紺青に沈む



※ネームレス



「おい、いい加減にしろ」

 いつものきっちりとしたまとめ髪はどこへやら。男性にしては随分とつややかな髪を肩に垂らした生意気な後輩、早川アキが私の手に握られたグラスを奪い取った。そこにはもう何杯目かもわからないウーロンハイがなみなみと注がれている。

「あっ、返して!」

 慌てて手を伸ばすもアキは自分の体にグラスを隠すように抱え込んだ後、反対の手で迫り寄る私の額を掴んだ。

「どう見ても飲み過ぎだ」
「アンタだって姫野に飲まされて何回も居酒屋で意識飛ばしてるくせにエラソーなこと言わないでよ!返して!私のお酒!!」

 額に当てられた手に押さえつけられて、ただバタバタと手を動かしているだけの私。誰がどう見ても私だけが間抜けなんじゃないか。しまいには大きなため息をつき始める後輩に私はより一層憤慨した。

「だいたい!今日だってアンタに送ってもらわなくても帰れたわよ!なのに何でアンタ、私の家にいるワケ!?しかもそれ元彼のスウェットだし!意味わかんない!」
「あんな千鳥足で見ず知らずの男について行こうとしてたくせに正気か?それに帰る途中、アンタが俺に向かって吐くからシャワーを借りて服を借りた。俺は誰が前に着てたとかそういうのは気にしない。」
「……何よぉ…。全部私が悪いみたいに言わないでよ…!別に放っておけばよかったでしょ。見ず知らずの男とヒッドイえっちでもすれば何も考えなくて済むし、スッキリするかと思ったの!何か悪い!?」
「俺は悪いなんて一言も言ってない」

 私の感情的な言葉を理性的に切り捨ててしまうアキ。イライラを通り越した結果、涙が出てきた。 理性なんてとっくにお酒の力でグズグズに解けている。

「うぅ…。嫌い。アキなんて嫌い。どっか行っちゃえ」

 ぐずぐずと駄々をこね始めた私を見て、目の前のアキはまたひとつ深いため息をついた。

「初めからそうやって泣けばよかっただろ」

 ぽつりと呟いたアキが、額に当てていた手を頭の後ろに回し、自分の肩口に引き寄せた。真っ暗になった視界の裏に笑顔が浮かび、私はわんわんと声を出して泣いた。

 ――後輩が死んだ。まだ20歳になったばかりの純新無垢な男の子だった。

 彼が公安にやってきた理由は、まだ幼い妹を安定した生活の中で成長させたいという想いからだったそうだ。

『妹のためなら俺、頑張れるんですよ』

 そうやって笑う後輩の頬には大きなガーゼが貼られていた。彼は悪魔との契約で力を借りる度、皮膚を差し出していた。

 皮膚を剥がされる苦痛がどれほどのものか想像できるだろうか?…私にはとても想像できない。悪魔が収監されている檻の前で聞いた彼の悲鳴は今でも頭の中にこびりついている。

 いつからか、朗らかだった彼は笑わなくなってしまった。見るからにガーゼやら絆創膏の数も増えた。無気力になっていく彼に民間に行くことを勧めていた、そんな最中だった。

 彼は無数の棘に貫かれて死んだ。私の目の前で。彼が言った最後の言葉をきっと私は一生忘れることがないだろう。

『……死にたく、――ない』

 そう、私の目を見て彼は言った。彼を助けられるのは間違いなく私だけだった。それなのに、助けられなかった。彼の血にまみれながら病院に担ぎこんだ時にはもう既に息がなかったという。真っ黒なケースに入れられる前に見た彼の青白い顔が頭から離れない。彼が皮膚を剥がされる声が頭から離れない。彼が最後に残した言葉が頭から離れない。

 ただ泣きわめく私をアキは抱え上げる。嫌だ、離せ、お前なんて嫌いだ。ぐちゃぐちゃにかき乱された思考では子供じみた罵声しか飛ばせない。ついに、私は自分のベッドの上に放り出されてしまった。やだやだ、と無差別に手を動かしても、まるで無意味だというように大きな手でアキは私を押さえつける。そこでようやくアキの顔を見た。今コイツは何を思って私を組み敷いているのか、全く分からない。恐ろしく感情が削げ落ちた顔だった。

「酷く抱かれれば忘れられるんだろ」

 私はこの時初めてアキを怖いと思った。ぞくりと泡立った背筋を知ってか知らずかアキは私の首元に顔を近付ける。やだやだ、どうしてこんなことに。

「……きらい、あんたなんか」
「…好かれようと思ってねぇ」
「……そんなにわたしのこときらい?」

 小さく呟くと、首に触れていた髪の感触が消え、代わりにアキの顔面が私の目の前に降ってくる。私の顔は涙でぐちゃぐちゃだと言うのに、アキは戦場に立っているときと変わらない。少し青みを帯びた澱みない瞳が綺麗だと、ずっと思っていたことを思い出してしまい、胸が苦しくなった。相変わらずニコリともしないコイツは本当に私をこれから抱くのだろうか。

「……これからたっぷりわからせてやるよ」

 ここに来て少しだけ声を弾ませたアキは、そのまま私の唇に噛み付いた。愚図り続ける私をあやすように優しく頬をくすぐる指先こそが、朴念仁早川アキの本質なのだと私が気付くのはもう少し先の話になる。

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