夢は置き去り

 耳元でパシャッと水が跳ねる音がして微睡んだ意識がゆっくりと持ち上がった。目玉を横へと動かすと背後から伸びた逞しい腕が私の上半身を支えている。それにひどく安心感を覚えて、決して柔らかくて心地良いとは言い難いその腕に頭を預けた。

「オマエ今落ちてた?」
「……ん〜」
「落ちてんな、確実に」

 呆れたような声が聞こえたあと、私のお腹に腕が巻きついて、二人の体の距離が縮まった。背中に感じる隆起した筋肉に、もう胸はときめかない。いつの間に私の心は純情を脱ぎ去ってしまったのだろう。高専時代をエンジョイしていた私に伝えたい。少女漫画に憧れたまま純情に生きていたいのなら、五条と付き合うのはやめておけ、と。

「死因が風呂で溺れた〜とかだったら、硝子と一生笑い者にしてやるよ」
「うん……。いいよ〜」
「……もう寝ろ。上がるぞ」
「え、やだ。まってまって。もうちょっと」
「ハァ〜?」

私の頭を支えていた腕にぎゅうっとしがみつくと、五条が不満そうな声を上げた。

「ちゃんと起きるから」
「ホントかよ」

 ようやく後ろを振り向くと、前髪をかき上げた五条が、目を細めてこちらを見ていた。長い睫毛がお風呂場の水分をたっぷりと含んでしとどに濡れている。コクコクと必死に頭を振ると、眉間に皺を寄せた五条の口から諦めたようにため息が吐き出された。長風呂なんて時間の無駄だと言う五条と、二人でゆっくり湯船に浸かるようになったのは、私のわがままに珍しく五条が折れてからだった。

「このお風呂じゃ狭すぎて、薔薇の花びら浮かべても雰囲気出ないね」
「オマエほんっとそれ好きな」
「うん、憧れなの」
「ふぅん。僕だって乳白色の入浴剤入れて、薔薇の花びら浮かべたデカい風呂くらい準備できるけど」
「そうだろうけど、違うの。本当に憧れてるのはそこじゃなくて二人の関係性なの」

 立てた膝を腕で抱えて、その上に顎を乗せる。何度湯船に張られたお湯を見たって、それは乳白色をしていない。視線の先に揺らぐ五条の長い脚は狭苦しそうに折り曲げられていて、やっぱり理想とは程遠かった。

「あのヒーローはさぁ、ヒロインがいないとダメなんだよね。ヒロインも同じ。共依存っていうの?ああいうのたまらないんだよねぇ」
「結局それで二人ともダメになって苦しむ羽目になるんだろ?毛ほども理解できねぇわ」

 唇を尖らせて五条を睨むと五条は両手を上げて天を仰いだ。何だかんだ言いながら私の聖書と言っても過言ではない漫画を新刊まで読破したくせに、五条は何一つ共感できなかったらしい。

「……あーあ、どこかにあんな男落ちてないかなぁ」
「さっきから僕じゃオマエの理想は満たせないって言いたいワケ?」
「だって五条は私が南京錠の鍵隠したら、迷わずネックレス引きちぎりそう」
「…もし僕が文句言わずに名前の選んだ首輪つけたら、オマエは体に"satoru"っていうタトゥー入れろよ」

 オマエの言ってる理想ってのはそういうことでしょ、と額を弾かれる。じわじわと痛み出した額を抑えながら、自分の体へ刻まれた"satoru"という文字を想像したところで、どちらからともなく吹き出した。

 あぁ、やっぱり理想は理想のままでいいや。どうしたって五条が私と共倒れになるところなんて想像もできなかったし、私の亡骸を抱いた五条には決して悲しんでほしくなどなかった。それでも、私は彼がどうしようもなく好きで、彼と出会い、こうしてそばにいることができて、ただそれだけでたまらなく幸せだ。

高専時代をエンジョイしていた私に伝えたい。あなたの進む先は間違っていなかったよ、と

「好きだよ、五条」

 顎を上げて、逆さまの五条と視線を合わせる。一瞬見開かれた目がとろりと垂れるのを見て、私はまたひとつ幸せを噛み締めた。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -