羽ばたきの影を踏む

「か、海外……?」
「聞いてねぇのか?」

 何気ない会話の中で真希ちゃんが発した言葉に、私は瞼が痛くなるほど目を見開いた。



 呪詛師夏油の一件がまだ落ち着かない校内。見渡せばそこら中にかかるブルーシート。辺りに散らばる校舎だったものの残骸。

 特に大きな穴が空いた校舎の屋上に私はいた。屋上から地上までを一気に貫いた穴の前に座り込んでぼんやりと深淵を眺める。海外。海外かぁ……。そうだよね。あんなに強い呪詛師を一人で倒してしまって。ぼろぼろになった私たちを習得したばかりの反転術式で治して。今は解呪によって一時的に見失ってしまった自身の術式を試行錯誤しながら取り戻しつつある。"里香ちゃん"を見送って涙を流す乙骨くんと、私たちに困ったような笑顔で笑いかける乙骨くん。それぞれ交互に思い浮かべて、私は一人膝を抱えた。

「名前さん…!こんなところにいたんだ」

 幾らか時間が経ったあと、てっぺんから響いた少し急くような雰囲気の声に私はゆっくりと頭を上げた。そこにはあの日のように困ったような笑顔で私に笑いかける乙骨くんがいた。目の下が薄桃色に染まっている。初めて出会った頃に比べて少しだけ伸びたたおやかな黒髪を、赤い夕日が照らしていた。

「お、乙骨くん。どうしたの?」

『いつまでも逃げてたって仕方ないだろ』

 私は慌てて立ち上がる。頭の中では、先程真希ちゃんから言われたことがぐるぐると回っていた。一瞬だけ交わった視線は、すぐに逸らされた。顔をどこかそっぽに向けたまま、彼は頬に人差し指を立てる。何だかすごく気まずそうだ。彼だけじゃない、私も。何てひどい空気。息も吸い辛い、そんな中で乙骨くんの胸が、大きく上下するのが見えた。

「……そ、その。僕、しばらく海外に行くことになって」
「うん、聞いたよ。すごいね!……ほんとに、すごいね…」

 俯いた先に、強く握ったせいで血が止まった自分の指先が見える。何がすごいね、だ。"すごいね"だとか、"強いもんね"だとか。そんな月並みな言葉が言いたかったわけじゃない。決してそうじゃないのに、何かが私の喉の奥につっかえて本当に言いたい言葉は出てこない。本当は。本当は、私――。

「僕、もっと強くなるよ」

 彼が発した迷いのないその言葉に、私ははくりと空気を噛んだ。

『寂しい』

 喉の奥につっかえていたそんな本音は、彼の決意の前に胸の中でバラバラと砕け散った。恐る恐る前を向くと、乙骨くんはいつも通りの穏やかな顔をしていた。でも、これまでの彼とは違う。その真っ黒な瞳の奥に宿った灯火が強く私を射抜いていた。大きく心臓が鼓動する。歩みを止めるわけには行かないんだ。だって、私、まだ乙骨くんと一緒にいたい。一瞬怯むようにして唇が震えたけれど、もう一度握った手に力を入れ直して、彼に向き合う。

「……私も、」
「えっ」
「私も強くなるから…!だから一緒に頑張ろう、乙骨くん」

 今はまだ虚勢だけれど。他の人と比べてくだらない理由かもしれないけれど。それでも、私はそうありたい。見据えた先、乙骨くんの目が真ん丸に見開かれ、そしてすぐふにゃりと溶けた。

「……うん」

 ゆったりと噛み締めるように首を縦に振った彼が一歩、また一歩と私との距離を詰める。靴の先っぽ同士がくっつきそうになった頃、乙骨くんは少し下にある私の握りこぶしを、それぞれの手でぎゅうと包み込んた。突如として触れた彼の体温に顔が熱を持つ。

「本当はあんまり無茶してほしくないけど…。でも、ありがとう。僕を一人にしないでいてくれて」

 淡く色付いた目元が柔らかく弧を描く。次の瞬間、腕を勢いよく引かれ、目の前の乙骨くんに向けて体が傾いた。あっ、と思った時にはもう乙骨くんの腕の中。背中に回った腕が緩く私の体を引き寄せる。顔が沸騰しそうなくらい熱い。気付けば胸にせり上がってきた感情がそのまま目から零れ落ちていた。こんなふうに体温が触れ合ったのは初めてだったけれど、彼の体温がこんなにも心地良いだなんて。そんなこと知ってしまったら、もう止まれないじゃないか。

「…また、すぐ会えるよね……?」
「うん、必ず帰ってくるから。だから泣かないで」

 砕け散った本音の欠片が一つ、ぽろりと口から漏れ出す。しかし、彼はそれを大きく成長した胸の中へすんなりと収めてしまったらしい。まるで何かの証のように、背中で交差した彼の腕がもう少しだけ私を抱く力を強めた。

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