言葉にも形にもならない
わたしたちの全て

 生徒を送り届け、車のドアが閉まったちょうどその瞬間にパンツスーツのポケットの中のスマホが震えた。着信相手を画面で確認したのは一瞬で、2コール目にすぐ電話を取った。

「伊地知くん」
「苗字さん、今高専にいらっしゃいますか?」
「うん、ちょうど生徒を送ったところ。何かあった?」
「いえ、その…五条さんが」

 その名前を聞いてすぐ、私は天を仰ぎたくなった。彼に悟られないよう一つ息をついて、冷静に話を聞くことに徹する。

「……五条さんが?」
「迎えは苗字さんを寄越してくれ、と。あまり高専から距離は離れていないところなんですが...。来れますか?」
「…わかった。向かう。位置情報だけ送っておいて」
「わかりました。…すみません、今日はそれで上がりでしたよね」
「伊地知くんが謝ることじゃないよ。ありがとう、連絡くれて。伊地知くんはもう上がって」
「ありがとうございます」

 電話が切れたあとにすぐ飛んできた通知を見て、私は再び車にエンジンをかけた。

 現地に到着して数分。その人はすぐにやってきた。私に向かって軽く手を挙げたあと、窮屈そうに背をかがめた彼を少しだけ乱暴に後部座席へと押し込めて、私も運転席に乗り込む。バックミラーで確認した彼の顔はいつもの数倍青白かった。

「……ごめん」
「謝らないでよ…。それより怪我はない?硝子のところに行こうか?」
「いや、この程度なら多分寝てれば治るから」
「……そう。明日は予定調整してオフにしておいたから、なるべくゆっくり休んで」
「うん。少しだけ、寝る」

 大きな体を横たえた彼から数秒も経たないうちに寝息が聞こえてきて、私は大きく息を吐いた。心臓がバクバクと音を立てている。五条はこうしてたまに体調を崩し、そして誰にも知られないよう同級の私を使う。弱っているところを誰にも悟らせないように。だから、彼の送迎の依頼が入る度に、彼のことが心配で心配でたまらないのだ。ここから彼が借りているマンションの一室までの間、遅い時間でも開いているスーパー、もしくはコンビニを数店舗思い浮かべ、私はまた車を走らせた。

 車庫に車を入れ終えると、後部座席で横になっていた彼がむくりと起きた。

「眠れなかった?」

 そう声をかけると五条は首を振ってひとつ伸びをした。

「いや、だいぶマシになった」

 まだ顔が青白いということは指摘しないでおいた。病に伏せっている時、気持ちの持ちようは大切だ。きっとそれがあの五条悟であっても。

「簡単に買い物しておいたよ。明日の分くらいは何とかなると思う。そこの袋に入ってるから持って行って。」
「…帰っちゃう?…………なんでもない、忘れて」
「……」

 ガサリとビニール袋が擦れた音と、ドアが開く音がする。しかし一向にドアを閉める音は聞こえてこない。少し考えて、どうしようもなくなって、私は結局後ろを向いた。

「五条」
「……なに」
「やっぱり、隠していなきゃダメなの?私たちのこと」
「……」

 今度は五条が黙る番だった。片足だけ車の外に出した彼はただひたすら自分の太ももあたりを見ている。あぁ、しくった。私がしたかったのは体調の悪い彼に詰め寄ることではなかったのに。自分の軽率さと身勝手さに嫌気がさして、私は再びハンドルに向き直った。

「……わかった。なんでもない、忘れて。私も帰るから――」
「だって僕がいない間にオマエがいなくなったら?」
「そんなの、」
「わかんないだろ。上の連中の嫌がらせは年々激化してる。僕とオマエが付き合ってる、なんて知られたらアイツらは絶対標的をオマエに絞るよ。……僕以外が、僕の知らないところで傷つくのはもううんざりだ」

 五条とオフィシャルの場で目も合わせなくなって、もう何年経つだろう。忘れもしない。高専を卒業するとき、つまり私が補助監督になる道を選んだとき、五条は私に「僕たちの関係性は公にしないでおこう」と、そう言ったのだ。おかげで口も聞かなくなった私たちの関係性は悪い方向に噂が飛び交い、今となっては誰にとっても話題に出すのがタブーになるほど。目論見としては大成功だけれど、それじゃあ私の気持ちは?硝子と楽しそうに話す五条を少し離れたところから眺めるだけの私のこの気持ちは、一体どこへ投げ捨てれば良いのだろう。硝子みたいに上がどうしても手放せないような力があれば、あるいは夏油のように実力で五条の隣に並んでも恥ずかしくないような存在であれば。私は公に五条悟と肩を並べたのだろうか。

――全ては、私が弱いせいで。

「……名前」

 気付いたら、五条が助手席に座っていた。私の頬を滑る雫をひとつ残らず五条の指が掠めとっていく。

「……ごめん。泣くつもりはなかったの」

 堪らず顔を覆った私に、かけられる言葉がないことはわかっていた。静まり返った車内に私の鼻をすする音だけが響く。好き嫌いの感情を飛び越えて"相応しい相手"というのはやっぱりこの世に存在しているのだ。急激に冷えた脳みそに別れの文字が浮かび、そして強烈に刻み込まれていく。すうっと息を吸い込んだら、目の前に黒がめいっぱい広がった。吸い込んだ空気は優しい彼の香りに溢れている。

「私...五条と別れたくないよ」
「別れるとかそもそも選択肢にねーんだよ。……そばにいてよ」
「ごめんね、私が弱いせいで」
「ちがうね、これは僕の問題。どんな方法を模索したって、どうしてもオマエを解放してやれないんだ」

 自嘲するように笑った五条が私を抱く力を強めた。耳元に柔らかな感触が近づく。白一色の艷めく髪の毛に、自分の暗い色をした髪の毛が混じるのが、何だかとても後ろめかった。

「…もうさ、僕しか知らないとこに閉じ込めちゃおうか」

 いいって言ってよ。縋るような声色が、私を現実からかけ離れた箱庭に誘う。それに飛び込もうとして、でも、すんでのところで私の頭の中にいるもう一人の五条が引き止める。彼はいつでもみんなの輪の真ん中で縮こまって、大きな体を丸めて笑っている。どこにでも行けるのに、何でも好きなように選べるのに、結局彼はいろいろなものに手を伸ばして、それに絡め取られている。でも、それこそ私が好きになった人に囲まれる五条悟その人なのだ。彼の腕の中でゆっくりと首を横に振る。彼が一体どんな顔をしているのか。それを見るのは今日もやめにすることにした。

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