弱虫と砂糖菓子

うさぎや、犬や、車や、太陽。そんなイラストが子供ながらの大胆なタッチで描かれている壁の前で少年が大きく口を開けて笑う。もう、あの時のように悲しそうな顔も、辛そうな顔もしていない。


「ありがとう、お姉ちゃん。僕のこと助けてくれて」


ふわふわと逆立った毛に手を沈めて掻き回すように撫でると、少年がまた楽しそうに声を上げて笑った。


「またね」
「うん!本当にありがとう。大きいお兄ちゃんと、大きい先生にも伝えておいてね!」
「うん、必ず」
「バイバイ!」


少年がまだまだ華奢な体をめいっぱい使って大きく手を振る。私も同じように笑顔で手を振り返して、彼に背を向けた。



バチンッ!


まるで虫でも潰したかのような汚い音で一気に"今"に引き戻される。清潔に整えられた客間に響き渡ったその音は、全てをかき消すように鮮烈だった。衝撃を受け止めきれなかった私の体は畳に転がる。


『ありがとう』


耳の中に響く甲高い音に、少年の声がかき消されてしまうのが嫌で私はゆるく頭を振った。噛み締めた唇からは鉄の味がする。何度も何度も、何度も何度も何度も叩かれて育ってきた。でもいなすことが出来なかったのはこれが初めてだ。母はこれまで、手加減をしていたのだと初めて知った。


「目を覚ましなさい」


震える低い声から、表面上冷静を装っている彼女の真意を汲み取ることは容易い。乱れた髪の合間から見上げた先にあったのは彼女の顔ではなく、きっちりと結ばれた帯の結び目だった。


「…一度は納得したことでしょう」
「でも私はまだ――」
「名前」


私の名前を呼んだその声は、決して大きな声ではないのにまるで鋭利な刃物のような鋭さで空間を切り裂く。口を閉ざしてはいけなかったのに、そこで結局踏みとどまってしまったのは、他でもない私の弱さの象徴だった。


「……貴方を産んでよかったと、」
「……」
「たった一度でいいからそう思わせてよ…!」


叩かれたせいか、それとも強く噛み締めたせいか。ポタリと口端からこぼれた血の上で、私は強く拳を握ることしか出来なかった。



玄関に向かう途中、広縁を歩いていると、視界の左端で勢いよく開いた襖に驚き、足を止める。恐る恐る見上げた先にあったのは、不機嫌そうな男の視線だった。一目で上等だとわかる着物を着流したその男は、そのまま私を一通り見下したあと、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。


「チッ、帰ってたのかよ」
「……昭人」
「どうりで家の空気がいつも以上に不味いわけだ」


吐き捨てられる言葉たちは母と同じように冷たく、重い。何と返したらいいか迷った末、結局何も言えずに口を紡いで俯いた。男、基実の弟、昭人と疎遠になってしまったのは間違いなく私のせいで、それでいて上手く対処出来ずに彼から逃げたのも正真正銘私だ。今更姉として、だとか、昔のように、だなんてそんなこと口が裂けても言えるはずがない。私が今彼にできることといえば、彼が少しでも不快な思いをしないよう、私の存在をなるべく認知させないこと、ただそれだけしかない。


腕を組んで壁へと寄りかかった彼の横を、息を殺すようにして通り過ぎたところで、牽制するように声をかけられた。地を這うような声色が情けない私を容赦なく責め立てる。


「……アンタ、五条ンとこの坊にずいぶん取り入ってるそうじゃねぇか」


――今、何て。


聞き返そうと顔を上げると、もう次の瞬間には壁に背中を強く打ち付けていた。肩を強く掴まれ、圧倒的な力で押さえつけられる。胸のあたりに押し当てられた腕が容赦なく私の肺を圧迫し、息が吸えなくなった喉奥がひゅうっと悲鳴を上げるのをどこか遠くで聞いていた。


「まさかここまで落ちぶれてるとはな」
「……違う、」
「そんなみっともないマネまでして、ここに残りてぇかよ」
「…そんなこと、してない。そもそも五条くんは……、そんな人じゃない……ッ」


歪んだ視界に落ちてきた顔は憎しみばかりが満ちていた。眉間に刻まれた皺をより一層深くした彼は、深淵に沈みこんだ瞳の奥底を鈍く光らせ、私から腕を離した。対処する間もなく膝から崩れ落ちたあと、ひどく咳き込む。喉も、背中も、胸も、まるで焦げ付いたかのようにヒリヒリと痛んだ。


「……どうだか。ま、いいや。五条は交流会で俺が潰すんだから」


彼が踵を返すと共に、深い藍色をした正絹の裾が揺れる。小さく震え出した手を強く握りしめて私は大きく息を吸った。


「昭人」


返事こそなかったが、少し離れたところで足が止まる。


「あんまり無茶しないで。…自分を、大切にして」
「ハッ、ふざけんな」


どこまでもイラつかせる野郎だ、と捨て台詞を吐いて今度こそ昭人が離れていく。彼の後ろ姿を見送ったあと、いよいよ大きく震え出した体をぎゅうっと自分で抱きしめた私は、恐怖を逃がすために大きく息を吐いた。



東京に戻ってきたのは、すっかり日が落ちた後だった。夏はもう、どこか遠くへ過ぎ去ってしまったのだろうか。湿気も、夏の残りの暑さも感じない。この時期にしてはずいぶんと冷えた空気を吸い込んで、鼻がツンと痛くなる。じわじわと目の前が揺らいで、徐々に足が動かなくなった。寮の入口まであともう少しなのに。頬を伝った雫が土に染み込んで、次から次へと模様を描く。ぐしゃりと前髪を掴むように顔を覆って、私はいよいよ地面にしゃがみ込んだ。


浅はかな考えだとわかっていた。ただ一つの成功がこれまでの人生全てを変えるわけじゃない。でもどうしたって私は呪術師でいたい。唯一望んだ願いを叶えるには呪術師でいなければならない。でも本当は――。


「名前センパイ」


柔らかな声とわずかな温もりを携えた布が冷えた体を覆った。彼の匂いだ。ここ数ヶ月で身に染みてしまった、彼の。


どうして。どうしてこういう時に限って現れるのが君なんだろう。


思わず漏れそうになった嗚咽を噛み殺して飲み込む。肩に置かれた手に誘導されるまま、私は隣にしゃがんでくれた五条くんへと体を預けていた。


「こんなとこで何やってんの。やっぱまだ体調悪いんじゃ……」
「違うの」
「……もしかして、泣いてる?」


俯いた私は手のひらに顔を押さえ付けて首を振る。ダメだ今喋れば、全部体の中から飛び出してしまう。体の奥の奥へ沈めて隠した、弱くて怖がりでどこまでも怯者な本当の私が。そんな私を知ったら、きっとみんなは私のことを軽蔑するだろう。君も、きっともう私の隣を歩いてくれない。君が隣にいることが、さめやまぬ夢の証明ひとつなのだ。だから、あともう少しだけ。ここにいる間だけ、どうか。


そんな願いも虚しく、私の手のひらは顔から引き剥がされた。腕を掴まれた拍子にパサリと悲しい音を立てて地面に落ちたのは、彼がよく着用している薄手のジップブルゾンだった。それを拾おうとする間もなく、顎に添えられた手に顔を持ち上げられ、彼としっかり目が合う。見開かれたその六眼で、五条くんは一体私の何を見るのか。想像しただけで恐ろしくて体が震えた。


「……は、マジで何があったの」


親指が切れた口端をなぞる。小さな痛みが背筋を伝い、顔が歪んだ。私が押し黙ると、五条くんはみるみる顔を不機嫌色に染めていく。そして何を思ったのか、彼は私の頬を両手で挟み、さらに上へと持ち上げた。すぐ目と鼻の先まで五条くんの整った顔が迫っている。


「ち……、ちか…。ちかい、五条くん」


胸元を押してもビクともしない。もうすぐ鼻先が触れそうという距離でようやく彼が口を開いた。


「見せてよ、センパイ」


瞼が支えきれなくなって頬を滑った涙を五条くんの指が乱暴に拭う。目を下に逸らそうとすると、彼が諌めるように頬に添えた手の力を強める。目を瞑っても同じだ。私は緩く首を振った。


「……どうして?」


その問いかけに彼は分かりやすく口をひん曲げた。彼が顔を逸らすことによって少しだけ距離が遠くなる。ようやく少しだけ、まともに息ができたような気がした。


「…センパイには俺の格好悪いとこ見られてるから」


私は思わずぽかんと口を開けた。そしてたっぷりと時間をかけてせり上がってきた感情がするりと顔に滲む。


「ふふ…」
「ハァ?何笑ってんだよ」
「ふ、ふふ…。いや、ごめん。そんなことかと思って」


場違いに笑った私に対して、視線を地面に落としていた五条くんが目尻をきっと上げてこちらを睨んだ。


「そんな事じゃねぇし。フェアじゃねーじゃんって話だよ」
「…じゃあこれでフェアってことでいい?」
「どうかな。センパイ、隠し事ばっかりだし」
「巻き込みたくないの、私の事情に。……でも、ごめんね」


私はギュッと目を瞑った。先程、弟としたやり取りが蘇る。小刻みに震え出した肩を握りしめて、大きく息を吐き出す。すると、その手の上に温もりを感じて、私は目を開けた。こちらを覗き込む青色は、どこまでも凪いでいる。


「今月末の交流会で迷惑をかけるかもしれない」
「…詳しく聞かせて」


五条くんが口端を引き上げた。あぁ、その顔。一見難しいと思われる物事ほど、五条くんは目を輝かせる。まるで新しい玩具を見つけたみたいに。その頼もしい表情が、私にも勇気をくれる。"大丈夫"、そう思わせてくれるのだ。


「俺らに対処できないことなんてねぇよ」


五条くんにこうされるのは、もう何度目だろう。私の手を握り込んだ手がまた私の体を上へと引き上げた。


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