慈悲や孤独やそういうの
――夢を見ていた。
両親を亡くして間もない頃、色んなことが重なって体調を崩したあの日。いつの間にか後見人となってくれたらしい幼なじみが与えてくれた小さな六畳一間のアパート。そこで幼い私は一人、布団に丸まっていた。しんと静まり返った部屋からは寂寥のみが感じられ、どんどんと熱に浮かされていく体に不安ばかりがまとわりつく。いよいよそんな負の感情に負け、涙がいくつも頬を伝った時。玄関の開く音が聞こえた。
「…おかあさん?」
そう呟いたのは恐らく条件反射だ。頭はもう母がこの世にいないことをちゃんと理解していたのに、どうしたってそれに縋りたくなった幼心が生み出したうわ言だった。
「……おかあさんじゃなくてごめんね」
なるべく声量を落とした柔らかいテノールが耳をくすぐる。喉から手が出るほど求めていたおかあさんとはまるで違うその声にひどく安心したことを今でもはっきりと覚えている。
「びっくりしたよ。学校から連絡来たと思ったら熱あるのに一人で帰ったって言うからさ」
ガサリとビニール袋が擦れる音。続いて古くなった畳が軋む音が近くで響く。温かな手が私の額に一瞬触れて、そのまま頭を撫ぜた。
「…………さとるくん、」
私は彼の名前を呼ぶ。世界でたった一人になった私に、一人になんてしないよ、と手を差し伸べてくれた、ちいさな私の世界のすべて。
「うん、ごめんね。遅くなっちゃった」
頭を何度か往復していた手が今度は頬に触れて、涙のあとを軽く擦った。私はゆっくりと頭を左右に振る。
「さとるくんは忙しいから、ひとりでかえりますって先生にいったの」
「…そっか。名前はしっかりしてるからあんまり心配してないけどさ、もう少し人に頼ったっていいんだよ」
「……?」
言われたことが上手く理解出来ず、首を傾げた私にさとるくんは眉を下げて笑った。
「……こんなふうに名前がしっかりしちゃったのは僕のせいか。今日はもう全部さとるくんに任せて、今はゆっくり眠りな。ご飯が出来たら起こしてあげる」
「うん……」
瞼に覆いかぶさった手が温かくて私はそのままゆっくりと目を閉じた。
◇
――黒く深い微睡みの底からゆっくりと意識が浮上する。額に乗るてのひらの温かさを私は知っている。
「…さとるくん」
私の声にぴくりと手が反応したのを見て、あぁそういえば今はもうそんな呼び方してないんだったっけ、とようやく脳みそが回転を始めたようだった。
「…なぁに。久しぶりだね、その呼び方」
「……夢、見てて。寝ぼけてた。ごめんなさい、先生」
「硝子が怒ってたよ?熱が下がるまで医務室で寝てればいいのに勝手に帰った、って」
五条先生が目元を覆っていたアイマスクを首元に下ろした事で、久しぶりに青の瞳と視線が交わった。額に当てられていた手はそのまま頭部に移動して、あの頃より少しだけ長くなった私の髪の毛を何度か梳いて離れていく。
「相変わらず人を頼らないね、名前は」
「…頼らなくても生きていけるようになったのは、先生のおかげだよ」
先生の目が真ん丸に見開かれる。あの時、わからなかったことも今ならわかる。人が私を自立した人間だと評価するのならば、それは間違いなく先生のおかげだ。先生があの時、救い上げてくれなければ私はきっとあの場に踏み止まり続けて…。その後はどうなってしまったのか、今となっては想像もできない。
「先生がたくさん支えてくれたから、ようやく自分の足で立てるようになったの。あの時、私の手を引いてくれて、ここまで連れてきてくれて、ありがとう、先生」
「……クク、参ったね」
目元を掌で隠して笑った先生に、私も頬が緩んだ。先生の体で隠れたビニール袋には、きっと風邪っぴきの私お気に入りのメニュー「さとるくん特製!卵がゆ」の材料が入っているはずだ。あの時からずっと変わらない愛情たっぷりの優しい味付けを思って、私はまたひとつ笑顔を零した。