溢れて止まらない
違和感に瞼を開けると、視界は半透明の何かを合わないピントで捉えていた。その先に透ける肌色の指先。なるほど、と半透明の正体に気が付き思わず声が漏れた。
「…ぉっと」
差し出された灰皿に咥えていた煙草の先端を落としセーフを装ったら、ナナがすかさず追い討ちをかける。
「ぉっと、じゃないよ。絨毯焦がしたらまた怒られるよ〜」
気が付けば深夜。音の響かない静かな部屋に二人。
室内は快適に保たれながら、それでもやはりどこかが冷えている。
言うなれば質感、だろうか。
そんなことを体感しながら「はい」とだけ相槌を打った。
*
「2人、何してるかなぁ」
明け方。薄明るくなってきた窓際で柔らかく結露したガラスの向こうを眺めながら、ナナが言った。
「喧嘩」
「ふふ…私もそう思う」
マグカップを両手で包みながら丸めた肩を揺らしナナはくすくすと笑う。
まもなく5時。ニアとメロが珍しく共同で捜査に当たっている。我々はその帰宅を見守る係。
ハウス周辺のセンサーが反応したら、一時的にセキュリティロックを解除し車がすぐに乗り入れられるようスタンバイ。
というのはほとんどこじつけで、要するに、友の帰りをなんとなく待っているのが実情だ。
眠気覚ましにタバコの箱へ手を伸ばすと、ナナがそれを遮った。
「マット寝てていいよ。眠そう」
「…ナナこそ。身体に差し障る」
大丈夫だよ、と言ったそばからナナは口元へ手を当て大きくあくびする。
それから彼女はぎくりとこちらに目をやり、「本当だってば」と付け加えた。
「じゃあ、眠気覚ましにクイズはいかがかな?」
「…?」
何を言い出すのか…そう思って振り向きざま、自らの失敗を自覚した。
正面から彼女を捉えてしまった。
避けようと決めていたのに抗えなかった。
避けたかったのには理由がある。
いつも同じ疑問に突き当たるからだ。
なんでこんな透き通った声が出せるのだろう、とか
柔らかな頬に触れたらどんな感覚がするのだろう、とか。
口にする気は毛頭ない、我ながら破廉恥な、居心地の悪い気持ちが頭をよぎる。
目の前の彼女はそんな気も知らず、クイズとは到底言えそうにない簡単な疑問文を呑気に繰り出した。
「メロの誕生日はいつでしょう?」
「……」
まったく残念なことに、俺たちは何年経っても変わらない。
こんな些細な会話一つに思考を巡らせる。空気が変わる。
窓もドアも閉まっている。勿論盗聴器などもない。設備は万全。そうして初めて。
「冬」
形にして表に出す。いくらでも状況をリカバリできる形を保ちながら。
「メロっぽいよね」
ナナはクイズの答えを明かしはしない。ただ俺の渇いた返答に間髪入れずそう答えると、もう一口マグの中身を喉に落とした。
「メロのは知ってると思った。じゃー、ニアは?ニアのは知ってる?」
試すようにいたずらにこちらを覗き込むナナを、避けるよう思わず目を逸らす。
ナナの視線から逃れる為背けた顔の半分で、小さく憤りながら答えた。
「なつ」
「冬っぽいのにね〜!」
やはりはっきりと答えを明かさないまま、ナナが楽しそうに共感を求める。
「まあ…」
適当な返事を宛がって、変わり映えのないモニター画面を適当に見つめた。
(…なんなんだ)
クイズはここで終了だろうか。
画面端に"February 1"の表示を覗き見て、何もかも面倒くさく感じた。
運命
奇跡
偶然
そんな訳がない。何も知らず、何の意味もなくこんな質問をするほど、ナナは鈍くない。
「……」
「……」
妙な間ができてしまった後、間の抜けた顔であくびを抑えたナナが一言「遅いねえ」と呟いた。
なるほど。
どうやらクイズは終了らしい。
そう思った途端に眠気が増すから、あのクイズには眠気覚ましとして一定の効果はあったようだ。
*
「あ!来た!」
ニアとメロが乗る車に先に気が付いたのはナナだった。「あれだよね?」画面を見ながら伸ばした手で、寝かけの俺の腕をゆする。
ああ、と返事してハウス裏へ続く通り道のロックをすぐさま解除した。静かに通り抜ける車を見守り、再び強固なセキュリティをかけて任務は完了。
寝かけてて一瞬危なかった。
二人とも同じような感覚なのだろう、ふうと吐息を漏らしたナナが肩を竦めて"危なかったね"とでも言うように笑った。
つられて真正面から彼女を捉え、再びしまったと思った。目が離せない。
安堵と嬉しさと高揚を混ぜたような表情。
星を映したようにきらきらと光る瞳。
ひとたび舐めてみたらこんぺいとうのように甘いのではないか。
まつ毛を伏せたナナが「あのさ」と切り出す。
少し緊張してはにかむ頬。
柔らかく開かれる唇。
どんな感触なのか。どんな味なのか。
「ニアとメロがこの日に帰ってくるのって、やっぱりマットのおいわ…」
…
……
言葉の続きはどうしたんだろう、と思いながら無意識に引き寄せていた手を離す。
「……い、か…な…?」
目の前のナナが呆然とした顔でカタコトに続けるのを見て、たった今自分が何かしでかしたかのような印象を覚える。
欲求で越えてはいけないラインを越えたのではないか。じわじわとわいてくる自覚。
蘇るように起こった出来事が頭を駆け抜けていく。
親指が自らの口元へ向かった。押し当てるとまるで嘘みたいに固い。さっきとは全然違う。
「あれ…?」
いや、いや、待て待て。
「……した?」
「した!」
口元を両手で押さえたナナが耳まで赤くしてこくこくと頷いている。
した。したか?したよな。
冷静に考えようとしたけれど、その必要もない。
別に熱に浮かされた訳でも盲目になっている訳でもないのだから。
ただシンプルに確かめたくて。
そうしたらどんな風なのか、知りたくて。
キス。
した気がする。いや、した。
「わ…るい」
考えもなく口にして、今度は本当に冷静さを欠いてしまった。
「ばか。なんで謝るの」
「え、合意もなしに…」
「突然だったし!」
「突然だった…本当にごめ…え?」
ナナの目から突然ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出し、どうすればいいか俄然分からなくなる。
緊急事態。
だというのにやっぱりまだ、潤んだ瞳に胸が締め付けられ、泣いてる顔もこんなに可愛いんだと脳内が痺れゆく。
今、この瞬間。彼女を俺が一人占めしている現実。この状況を打破したいのか迎合したいのかすら咀嚼できない。
あれも、これも、浮かんで止まない。
自分は変態なのかもしれない。
「さっきのは」
もはや身じろぎできずにいる俺に代わり、ナナが口を開いた。
何を言われるだろう。もう、元には戻れない。
捜査を終え疲れを纏った二人から軽蔑の眼差しを浴びることを覚悟する。
「プレゼントってことにするから」
「?」
「誕生日の!」
口を尖らせたナナが、聞いたことのない声色を出し優しく怒っている。
少し甘えた、駄々をこねるような声。
「次は…突然しないでね」
伏せた目に鼓動が高鳴っていくのは、これは愚かな男の勘違いではない、はず。
「次って…」
今の台詞は少し愚かだったかもしれない、と思いつつ彼女から目が離せない。
見たことがない姿。
それにこれは誰にも見させたりしたくない姿だから。
「…ニアとメロが来るよ」
そう小さく呟いてナナは目を瞑る。
さっき自分から奪っておいて、今になってどう触れればいいかも分からない。
ただ一つ言えるのはそう、確かに急がねばニアとメロが戻ってくる。
意を決して彼女の手を取った。
―やっぱり誕生日のこと分かってたな…
喉元から心臓が飛び出そうになりながら距離を詰めていく中、ふと発言が繋がって、言い訳まじりに結論付けた。
―策士だな
変わらぬように見えるこの部屋の中。
感じている熱気とうるさいくらいの鼓動は、戻ってきた二人に隠せるだろうか。
溢れて止まらない