二つの心臓を滲ませて

 最悪の気分だった。頭痛、吐き気、倦怠感。ピピッと鳴った体温計を見て私はひとつため息をついた。小さな画面に表示された数字は、
38.9℃。

 完全に風邪を引いた。原因は…、昨日土砂降りの雨の中で任務をしたことか。とにかく体調管理すらままならない自分に情けなさがこみ上げて、ふと泣きそうになった。

 起き上がろうとしても目の前がぐるぐると回るような気がして一度ベッドに逆戻り。これじゃ何をするのも無理そうだ。仕方なく、枕元にあった携帯で短縮に設定してあった番号に電話をかけた。苗字さん、と私を呼ぶ優しい声にグッと心臓が締まる思いがする。

「伊地知、」
「…どうされたんですか?何だか声が……」
「ごめん風邪ひいた」
「えっ」
「一日で治すから任務調整して。ほんとごめん」
「こ、こちらは気にしないでください。治すことに専念を…。何か必要なものは……………」
「大丈夫、ありがとう。忙しいのにごめんね」
「いえ…、」
「ちょっと寝るから緊急の用事あったら悪いんだけど家まで来てくれる?」
「そのようなことは無いと思いますが…、分かりました。お気を付けて」

 気遣う伊地知の言葉に返事を出来ていたかは分からない。私は半ば気を失うようにしてそのまま目を閉じた。



「うぅ……」

 次に目を開けると全身が温かい何かに包まれていた。毛布にしては少しだけ重い。未だ鈍痛が響く重い頭をゆっくりと動かして回りを見る。目の前に厚い胸板。腰の辺りに巻き付く逞しい腕。考えるまでもない。愛おしいひとがそこにいる。ひどく落ち着く香りに私は顔を埋めた。…が、すぐにハッとしてガバリとその心地よい空間から起き上がる。

「帰って!」
「……ん〜なんで」

 珍しく寝こけていたらしい彼がきゅっと眉間にシワを寄せたあと、両目を乱暴に手でこする。それを止めたかったのか、彼を起こしたかったのか、はたまた両方か。彼の腕を両手で握って自分の方へ引っ張り上げようとしたが、なんせ体格差がありすぎてびくともしない。

「うつる!」
「……僕、オマエと違って体も丈夫だし何より体調管理もバッチリなの。こんなことで倒れたりしないよ」
「……」

 普段なら何てことない軽口がぐさりと私の胸を突き刺した。腕を握っていた手の力が抜けて、だらりと首が垂れる。すると、手を掴まれて、今度は彼の方に引っ張られた。勢いよくベッドに沈んだところを上からのしかかるようにぎゅうと大きな体が抱きしめる。

「とりあえずもうちょっと寝て、落ち着いたら体拭いてあげるから。そうしたら何かお腹に入れて薬飲んでまた寝てさ、明日も一日ゆっくり休んでよ」

 背後に回された手が私の髪を梳く。いつもの軽薄さはどこにもない。優しくて、心に染みるようなそんな声。

というか、明日もって。

「ねえ、まさか」
「そのまさか。オマエに宛てがわれてた任務、僕が明日の分まで全部片付けてきたから。ちなみに僕の分も。だから明日は僕達2人ともフリーってワケ」

 今度こそ心臓がぎゅうっと強く掴まれる感覚がした。これだから嫌なのだ。体調を崩すというのは。心まで一気に弱くなる。むくりともう一度起き上がった私は仰向けに寝転がる悟の両側に手をついて、体に覆いかぶさった。悟はそんな私の顔を見て一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに細めて目尻を優しく下げる。

「何で泣いてんの」
「……わかんない…、」

 わからない。彼が来てくれて嬉しい。でも、迷惑をかけてしまった自分が情けなくて仕方がない。ただただ心臓は先程からぎゅうぎゅうと痛む。それに呼応するようにぽたぽたと零れる涙が悟の滑らかな頬を伝ってベッドへ染み込んでいく。眉を八の字に曲げて困ったように笑う悟が人差し指でその涙を拭った。

「……ごめん、」
「謝ってほしいわけじゃなかったのになぁ。オマエとのことは、たまに何が正解か分からなくなって参るよ」
「ごめんね、」

 私は後頭部に置かれた手に導かれるまま悟の胸に顔を埋めた。ぐずぐずと鼻を鳴らす私の頭の上を温かい手が優しくなぞる。

「なんか…、さすがに僕も疲れちゃったから一緒に休もうよ。そんでもし、明日名前が元気になったら……、好きなだけ寝たあとに、好きな物何でも食べて、部屋でゆっくり………、久しぶりに映画とか見てさ……、その後は、…………」

 それから先の言葉が続くことは無かった。代わりに聞こえてきたのは穏やかな寝息だった。私の頭をひっきりなしに撫でてくれていた手もいつの間にか添えられるだけになっている。私もゆっくりと力を抜いた。瞼を閉じる前、小さく呟いた言葉が世界でいちばん愛おしい貴方に届いてほしい。きっと望んでいたのは、この言葉だと思うから。

「ありがとう、悟」

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