強さ正しさの模倣

突如、祭りの中央に現れた見えない壁。恐怖と混乱に陥った信者たちは一斉にそれから体を背けて走り出す。恐怖の対象には、正体不明の私も含まれた。数十人に渡る人間が私を避けて逃げていく様は、まるで海を割ったあの聖書を思わせる。こちらに向かってくる人間が少なからずいるだろうという想定だったが、今のところそれもない。例え呪詛師がこの中に紛れていたとしても、狭い中でこの人数の混乱だ。向こうも身動きが取れないのかもしれない。周囲への警戒を張り巡らせつつ、背後の結界へと意識を向けると、中で膨れ上がる五条くんの呪力を感じることができた。五条くんなら、まず間違いなく祓除することができるだろう。そう思った途端、ふと張り詰めていた気持ちが解き放たれ、ふうとお腹から大きく息を吐き出していた。


――その時だった。こちらへ一直線に向かってきた鈍く光る切先を意識の中へと捉え、横に大きく身体を躱す。しかし、一瞬反応が遅れたせいで、脇腹を凶器が掠めた。痛みで覚醒した脊髄が、反射的に結界のより近くへと体を動かす。刃が触れた箇所に手を当てると、べっとりと血が付着した。混乱の中に生まれた更なる混乱。私を避けて逃げていた信者たちの顔が、更なる恐怖に染まっていく。私を中心とした輪は混乱に乗じて大きく広がっていった。先程に比べ、ずいぶん疎らになった人混みの先に立ち尽くす人物をようやく認識した私は、大きく目を見開いた。


「……こど、も?」


鉈のような形状をした呪具を、両手に握り込んだ年端もいかない男の子。私の胸ほどまでしかない背丈と華奢すぎるその体つきに、携えた武器はずいぶんと重そうで、それでいてひどく不釣り合いだった。少年の様子を観察していくにつれ、どんどんと体から力が抜けていく。震える手足も、大きな瞳いっぱいに溜められた涙も、苦痛に歪む顔も。何も言わずとも彼の感情全てが痛いほど伝わってくる。これ以上、少年が動く様子はない。次の一手は恐らくないと考えて良いだろう。ゆっくりと彼に手を伸ばし、声を発そうとしたが、それは代わりに口から溢れ出た血によって遮られた。


「毒……」


自覚した途端、全身に回り出した痛みに背が縮こまる。ケホッと小さく吐き出した咳と共に、口からまた一つ血の塊が飛び出ていくのが見えた。俯いて呼吸を整えている最中、周囲にゴンッという重量感のある音が響く。首を起こして少年を見ると、既に呪具は彼の手の中になかった。いよいよ堪えきれなくなった涙が彼の頬を流れ落ち、地面に落ちた呪具の汚れを洗い流していく。


「お姉ちゃんと話そう」
「……え」
「何か、理由があるんだよね…?」


力なく笑うと、彼の顔が大きく歪んだ。怖がらせないように一歩一歩ゆっくりと距離を詰め、腰を折り、頬に手を添えて涙を拭ってやる。


「大丈夫、君が例え何を言ったとしても、私が守るから。……君の家族が相手であったとしても、絶対に君を傷つけさせないって誓う。だから、嫌なことはもうしなくていいよ」


苦しげに歪められた口から次々と嗚咽が漏れる。少年がごめんなさい、と小さく声を発した、刹那。彼の後ろに鋭く光る青色を見て、私は衝動的に彼を胸に抱き込んだ。ぶわりと私たちを囲んで舞い上がる風の中には、パキパキと音を立てながら崩壊する結界の破片が混じっていた。一瞬で小さな竜巻のように成長し、消えていったそれには、決して呪力も、殺意も込められてなどいない。しかし、代わりに地鳴りのような低い声が私たちを容赦なく威嚇した。


「ハァ…?何やってんだよセンパイ。どけよ」
「……できない。ごめん」
「ふざけんな。そのクソガキ、呪詛師の一派だろうが」
「違う、この子は……」
「聞かねぇ。もう一回言う。どけよ、名前センパイ」


彼のつり上がった目尻を、こめかみに這う血管が震わせる。開ききった瞳孔には、何の感情も込められていない。やっぱり、五条くんは優秀なのだ。呪術師のあるべき姿をいつだってそこに映し出している。


「五条くん」


名前を呼んでみても、彼の青い瞳が揺らぐことはなかった。私はゆっくりと目を伏せる。視線の先には、私の腕の中で小さく震える少年がいた。ぐっと強く唇を噛み締める。


「……自分の意思でやっていたわけじゃないかもしれない。その可能性があるなら、私は――」
「綺麗事だろ、そんなの」
「……、っ」
「……わかるっつーの。他の誰かを介してあの呪霊と縛りを結ばれてた。ソイツに呪霊を扱う術式はない。仕方のない状況だ。…けど、だから何?黒幕の言いなりになって呪霊に生贄食わせようとしてたのも、センパイの腹抉ったのもそのガキ。立派に呪術規定に違反してんだよ。間違ってると思うなら、イヤだと思うなら、抗えば良かった。ただそれだけのことだろうが」


言葉の節々に、脳裏で砂嵐混じりの映像が断片的に映し出されては、消えていく。声を押し殺してたった一人、真っ暗な倉の中で泣く少女が「だって」と口を開く。


「……抗える人ばかりじゃないよ。五条くんもわかるでしょう?」
「……」
「生まれてから、ずっとその環境にいて、それが当たり前で。そんな環境を受け入れながらもこれが果たして正解なのかって苦悩して……。そんな子に、私は色々な世界を見せてあげたい。選択肢は無数にあって、自分に選ぶ権利があるんだってこと、教えてあげたいの」


震えていた少年が顔を上げてこちらを見る。真っ黒な瞳の中に空から降り注ぐ光が差し込んできらきらと瞬いた。導かれるように視線を上げるとそこにもまたひとつ、光を集めて輝く青い瞳があった。強ばっていた顔から力が抜けた私に対し、五条くんは視線が交わると、憂うように瞼を伏せ、瞳に影を落とした。


「…やっぱりアンタのそれは、所詮綺麗事だよ」
「……うん、わかってるよ。でも、もうこれ以上苦しむ人を見るなんて――」


 

ずるりと体から力が抜けていく。膝から崩れ落ちた私を見た少年が、大きく狼狽えているのが遠くに見えた。ごめんね、小さく呟いた言葉は、果たして"君"に届いただろうか。


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