よく似た夜に凍えるように

 自分の吐息が白く霞む様子が夜闇に映える。寮の共用玄関にあるつっかけに適当に足を通して改めて玄関に向き合った時、ようやく気がついた。

「雪だ……」

 透け硝子の向こう側にチラチラと白い結晶が見えるのだ。部屋着のスウェットが裏起毛だから、と適当にフリースを一枚羽織ってきただけなのだけれど、冬の夜、外に出るには少し油断しすぎただろうか。引き戸にかけた手を躊躇いと共に一瞬引っ込めた、その時だった。

「苗字」

 低く鋭い声は寝起き特有のぼやけた雰囲気なんて全くない。増して普段の話し声より幾分か低いトーンは、私を諌めていると窺い知るのに十分だった。恐る恐る、といったように首を後ろに振ると、案の定そこには青い瞳と、白い髪が閑な暗がりに浮いていた。

「五条さん」

 小さな火を灯したロウソクのようにゆらゆらと揺れている六眼は、真っ直ぐに私を捉えている。五条さんがゆっくりと息を吸い込む音が耳に届いて、背筋が伸びた。

「何してんの、こんな時間に」

 こんな時間に、と言った五条さんの頭辺りにある時計は深夜二時前を指し示していた。五条さんの質問は最もだし、先輩が外出禁止の時間に外に出ようとする後輩を注意するのも最もだ。でも五条さんが言いたいのはきっとそんなことじゃない。彼が真に言わんとすることはよく分かっていた。でも私は、それを話題にすることを望んでなんていない。

「……あ。あ〜…、ちょっと目が覚めちゃって。外の空気吸いたいな、って、思って……」

 これも建前。今日、ベッドに入ってから一度も目を閉じられていない。正確には数日前から。"眠れなくて"が最適な表現だ。しどろもどろな言い訳を彼が気づかないわけがないのに、私は逃げ惑う。

「……ふーん」

 ただ、それだけ。興味なさげにただ一言だけそう呟いた彼は、後ろ頭をその大きな手で乱して大きくため息をついた。

「なら、僕も行く」
「えっ」

 予想外の答えに私は狼狽えた。待ってという私の小さなつぶやきを彼は聞かなかったことにしたらしい。

「準備してくるからそこで待ってて。つかオマエさ、そんな薄着で風邪引くつもりなの?マフラーとか、上着とか、もっと厚着してこいよ。十分後にココに集合な」

 ま、待って。もう一度喉から絞り出すように声を出すけれど、踵を返した五条さんはずんずんと男子寮の方へ進んでいく。

「……そ、外、寒いですよ!」
「……ハァ?」

 私を置き去りにしてどんどん進んでいく状況。それに対して捻り出した言葉に五条さんはようやく歩みを止めて、こちらを向き、そして大袈裟に顔を歪めた。

「わかりきってて行くんじゃねぇの?」
「わ、私はそうですけど、五条さんは中にいた方が…ほら、雪も降ってますし」
「……あ〜、ダル。やっぱ俺には向いてねぇわ。こういうの」

 もう一度踵を返した五条さんが、こちらに向かってくる。一歩一歩が大きい彼はあっという間に私との距離を縮めてしまった。腰を折り曲げた彼と、真正面から向き合う。彼の意志のように、鋭い眼光が私を貫く。彼は言おうとしているのだ。今、私の一番言ってほしくないことを。そして今、私が一番言いたくないことを。

「七海の件、聞いただろ」

"七海"

 その名前を聞いた瞬間、急激に熱が集まった眉間。そこにぎゅっと力を入れて、不意にこぼれ落ちそうになったそれを何とか堪える。強く噛み締めた奥歯が悲鳴のようにギリギリと鳴く。大きく目を見開いた五条さんの姿が、件の同期、七海建人の姿に嫌というほど重なって、私は思わず目線を下にそらした。

"もっと強くなりたい"

 灰原の亡骸を前にして、誓うように呟いた私に七海は驚いたように目を見開き、そして怯えたように一瞬眉を下げた。思えばあの時から七海は決意していたのだと思う。どこかずれていく歯車に気が付かないフリをして、いつも通りに振る舞い続けたのは、他でもない私だ。本当に同期なら。彼を想うなら。誰よりも私が彼に寄り添ってあげなくてはいけなかったのに。想いとは裏腹にどう振舞ったら彼に寄り添える結果になったのか、私は未だわからずにいる。

『私は一般企業に就職する。……苗字は強いから。自分の信じた道を進むといい。それがきっと苗字にとって正しい道だ』

 そう言われた時、七海がどんな顔をしていたのか。どれだけ頭の中を掘り返そうと、真っ白になってしまったそこでは、記憶の痕跡すら見つからない。私を尊重してくれたたった一人の同期に、何も言えなかった。どこまで最低なのだろう、私は。強烈な痛みを訴える心臓のあたりを強く握り込む。それでも痛みは収まるところを知らず、背を小さく丸め込んだ。

「……一人に、なっちゃった」

 いよいよ瞼が抱えきれなくなった雫がこぼれ落ちた。足元の玄関タイルを滑ったそれは、隙間のコンクリートへと染み込んで色を変えていく。

「七海のことも一人にしちゃった。私がうまく寄り添えなかったから」

 両手で視界を覆い隠しても、しゃくり上げるような嗚咽は隠しきれない。泣きたくなんてなかった。だから、全て寒さのせいにしてしまいたかったのに。

「…オマエそれ本気で言ってる?」
「え、」

 顔から手を離して首を起こすと、先程と変わらない距離に五条さんがいた。その口は大きくひん曲がっている。

「オマエと七海はまだ何も終わっちゃいない。お互い何か言いたきゃ届く位置にいるんだから。増して卒業までまだあるじゃん。見送り方間違えなきゃ良いんだよ」

 見開いた目からこぼれた涙が一つまた一つと頬を濡らす。そんな私の様子を見た五条さんは呆れたようにため息をつきながら私の頬を親指でぶっきらぼうに拭った。

「それでもその後寂しいって言うなら。……ま、七海と灰原の穴は埋めてやれねーけどそれ以外は残ったヤツらでなるべく補ってやる。ひとりぼっちになんかしてやるか。ザンネンだったな、バーカ」

 五条さんは今、自分の顔がくしゃりと歪んでいることに気付いているのだろうか。私と違って五条さんの頬は乾いている。でもそこに雫が一滴光ったような気がして私は五条さんと同じように彼の頬に手を当て、親指で優しく擦った。不可解とも思える私の行動を五条さんは見透かしたように目を細める。下がった眉と、片側だけ口角が上がったその笑顔はこれまで見た彼の笑顔の中で最も不格好だった。

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