強くあれ、若人よ

 報告書を書くために教室の机に座ってペンを持ち、もうどれくらいになるだろう。二級術師になってようやく色々な任務に赴くことができるようになってきた。

 今日の任務は準一級の術師に同行し、呪霊祓除のサポートをするというものだった。決して戦闘向きじゃない私の術式もサポートなら役に立つ。
 場所は古い廃病院。肝試しに訪れた何人かの学生が既に行方不明になっていると資料にあったから、ある程度犠牲者も覚悟していた。いいや、覚悟していた"はず"だった。

 呪霊と相対した時、足元に同い年くらいの女の子が倒れていた。胸が上下するのを見て生きていることは確認したが、かなり血塗れで消耗し、助かる可能性が低いことは明白だった。準一級術師に人命救助を優先するよう指示を飛ばされ、ハッと意識を戻した私は女の子を抱き抱えて別室に移動し、応急手当をし始めた。浅い息遣いが心許ない。何回も声をかけて、もうすぐ助けが来るからと訴えかけ続けた。するとずっと閉じたままだった目が少し開いてこちらを見た。女の子は今にも気を失いそうだというのに綺麗に微笑んだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 掠れた声でそう呟いたのだ。不意にこちらに伸ばされた手を握る。それが最後だった。徐々に冷たくなる体と急に支えがなくなった手。目から溢れていた涙を拭ってやったが次に雫がこぼれることはなかった。先程まで生きていた人間が黒いビニールに包まれるのを見るのは、あまりに虚しい。あの人の最後に付き添ったのが私で果たしてよかったのだろうか。相変わらずペンは進まない。コロリと机にペンを転がして、机に頬をくっつける。机の冷たさがぐちゃぐちゃになった頭を冷やしてくれればいいのに。

「あれ、どうしたのこんな時間まで」

 よく知った声に机から顔を起こすと、教室の入り口に五条先生が立っていた。長い脚ですぐに私の席まで距離を詰めると、随分と高い位置から机の上にあるまっさらな報告書を見つめた。

「報告書?」
「…はい」
「こんな遅い時間までやんなくていいんじゃないの?任務帰りでしょ。明日にすれば?」
「でも、」

 何となく今日出しておきたくて。俯きながら呟いた声はまるで独り言のように小さかった。少し間が空いたのち、ちょっと待ってて〜と呑気な声が降ってきてしばらく。頭にコツンと固い感触がした。顔を上げないまま頭に乗ったそれを掴むとじんわり両手に熱が加わる。机の上に下ろすとココアという文字が踊る缶がお目見えした。ありがとうございます、と反射的に口が動く。どっこいしょなどというどこかオヤジくさい掛け声と共に前の椅子に跨った先生も同じものを持っていて、相変わらず大きな体に不釣り合いな可愛い飲み物を飲むんだなとぼんやり思った。

「じゃあ終わるまで僕もここにいよっと」
「…先生、忙しいんじゃ」
「いや?僕も任務終わりで帰ってきたところだから」
「そう、ですか」

 すっかりやる気を無くしていたペンを握り直し、ガリガリと文字を書き進める。呪霊の特徴と自分が行った対処。それから...犠牲者。そこまでいって笑った彼女の顔が目の前に浮かんでしまって、やっぱりペンが止まった。

『ありがとう』

 そんな言葉をかけられるようなことは、決してしていない。私は彼女を救えなかったのだ。


――殺して、しまった。


 ペンを握る手に力が入り、ペンがぎりっと音を立てて軋む。すると、自分より随分大きな手が手の甲にそっと重なった。顔を上げると、口角を上げた先生がこちらに手を伸ばしていた。一瞬力が抜けたのをいいことに私の指を一つ一つペンから離していった先生は、下から支えるように私の手を握った。

「先生…?」
「頑張り屋さんの手だね。マメがたくさん潰れた痕がある」

 重なっていない方の人差し指で、先生が私の手にいくつもあるマメの痕を一つ一つなぞっていく。呪具を握るたびにできては潰れたそれが、今は硬くなって私の皮膚を形成していた。

 そういえばあの子の手は柔らかく、細く、爪も綺麗に切り揃えられていて女の子らしかった。しかし、その手がもう何かを掴むことはない。誰かに優しく握られることもない。手に力を入れられなくなってしまった私は、今度は唇を噛み締めた。何をしていてもあの子が頭から消えないのだ。

「名前はさ、頑張ってるよ。どんどん強くなってたくさんの人を救ってる」

 相変わらず目隠しのせいで表情はほとんど分からなかったが、優しさが滲むような声色だった。ツンと鼻の奥が痛くなり、じわりと瞼が熱くなる。目から溢れそうになるそれを抑えたくて、より強く唇を噛み締め俯いた。

「……今日、女の子が1人、目の前で亡くなりました」

 珍しく先生は静かだ。相変わらず私の手は先生に握られたままだった。


「何もできなかったのに、その子は私に助けてくれてありがとうって言ったんです。握った手がどんどん冷たくなって、手から力が抜けて、固くなっていくのがわかって…。悔しかった。助けたかった。――生きていて欲しかった」

 とうとう零れ落ちた本心と一緒に涙が膝に落ちた。言葉はそこで止まったが、決壊してしまったダムはもうとどまることを知らない。握られていない方の手で必死に涙を拭う。僕はさ、と静かな声が教室に響く。

「確かに最強だけど全知全能ではないから、その子の最後の気持ちまではわからない。でもだからこそ、その子が発した言葉が全てなんじゃないかなって思うよ」

 その言葉に私は目を見開いた。顔を上げると相変わらず先生は微笑んでいた。先生の親指が私の掌の上を柔らかくさする。

「名前が最後に駆け付けて、この手でその子の手を握ったことできっと彼女は救われたんだよ。心は、

――ここに置いて行けた」

 先生のもう一つの手が重なった手の上に置かれ、ふんわりと包まれる。

「入学した頃より随分逞しくなったけど、まだまだ小さい手だ。零れ落ちるものも決して少なくないだろう。だから、もっと多くのものを拾い上げたいと思うなら、強くなりな。名前にしか救えないものがきっとたくさんあるはずだよ」
「…はい、」

 私は先生の手を強く握りしめて、そのまましばらく泣き続けた。先生は私が泣き止むまで何も言わず、ずっとそばにいてくれた。その時の五条先生の手の温もりを、私はこれからも忘れずに生きていくのだろう。

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