線が上に上がる。拒んでも、拒んでも、視線を合わさずにはいられない。サングラスを取り去った彼の青色の真ん中。瞳孔を陽炎のように揺らす感情と、この時私は初めて向き合った。


引き寄せられた時の強引さに比べて、唇同士の触れ合いはひどく優しかった。彼の唇が私の唇を啄むようにして、すぐに離れる。離れ際に残されたリップ音も、髪を揺らすだけの暑熱をはらむ風にかき消されてしまうほど、柔らかく、まろい。少しだけ唇が離れた代わりに、今度は額同士が触れ合った。混じり合う彼の前髪が光を反射して私の視界にきらきらと星を回す。


「…俺らがこうして関わってるのに他の誰も関係ねぇよ。ただ俺が、苗字名前っていう人に出会って、その人のことを知って、したいことをしてるだけ。センパイは違うの?」
「……ッ。ちが――」


こちらを一心に見つめていた五条くんが、少し視線を後ろにずらしたかと思うと、私の両肩に手を置き、そっと体を離した。間際、名残惜しそうに彼の親指が私の唇をなぞる。ダメ押しでもう一度私の顔を覗き込んだ彼は表情を崩して、とろけるような笑顔で笑った。


「顔、真っ赤」


「五条〜、飲み物遅いぞ」
「チッ」
「……硝子ちゃん?」


声を頼りに視線だけ後ろを振り返ると、少し離れた距離に硝子ちゃんが立っていた。隣には夏油くんがいる。バサリと音がして視界を覆ったものが五条くんが羽織っていた制服だと気付くのにそう時間はかからなかった。


「もう一回やんぞ〜、傑」
「いいのかい?また負けることになるけど」
「上等だコラ。次こそ負かす」


二人の戯れる声が遠ざかる。顔にかかった制服をぎゅうっと握った。色濃く香る彼の香りが様々な感覚と感情を刺激して泣き出したくなる。すっかり力が抜けてしまった体を支えてくれたのは細いけれど頼りがいのある腕だった。


「名前さん」
「……硝子ちゃん、」
「あっち、戻りましょ。五条の奢りですよ〜」
「うん」


震える声で返事をした私に硝子ちゃんは何も言わなかった。ただ手を握って、五条くんの制服を頭からすっぽり被った私に何も聞かず、ただグラウンドに着くまで寄り添ってくれた。ぐちゃぐちゃになった感情を上手く処理できなかった私は、そんな彼女にお礼も言えないままだった。


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