可視の不可避
「ご迷惑をお掛けしてごめんなさいね。では、ごゆっくり」
綺麗な女将さんによって丁寧に閉められた襖。目の前には並んだふたつのお布団。どくり、どくりと先程から大きな音を立てる心臓の音が隣に立ってる夏油くんに届かない事を祈った。
夏油くん。夏油傑くん。高専の数少ないクラスメイト。そして、私の好きな人。きっかけは、何だっただろう。ついつい言葉尻がキツくなる五条くんのちょっとした言葉に傷ついたとき慰めてもらったことかもしれないし、任務でひどい失敗をして大怪我をしたとき助けてもらったことかもしれない。優しくて、誠実な彼に、私はいつの間にか恋をしていた。
そんな夏油くんと二人で遠方任務を仰せつかったのが昨日。向かった先で補助監督さんが用意してくれた旅館宿が何かの手違いで一部屋しか取れていないと知ったのが今。もうひとつ部屋を用意できないか、夏油くんが聞いてくれたけど生憎部屋は満室らしく、何とかお布団をふたつ敷いてもらうのが手一杯だった。緊張をどこかへ逃がしたくてだらりと垂れた左手を右手で握る。何か言わなくちゃ。そう思って引き結んでいた唇を開くと、先に言葉を発したのは夏油くんだった。
「私はどこか別に寝るところを見つけるよ」
「えっ」
いつもと変わらない笑顔でそういう彼はどこまでも優しい。私とは違ってあまり多くない荷物を持ち直した夏油くんはくるりと後ろを向いて襖へ向かっていく。ダメ。そんなのダメに決まってる。任務は明日から本格稼働だ。今日はゆっくり休まないと長旅の疲れが出てきっと明日体が辛くなる。そんなちょっとの不安が、もしかしたら一生の後悔に繋がるかもしれない。そういう世界なのだ、ここは。手汗が滲んだ手で申し訳ないと思ったが、彼の服の裾を指の先でキュッと握った。
「え、」
彼が目を見開いてこちらを振り向く。こんな時に口下手な自分が嫌になる。例えば硝子ちゃんなら、何か気の利いた言葉が言えたのかな、だなんてどうしようもない考えが頭に浮かんで私はふるふると頭を横に振った。
「…あ、明日から任務だし今日はゆっくり休まないと…。私は大丈夫だから、もし夏油くんが嫌じゃなければここで……。」
萎んでいく言葉尻と一緒に丸まっていく背筋。何か起こる訳でもない。ただ一緒の部屋で寝るだけなのに、どこか期待して火照る頬が私の浅はかさを象徴しているようで恥ずかしい。なんとか目の前に広がる畳の網目を数えて平静を保とうとした私の視界に夏油くんの端正な顔立ちが現れて、思わず悲鳴をあげそうになった。夏油くんに比べたらよっぽど背が低い私に、視線を合わせるために屈んでくれるところは私が彼を好きな一因だったけれど、今ばっかりはどうしても顔を見られたくなかったのに。聡い彼に表情から、私の煩悩を悟られてしまわないか不安だった。
「……本当にいいのかい」
「うん、」
「…怖くない?」
怖い?ぽつりと呟かれた言葉に首を傾げると夏油くんは困ったように笑った。
「だって名前は、あまり異性が得意じゃないだろう?」
それは…。確かに夏油くんの言う通りだ。小学生の時、少しだけ乱暴な振る舞いをする男の子たちについつい苦手意識を抱いてしまって以来、進んで男の子に声をかけるような性格ではなくなってしまった。でも、夏油くんと少しずつ距離を縮めるようになって、こんな私でもほんの少しは変われたと思う。夏油くん相手なら尚更、緊張こそするけど、決して嫌なんかじゃない。
「……夏油くんなら、嫌じゃない、よ」
「……」
正直に気持ちを伝えると、再び夏油くんは目を見開いたまま、固まった。少しの間を経てお腹の底の底から深いため息をついた夏油くんに、心臓が先程とは違う嫌な音を立てる。何か間違ったことを言ってしまっただろうか。下唇を噛むと、ハッと息を吸った夏油くんが慌てて大きな両手を振った。
「違う、今のは君に対してじゃない。いや、そうじゃないというのは間違いかもしれないけど。とにかく、わかった。そう言ってもらえるなら私もここで寝させてもらうよ」
「……?うん」
半分ほど彼の言っていることが理解できなかったが、何とかここで寝てくれるらしい。息をほっと吐いて笑うと夏油くんも同じように笑ってくれた。
夜、部屋の両端に離した布団でそれぞれ横になった私たちは話すこともしなかった。暗闇と時計の針が時間を刻む音だけが2人っきりの空間を包んでいる。時折夏油くんの息遣いが聞こえるような気がして、正直眠るなんて出来やしなかった。この部屋に入った時からずっとうるさい心臓の音がこの静かな空間に響かないように、私は体をなるべく布団に隠して精一杯寝たフリをした。電気を消してからどれくらい時間が経ったのだろう。夏油くんが静かな声で名前、と呼びかけてくるものだから心臓が口から飛出そうになった。
「眠ってしまったかい」
「う、ううん。なんだか眠れなくて」
「そう…、私もだ」
「夏油くんも?」
もしかして、私が眠れずにモゾモゾ動いていたのが気になったのだろうか。それだったらとても申し訳ない。
「わ、私うるさかった…?ごめんなさい」
「いや、違うよ。君のせいじゃあない」
良かった…。ほっと胸を撫で下ろす。私は夏油くんとは反対側を向いているので果たして夏油くんがどんな格好をして、どんな顔をして話し掛けているのか分からない。それがまた下手に緊張感を増幅させた。
「…少しだけ、私の話を聞いてもらってもいいかな」
「う、うん!もちろん。なにか悩み事?」
「悩み事…。そうだね、悩み事と言えば悩み事だ」
私は時折夏油くんの言っていることが汲み取れないことがある。私よりずっと成熟した夏油くんは、私なんかじゃ、思い及びもしない思考を持ち合わせているのだ。何とか一つ一つの言葉を噛み砕いて、間違わないように言葉を返せていればいいのだけれど。
「この部屋に君と二人きりなんだって自覚してからずっと緊張してしまって」
「…うん?」
「情けないけど心臓が破裂するんじゃないかってくらい痛くて仕方ないんだ」
心臓が、緊張で、痛い。……それはまるで私自身のことを聞いているみたいじゃないか。
「いや、正直君と二人きりで任務だと聞いた時から高揚してた。今日一日一緒に行動している間、何度私の心臓が跳ねたか君は知らないだろう。君は私のことをずっと大人びていると感じてくれているみたいだけれどそうじゃない。優しく丁寧に接するのだって君が相手だからだ」
ダメだ、先程からどれだけ噛み砕こうと夏油くんの言葉が頭に入ってこない。だって、その先は思考がどのルートを通ったって同じ言葉に行き着いてしまう。
「今だって、2人きりの空間に欲情して君に近付きたいのを抑えこんでる。そんな情けない男なんだよ、私は」
「げ、夏油くん」
「……そっちに行ってもいいかな」
じわじわと高鳴っていた鼓動がついにどくりと大きく音を立てた。それってどういう意味なの、と言葉を発したくて息を吸った直後。
「無言は、肯定と取るよ」
思ったより近い位置で夏油くんの優しいテノールが響いて私はぶわりと全身の毛穴が逆立つ感覚がした。それはまるで被食者が捕食者に見つかった時のように。
「――う、あ、待って」
「待たない」
そこで初めて私は夏油くんの方を振り向いた。そこで待ち構えていた手に腕を取られて引き上げられる。次の瞬間にはポスリと夏油くんの大きな体に自分がおさまっていて私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。急激に体を包み込んだ熱を部屋に付属していた薄っぺらい浴衣じゃ隠すことなんて出来やしない。
「君のことが好きだ」
「――っ!」
「……君も私が好きなくせに」
隠さないで、と彼らしくない、子供のような拗ねたような声色で呟かれた言葉に私は完全に打ちのめされた。当然だ。聡い彼が私の浅はかな感情に気付いていないわけがないのに。彼は完全にキャパオーバーを起こした私の耳元で追い打ちをかけた。
「言って、私が好きだって」
吐息混じりの声で好きな男の子にこんな風に囁かれて平気な女の子がいるなら今すぐ名乗りをあげて欲しい。ぐるぐると回る視界と思考を全て放棄した私は彼の厚い胸元に顔を埋めて静かに白旗を上げた。
「……私もずっと前から夏油くんのことが――」