きみは幸せの匂いがする

 窓の外。ビルの隙間からようやく朝の日差しが見えてくるような時間。挽きあがったばかりのコーヒーを粉受けからドリッパーへと移して、ドリップポットから湯を注ぐ。コーヒー豆を自分で挽く、なんてきっと彼と付き合わなければ一生かけてもやらなかった行為だと思うけれど、すっかり体に染み付いたこの習慣、この時間が私にとってはたまらなく幸福だ。

 まだ薄暗いキッチンを包み込むふんわりとしたコーヒーの香りに舌鼓を打つ。食器棚から包み込むようにして持ち上げた乳白色のマグカップは彼の部屋に通うようになった私に彼が準備してくれたものだ。

『これ、は…ナマエさんのために買ったんですけど』

 口元に手の甲を当て、そっぽを向いた彼の耳が淡く色づいていたことをふと思い出して、思わず口元が緩んだ。瞬間。ふ、と耳元に吐息がかかり、背筋が意図とせずピンと伸びた。続いて肩からデコルテに掛けて逞しい腕が掛けられ、ぐいっと引っ張られるがまま、私の体は後ろへと傾く。倒れ行く体はすぐ胸板に支えられ、私を抱く腕がぎゅうと胸元を締め付けた。

「……アキ」

 呼びかけたけれど、返事は一向に帰ってこない。代わりに肩口へ頭が埋められ、伸びた髪が首筋を擽った。持っていたマグカップを適当な場所に置いて、頭へ手を伸ばす。くしゃっとつむじあたりを乱してそのまま撫で付けるように何度か左右に動かす。

「起こしちゃった?今日せっかく非番なのにごめんね」

 頬を擦り寄せると、同じシャンプーの香りが鼻腔を通り抜ける。だいぶ髪が伸びたなぁ。せっかく綺麗な黒髪なのに、悪魔にあげるためだけに伸ばしているだなんてもったいない。まあ、逆を返せば悪魔が欲する理由もよく分かるということだけれど。サラサラと指の隙間を滑り落ちる心地の良い感覚を弄んでいると、肩から唸るような声が聞こえてきた。

「…俺に黙ってどこか行かないでください」
「……」

 そのまま頭を伝って頬まで手を落とす。促すように頬をくすぐったけれど、より強く頭をくっつけられて、結局彼の表情は見えないままだ。

「…何か言ってくださいよ」
「アキ、今どんな顔してるの?見たいんだけど」
「うるせぇ」

 ふふっ。思わず漏れた吐息がアキの髪の上で踊る。ふわふわと浮き上がったり、形を変えたり。こんなちいさなできごとすら愛おしいと、感情が動くような感覚を覚えるだなんて。きっと後にも先にも彼だけだ。

「よく寝てたから起こしちゃ悪いと思ったんだ。でも今度からはちゃんと行ってきますって言うようにするね」

 胸の前で組まれた大きな手に片手を重ねると、両手の間に巻き込むようにして握りこまれる。その力の強さにまたひとつ笑いがこぼれた。

「ねえ、アキ。見送ってくれるの?」

 肩の上から小さく頷きが一つ返ってきた。

「なら、一緒にコーヒー飲まない?私、前よりうまく入れられるようになったと思うの」

 ピクッと肩が動いたあと、首を傾けたアキとようやく視線が交わる。ほんのりピンク色に染まった目尻から溢れ出る愛おしさといったら。

「楽しみです。ナマエさんの入れてくれたコーヒー」
「うん、気に入ってもらえるといいなぁ」

 最近の私を構成しているものが彼ばかりであるように、彼を構成するのもまた私ばかりでありますように。まずはこのコーヒー一杯から。そんな浅はかな気持ちを吐露したってきっと彼はまた困ったように笑って私を受け入れてくれるのだろう。幸せばかりの箱庭で入れたコーヒーはきっと美味しいに決まっている。

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