可愛いあの子の旅の果て

 消毒液をたっぷり染み込ませた綿を擦り切れた頬に当てると目の前の男は目の端をピクリと動かした。

「あ、ごめん痛かった?」
「…大丈夫です」
「そう。それにしても、五条もまた派手にやったねえ」
「……」

 "五条"の名前を聞いた瞬間拗ねたように視線を逸らした彼の横顔を見る。まだまだ中身は未熟な部分もあるけれど、随分と大きく育ったものだなぁ、なんて近所のおばさんのごとく感動してしまった。

『この2人、僕が預かる事になったから。一緒に面倒見て』

 何も知らされず、同級の五条に腕を引かれるがままやってきた先でそう紹介されたのが、今目の前に居る男、伏黒恵とその姉である津美紀だった。ヘラヘラとあまりに途方もないことを言うので、私は出会ったばかりの二人の前で五条のことをぶん殴った。世紀末を見るような顔が並んでいたのが、今となっては懐かしい。

今でこそ私も五条も人を育てる仕事に就いているけれど、出会った当時は正直私たち2人とも、人を育てられるような感性は磨かれていなかったように思う。それがはてさてどうだろう。当時小学生かそこらだった子がここまで立派に育つのだ。人生も案外捨てたものじゃないとつくづく痛み入る。

「あんまり打撲とか酷いようなら硝子のとこに行きな」

 救急セットを片付けようと立ち上がりがてら、元気に逆立つ黒髪を撫ぜる。撫でられると、むず痒そうな顔をしながら少しだけ気持ちよさそうに目を細める癖は昔から変わらない。五条との組手で消化しきれないことがあると、こうして私の元にやって来るのも。年上にはあまり感情を出さない子だから何を思っているのか直接語られることは少ないけれど、自分がこうと決めたことには強情だ。なかなか立ち上がる気配を見せない彼に、今日は少しばかり長引きそうだなぁなんてひとつ息を吐いた。

「……お茶でも飲んでく?」
「はい」

 気持ちのいいくらい即答だな。私も仕事あるんだけど。まあ仕方ない。これも長年寄り添ってきた情なのか、私は彼がやること、為すこと可愛く見えて仕方ない魔法にかかっているのだから。



 重い腰を上げて自室として与えられた殺風景な部屋に申し訳程度に置かれた簡易キッチンに立つ。そこに置かれた一口コンロにやかんをかけて、上の棚に手を伸ばす。身長、微妙に足りないんだよなぁこの上の棚。イライラしながらつま先立ちになり、プルプルと手を伸ばしていると後ろからふわっと何かが覆い被さる気配がした。私よりずっと大きく成長した手が私の手をあっさりと通り越して、棚の中にある紅茶が入った缶を掴んだ。

「コレ、ですよね」
「あぁ、そうそうありがと――」

 コツ、と軽い音を立てて料理スペースに置かれる缶。それを取ろうと伸ばした手が後ろから絡め取られた。呆気に取られている間にそのまま手を後ろに引かれ、ポスリと胸板に背を預ける形になってしまった。じんわりと背中から恵の体温を感じたところでハッとする。

「恵」
「嫌です」
「まだ何も言ってないじゃない」
「……離したくない」

 私の右手の指の隙間を余すことなく恵のそれが埋めた。気付けばお腹にも腕が回っていてグッと腰を引き寄せられる。内心慌てていたからか、それとも咄嗟に抵抗するのを憚ったせいか、どうにもこうにも動けずにいると、それに気を良くしたらしい恵が私の肩に預けていた頭を上げて、そっと耳の輪郭を唇でなぞった。名前さん、と少し掠れた声が私を呼ぶ。生理現象で飛び跳ねた私の肩を見て、恵の吐息が踊った。

「名前さんのことが好きです。ずっと、ずっと前から」

 彼が放ったダメ押しの一手は、見事に私の心臓を撃ち抜いた。



「ねえねえオマエさ、もしかして恵と
ヤっ…………」

 私は持っていたマグカップをすかさず五条に向かって投げ付けた。彼の術式によって彼の眼前でマグカップとそこから溢れ出した紅茶が宙で止まっているのを見て、ひとつ舌打ちをこぼす。その直後、マグカップと液体が床に落ちるタイミングを狙って奴の胸元に入り込み、無駄に高い鼻に一発押し込んだ。が、やはり直前で術式に止められた。五条の鼻のすぐ先で止まった拳を、無意味と知りながらググッと押し込む。

「よっぽど殴られたいらしいわね」
「もう殴ってんじゃん」

 余裕の笑みを浮かべている五条と、怒りで口角を引き攣らせている私。何とかコイツを屈服させる方法がないか10年以上探しているのに、糸口すら見つけ出せていない。五条という男は心底ムカつくが、最強という名は伊達じゃないのだ。こうしていたって仕方がない。私はフンッと鼻を鳴らして拳を引っ込め、拗ねた子供のように腕を組んでそっぽを向いた。

「まあ、ヤッたヤッてないは冗談として」

 五条がパンッと両手を合わせる音が部屋に響く。

「いや〜収まるとこに収まって良かった〜!これでようやく周りがヤキモキしなくて済むんだから!万事解決!一件落着!ってね!」
「……収まってないし。腐っても教師と生徒なんだからそう簡単に収まる訳………………」


 そこまでボソボソと呟いたところでハタと気付く。今、周りがヤキモキって言った……?

「ちょっと。周りがヤキモキってどういう…」
「だーかーらー」

 五条の方を振り返ると思ったよりもずっと近くに五条がいた。わざわざ腰を曲げて私に顔を近付け、ニンマリと笑う。

「オマエと恵のことを知ってる人間で恵の気持ちを知らなかったのはオマエだけってこと。やーいこの鈍ちん」

 パチンと軽く弾かれた額。目の前に星が舞った。待て待て待て。私と恵を知ってる人間ってどこまで…?

「……ま、まさか生徒も……?」
「ん〜、2年は大概知ってるんじゃない?」
「嘘でしょ〜………………?」

 明日からどんな顔をして教壇に立てと言うのだろう。頭を抱えてその場にしゃがみこんだ情けない姿の私を見て、五条が大きな口を開けて笑った。

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