滲みきったら物語

 久しぶりに我が家で悟と夕食を共にした後。つまり現在。お気に入りのカウンターキッチンからは、花瓶に生けた真新しい花と、その向こう側へ、だらけた様子でソファに腰掛ける悟が見える。気合いが入ってついつい作りすぎた料理は、明らかに二人分ではなかったから、明日からの私の食事へと消化される予定だったけれど、悟はそれをあっさりと全て平らげた。料理を一際映えさせていたこれまたお気に入りの食器たちは、もう既に多くが水切りへと移されていて、シンクに残るのはほんの少しだ。黙々と作業を進めながら再び悟へと視線をやると、何やらスマホを操作したあと、深いため息と共に疲れた様子で眉間を揉んだ。食事中は楽しげに見えたけれど、いつもより少し目元の皺が深いことだとか、ふとした瞬間どこか別のところへ考えを飛ばすように遠くを見つめることだとか、そんなことには何となく気付いていた。最後のお皿を水切りへと移した私はキッチンから悟の座るソファの前へと移動した。

「悟」
「ん、なぁに?」

 悟の視線が上に移るのと同時に、上向きに生え揃った睫毛が蛍光灯の光をきらきらと含む。いつもは大きな瞳も同じように光をたくさん拾い上げるのだけれど、今日はどこかその空色も暗ぼったく見える。本人はといえば、そんな自分の様子を意に介していないのか、座らないの?といった様子で自分の隣をぽんぽんっと叩いた。

「何か甘いもの食べる?」
「え?」
「それともコーヒー入れようか。甘いヤツ」
「ん?ん??」

 悟が目を瞬かせる。頬を掬うように両手で包み込むと、特に何もしていないという割に随分肌触りの良い頬っぺたが私の手のひらへと吸い付いた。

「疲れてるんでしょう」

 ぱっちりと目を見開いて一瞬動きを止めた悟は、ゆるゆると時間をかけて口角を上げ、その間徐々に色付いてきた目尻をゆったりと垂れ下げた。

「なぁんだ、そういうこと」

 ソファへと放り出されていた悟の腕が私の腰へと回る。その腕がぎゅうと私に巻きついて、胸の下あたりに悟の顔が埋まった。髪を切ってアイマスクをしていなくてもふわふわと逆立つようになった白色を、落ち着けるように撫で付ける。

「それならこれがいい」
「これ?」
「名前のハグ」

 今度は私が動きを止める番だった。頭を撫でる動きを止めたせいか、悟が胸に埋めていた顔を上げる。その顔を見て、じわじわと心臓に温もりがせり上がってくるような、そんな気持ちになった。その温もりは間違いなく悟が私に教えたもので、ひどく儚く、大切に、壊れないようにしないといけないのだと自覚したのはごく最近だ。

「一緒に名前の作ったご飯を食べて、一緒にゆっくり風呂に浸かって、そんで一緒にベッドに入ってこれでもかってくらいくっついて寝る。そうしてるとさ、イラついてたこととか、どうしようもないこととかよりオマエと過ごす目の前のことばっか考えてたりするんだよね」

 蜂蜜のように蕩けた顔で笑った悟はそう言ったあと、再び頭を私へと預けて何かを噛み締めるように瞼を閉じた。私はといえば胸を打った感情を消化しきれず、それを逃がすように大きく息を吐いた。

「悟がそんなに私の事好きだなんて知らなかったなぁ…」

 小さな声で独り言ちる。部屋へと霧散して消えるはずだったその私の小さな呟きを彼はしっかりと手のひらへと掬い上げたらしい。人は彼を地獄耳だと言う。彼に届かない言葉はない、と。よくある皮肉めいた比喩だと思っていたけれど、どうやら事実も混じっているようだ。

「…僕も腑抜けた先にこんな幸福感があるなんて、そんなことオマエに会うまで知らなかったよ」
「…知れてよかったって思う?」
「はは、何それ。思うよ。だから名前は僕のそばにいてよ。一時的な世界の平穏のためにもさ」

 聞く人が聞けば十分な脅しとなるそれを、彼は信じられないほど甘さを含んだ声で宣った。ぎゅうっと掴まれたように痛む心臓は、きっともう彼に絆され尽くしている。こうして絆されているのは私ばかりだと思っていた。だけど、そうではなかったと信じてもいいのだろうか。私も彼がそうしてくれたように、彼に温もりを教えてることができていたのだろうか。体中渦巻くこの感情は、どうしたって処理できずに外へと溢れかえってしまう。決してこの情けない顔を見られぬよう、悟の頭を改めて胸へと抱き込んで、温かさともどかしさへ、少しの間身を委ねてしまおう。そう決めた日曜の夜、二十時二十九分である。

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