たとえば破るための約束でも

 医務室のベッドに座った私がダラダラと脂汗を流す一方で、向かいの椅子に座る同級の硝子は至って冷静だった。

「五条に言ってちゃんとした病院に行け。以上」
「硝子〜!」

 涙目ですがりついた私に、硝子は隠しもせずわざとらしい大きなため息をつく。

「別にいいだろ、ガキじゃないんだし。もう付き合ってずいぶん長いんだ。あとは結婚だけだったろうが」
「でも…でもさ……!こんなに長く付き合ってるのに"結婚"の"け"の字も出てないんだよ!それなのに……それなのにこど………………、子供って…!どうしたらいいの!?」
「できちゃったもんはどうにもできないだろ」
「……おっしゃる通りで…」

 項垂れて俯いた先に、自分のまだ膨らんでいないお腹が見えて、ふと泣きそうになった。頭に温かな感触が乗せられ、それがくしゃりと私の髪を乱す。

「…硝子。私なんかが悟を縛っていいのかな」
「……確かにアイツはクズだけど、名前が思ってるよりずっと名前のことを大切にしてるよ。長いことオマエらのそばにいた私が言うんだ、間違いない」

 顔を上げると、クマが滲む目元が緩んだ。

「もっと五条のこと、信じてやんなよ」



 悟が長期任務から帰ってくるその日、私はエコー写真やら母子手帳やらをダイニングに広げっ放して、その上へと突っ伏していた。悟は疲れて帰ってくる。果たして今日言ってもいいのだろうか。モヤモヤモヤモヤ。まとまらない考えを何とかしようと目を回していたら、玄関の方で扉の開く音がした。びくりと体が震えて、思わず病院からもらってきたものを近くにあったチェストへと片っ端から突っ込む。何とか冷静を装って玄関に向かうと、悟が仕事で愛用しているショートブーツを丁寧に揃えているところだった。

「おかえり」
「ただいま」

 目隠しを首元へと下ろした悟が目尻を下げる。柔らかい笑顔と、乱れていない服装に今回も無事に帰ってきてくれたんだと、ほっと息を吐く。

「ご飯できてるよ。お風呂の準備も。どっちに……」

 どっちにする?という問いかけは無言でこちらへ詰め寄ってきた悟に掻き消された。ズンッと長い脚で私との距離を詰めた悟はそのまま私の首筋へと顔を埋める。

「さ、悟?」
「オマエなんか今日呪力の流れ変じゃない?」
「え……」

 耳元でスンッと鼻を吸う音がして肩が跳ねた。


「誰かの残穢、とかでもねぇか」

 そのままスンスンと私の首筋のあたりを嗅ぐ悟。宙に浮いた手をどうにもできずに握ったり開いたりを繰り返しているうちに、悟の顔が首元から離れて私の額に擦り寄る。混じり合う前髪と、すぐそばで交差する視線。先程まで柔らかかった目尻が少しだけ鋭くなっている。

「僕がいない間に何かあっただろ」
「うあ……、あ、あの……」
「誰に何された?」
「ちが、……違くて…、」

 まさかそんなことまで見透かされてしまうなんて。心の準備なんて悟の顔を見た今ですらできていやしない。どうにも心許なくなって、近くにあった悟の仕事着をぎゅっと握った。手が小さく震える度に服が皺の形を変える。すると、その上から大きな手が重なった。その温かさに乱れていた呼吸が少しだけ落ち着くのがわかった。

「僕には言いたくないこと?」
「……」
「隠すな。頼むから」

 悟の眉が八の字になるのを見て、ヒュッと喉が鳴った。いつの間にか絡まっていた指先をぎゅうっと強く握る。私は強く唇をかみ締めた。

「……赤ちゃん」
「え」
「赤ちゃんが……できた………みたいで」
「………………」

 蚊の鳴るような小さな声をしっかりと拾い上げたらしい。悟が目を見開いたまま固まる。

「……」
「……」

 お互い、しばらく無言の時間が続いたかと思いきや、突然体が浮遊感に襲われた。悟が私を抱え上げたのだ。そのまま寝室のドアを強引に開けた悟は特注サイズで注文した大きいベッドまで一直線に進み、そこへ私を優しく下ろした。仰向けに寝転んだ私の両脇へと手を置いた悟が上半身をこちらへと傾ける。

「……触ってもいい?」

 お腹を指さした悟にこくこくと頷くと、大きな掌がお腹に触れるか、触れないかのところを撫でた。

「ほんとに?ここにいるの?赤ちゃん」
「……うん、」
「僕とオマエの?」
「そう、だよ」

 見開かれたままの目からは感情が読み取れず不安ばかりが募る。

「……あの悟、」
「ん?」
「…………迷惑だったら、その……」

 堕ろす、だなんて、口が裂けても言えなくて私は唇を噛んで黙りこくった。まだ悟から何か言われたわけではないのにじんわりと涙が滲む。

「……あの、迷惑だったら認知はいらない。でも産ませてほしいの。どこか、悟にも、五条家にも、目のつかないところで一人で育てるから。お願い」
「は?」

 まん丸に開かれていた悟の瞳孔がキュッと縮まった。目の奥の光が鈍く光る。

「なに?何でそういう話になんの?いつ僕が迷惑だって言った?」
「言ってないけど……」
「じゃあなんで?」
「……だって、」

 いよいよ瞼が抱えきれなくなった雫が次から次へと流れた。頬を滑り落ちたそれらが枕カバーを次々濡らしていく。悟が息を飲み込んだ音が聞こえた。

「…不安、で」
「……名前、」
「…悟は赤ちゃん欲しかったのかなとか、そもそも私と結婚するつもりは初めからじゃなかったんじゃないか、とか、……悟との未来を、私なんかが考えていいのかなって…」

 ボロボロと剥がれ落ちる私の心を拾い上げるように、悟は自分の腕の中へ私を導いた。耳元を跳ねる心音がいつもよりずっと早くリズムを刻んでいる。後ろ髪へと悟の指が幾度も通っては流れていく。

「僕、名前がずっとそばにいてくれたから、それに甘えてた。ごめん」

 先程とは違って穏やかな声だった。 その声に安堵したおかげか、またひとつ目から涙が零れた。

「結婚を考えてなかったわけじゃない。子供だって。いつか名前と家族になれたらって何度も夢に見た。でも、今の僕の立場じゃ一秒先ですら、五体満足で生きていられるかわからない。そんな状態でオマエや、将来増えるかもしれない家族に未来を約束できるのか、とか。そもそも僕がそんな未来を夢見ていいのか、とか、決まってそんなことばっかりが頭をよぎってさ。本当は…目を向けるのが怖かった」

 頬を掬うように撫でられて、顔を悟と付き合わせる。下がりきった目尻が、何だか泣いているように見えて、長い睫毛が影を作るそこを優しくなぞった。

「...でも、オマエは僕に"それ"をくれるんだね」

 独りごちた悟が伏せていた目を開く。室内でもよく光を集める真っ青な瞳に、より一層強い光が宿ったように見えた。

「僕は、生き方を変えられない」
「わかってるよ」
「それでも僕はオマエとなるべく一緒に生きていたい」
「私も」
「…僕と幸せになってくれる?」
「うん。めいっぱい幸せになろう、悟」

 そう伝えると、一瞬、瞬かれた目がすぐにへにゃりと蕩けた。 うん、と応えて笑った悟に、お腹がぽこりと音を立てたような気がした。今度こそ悟の大きくて温かい掌が私のお腹の上を優しく撫でた。

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