オンリー・ユー
事件が起こるのはいつだって大抵、みんなが寝静まった真夜中なのである。「うっそ…もう…ほんと…死ぬかと思った…なんでいんの…?」
けたたましく激しく鼓動を打つ胸を抑えながら切れ切れに言うと、冷蔵庫の青白い庫内灯にうっすらと照らされて幽霊みたいなメロが薄い眉を寄せ言い返した。
「それはこっちの台詞だろ」
縮こまった身体の力を徐々に抜きながら、ひとまず手探りでテーブルに両手を落ち着ける。
こういう時は何かに触れている方が安心できるというものだ。
「だって、今3時よ、3時」
「そっくりそのままお前に返すぞ。人一倍怖がりのくせに何で来た?」
「何でって…」
そりゃあ、
のどがとっても渇いていたから。
深夜。夢の途中でふと目が覚めて、寝返りを打ったが最後、気が付いてしまった。
ひとたびこうなったらもうごまかすことは叶わない。
無視して寝るには絶妙に気になる尿意と、水分を欲する渇いたのど。
むくりと起き上がって手洗いに寄り、暖かいベッドへ戻る前に意を決してキッチンに来たのだ。
そう、メロのご指摘通りとても怖かった。でもとてもとてものどが渇いていた。
…恐怖心の約2倍。
真夜中は電気をつけるのだって少し勇気がいる。たちまち明るくなって暴かれた視界の先に、もし何かを見つけたらと思うとスイッチを押すのがはばかられる。夜は暗いのが自然なんだ。変に明るくしたら目立って、お化けに気付かれてしまうかもしれない。
寝ぼけ眼を決め込み、月明かりを頼りに。何も見ず何も考えず一目散に冷蔵庫のあるキッチンへ向かった。ぐびっと一口水を飲んだらすぐに部屋へ戻るつもりでいた。
それなのに私と同じ欲求に駆られたらしい先客が、そこにいたのだからたまらない。
キッチンへ繋がるドアを開いた瞬間に見つけたのは、暗闇の中に青白く浮かび上がる不健康そうな顔。
照らされて顕著になった目の下の隈、へびのように鋭い目。
あれはそうだ、あの、墓を荒らすあれだ、お化けだ。幽霊だ。
それよりもほら、目を合わせたら石にされてしまう怪物とかそっちの類いかもしれない。
「…とにかくホラーだから閉めてよ」
「うるせーな」
整ってきた息にそう乗せると、メロは不機嫌そうに悪態をついたものの、静かに冷蔵庫の扉を閉めてくれた。
しかしそれが更なる混乱の始まりとなってしまう。
「わ!暗い!!」
「当たり前だろう」
「で、電気!電気つけて!」
「ナナの方が近い」
「ああ!そうだねっ!どこだっけ…わ、ちょっと待って…えっと…」
我ながら間抜けだけれど庫内灯が失われたら完全な暗闇になることを予測していなかった。
怪物に出くわした胸が落ち着かないまま再び訪れた暗闇に、焦ってうまく室内灯のスイッチを見つけられず、足は椅子にぶつかり手は壁を無駄に撫でるばかりだ。
「ったく」
待ちきれなくなったメロが舌打ちのような音を立て、ごそりと動き出す。
こちらに近付いているのが気配で何となく分かった。
「えっ行っちゃうの?」
「用は済んだ」
「や、私が飲み終わるまで待っててくれない?」
「やだね」
「お願い!一緒に部屋に戻ろう!だめ!?」
「だめ」
「わー!!一生のお願い!!まだ行かないで!」
すぐ横までメロが来ているのが分かり、暗闇の中無我夢中で腕を捕らえた。
こうなったら実力行使でいくしかない。メロは着ているものが伸びるのを嫌がるのでがっちり掴んでいれば絶対に残ってくれるはず。
「ちょっナナ引っ張るな…」
「ごめん!でも許して!」
「元々暗かっただろ」
「メロが驚かさなければ平気だった!」
「だから明るくしてやるんだよ、離せって」
「じゃ明るくなったら離れる!」
「…」
微妙にあった間に、多分メロがうんざりした表情を浮かべたと感じた。ほんのりと肩も上がったし。
でもそんなことには構えない。とりあえず、ぴたりと腕を覆う肌着のような服を伸ばさないようにだけ気を付けて、それでも置いて行かれないようしっかり腕は掴んで、余計なものを見てしまわないよう顔を押し付ける。
こんなことなら変に怖がらず、廊下の電気はつけてしまえば良かった。廊下が明るかろうと暗かろうと、キッチンで恐怖体験をするのは変わらなかったのだ。せめて廊下から明かりが届いていたら、こんなに心拍数を上げずに済んだはずなのに。
でも過ぎたことを言っても仕方がない。今はメロに合わせてずりずりと足を引きずって進むより他ない。
元々壁際にいるのだ。スイッチはすぐに見つかるはず。
それまでの辛抱…逃げられないように精一杯メロを捕まえたままぎゅっと力を入れて歩く。
「わぁっ!!」
ところが少し進んだあたりで私は急に身体のバランスを崩した。
引っ張られるようにしてよろけたのも束の間、背中がぴたりと何かにフィットして姿勢が安定する。
壁だ。壁に押し付けられたみたい。
服を掴んでいた両手はすかさずメロに手首を取られ、背中と一緒に壁に押さえつけられてしまった。
何も見えないけれど、緊迫した雰囲気だ。
これはもしかすると怒らせてしまった…?
そこで私はようやく自分の過ちに気が付く。
暗闇も、怪物も怖いけれど、私にはもっと怖いことがある。それは、メロが怒ってしまうこと。
メロに嫌われたりしたくないのだ。
本当は、こんな真夜中に偶然出くわしたのがメロで良かったと思ったくらいで。
みっともない姿をお見せしてしまったけれど、メロになら全部見られても構わないと思った。
でも嫌われてしまっては台無しだ。
ずっと前に間違えてメロお気に入りの革のジャケットを引っ張ってしまった時は、数日口を聞いてもらえなかった。
いくら肌着とはいえ嫌がることはするべきじゃなかった。ああ、どうしよう。
黙っているメロの言葉を息をのんで待つと、張りつめた空気は意外な言葉ですぐに破られた。
「…お前、誰にでもそうやって抱き付くのかよ」
「…え?」
誰にでも抱きつく??
論点はそこなのかという疑問に駆られるものの、慌てて弁解するよりこの場合手立てがない。
「い、いやいや!誰にでも抱き付く訳ないよ!」
宣言してもなお続くしん、とした沈黙。
逃げ出したくなるけれど目の前にはごまかすことを許さない厳しい気配、背中も腕も壁にぴたりと押さえられ、すり抜けることすらできそうにない。
完全に、包囲されている。
駄目だ、これはもう思いきり機嫌を損ねさせてしまった。
根拠のない否定では納得してもらえないから、もっと正確に伝えるべきだ。焦った頭で私は急ぎ言葉をひねり出す。
「いや、怖かったら分からない…かもしれないけど、誰にでもとかじゃなくて、反射みたいなもので、えーっとだから決して抱き付きたくて抱き付いてる訳ではなくて…つまりこれはその、どうにも仕方がなっ…!」
突然のこと。
何かに口を塞がれて「わっ」だか「ふっ」だか形容しがたい声が上がった。
それでもその音は外にこぼれることができずにのどの奥で行き止まる。
何が起こったのかとおののいている、まさに時が止まったような一瞬のうちでも頭の中はぐるぐるとハイスピードで状況を分析しはじめる。
温かさと
ぐっと近寄ったメロの気配とチョコレートの香り
それにほんの少しだけ高貴なフローラルが混ざったこの匂いは多分メロの髪の毛のもので、
だけど、両腕はメロの手に押さえられたままで
じゃあ、
それなら。
強く押し付けられた唇に身動きが取れない。
さながらメロによって石にされた私がかけられた魔法へ解けるのを願うこともしないでいるうち、あっという間に熱は離れていってしまった。
息もつけずにいる中、目の前のぼんやりとしたシルエットのメロは腕を離し吐き捨てるように呟いた。
「言っとくけど俺はナナにしかしない」
直後にパチッと心地よい音が響きキッチンが明るさに包まれると、私に話す隙を与えずメロは廊下へ進んでしまった。
瞬間捉えた後ろ姿。反対側へ顔を反らして表情を隠したメロの、髪から少し覗く真っ赤な耳を見て思わず両手が自分の頬を抑えた。張り付いた手のひらにじわじわ伝わる熱が、さっきまで触れていた手首が、唇が、熱い。
これって、そういうことなのかな。
そう受け取って、いいのかな。
ああメロ誤解しないで欲しい。私だってメロとしかしたくないよ。
突き動かされる衝動にのどのことなんかどうでも良くなってしまった。
向かう先にあなたがいるなら、怖さだって吹き飛んでしまう。
そこで私はようやく自分の気持ちに気が付く。
明るさも、水も欲しいけれど、私にはもっと欲しいものがある。それは――
「メロ!待って!!」
これは近年稀に見る一大事。
キッチンに入った時とは違うドキドキを抑えず素直に受け止めて、つけたばかりの電気を消して、今すぐ走って追いかけなくちゃ!
事件が起こるのはいつだって大抵、みんなが寝静まった真夜中なのである。
だけどご安心。
今夜キッチンで起きた事件は、おかげさまで解決の運びとなりそうだ。
オンリー・ユー