雫
突然現れては悲しみを代表したみたいな形を保って、雫がつーっと下へ落ちていく。少し見つめているだけで窓硝子は何度も繰り返し涙を流し、「あぁ結構降っているなぁ」と私は憂鬱になる。
雨。潤いとして必要な存在であることは言わずもがな。それでも私は喜々としてその存在を迎え入れることはできないでいる。上目遣いに睨むようにして、憂鬱の先を見渡す。
「あ…」
コウモリのように黒い羽を広げたシックな傘をしっとりと光らせて、ワタリがハウスの門を潜るのが見えた。
ーLは大丈夫かしら。
L、L。ワタリは呆れるかしら、それとも少しは老齢な自分のことも労わらないものかとこっそりと憤っていたりして。
Lが帰る気配はいつでも私を心躍らせる。ときとき、と不思議な胸の高鳴りがある。
ドキドキする程激しくなく、しかし嬉しいのとも違う確かな高揚。温かい飲み物、それからタオルも必要ね、逸る想いで突き動かされる身体が証明しているのは、まさしく恋心。
「おかえりな…っ」
ドアを開けようとしてすぐ分かった。今日の雨は強い。否、風が強いのだ。少しでも早く開けようと手を添えたが、木目を携えたドアが「ちょっと冷静におなり。」とセーブをかける。ぐっと力を入れ直してお節介な隔たりを押しのけると、少し先に大きな傘に包まれたワタリと、Lが目に入った。
「おかえりなさい!すごい雨ね!」
「タイミングが悪かったようです。」
ワタリが漏らす。Lを濡らすまいと傾けて寄せた傘。コウモリは遠慮なく老齢な持ち主の肩に雫を落とした。直接見ると、ワタリの濡れ具合の方がひどく、思わず先にタオルを手渡す。丁寧に手入れされたスーツの肩はもはや水分を吸い取ることを忘れ、アスファルトのように落ちてきた水滴を跳ねさせている。
ワタリ、Lへの愛情で私はきっと貴方に負けている。素敵。
「Lのタオルもあるけれど…」
あるけれど、の先に続くのは”使う?”。用意はしておいたけれど、私はLが、私ほど雨が嫌いな訳ではないことを知っている。
「いただきます、どうも。」
そっけなく(見えるが、特に深い理由などない。いつもの調子。)で私からタオルを受け取ると、Lはまず黒い髪の毛先を拭き取った。
顔は拭かないのかなぁ、と思うと、「どれだけ顔の水分を拭き取っても、毛先が当たれば意味がなくなります。まず外側から。」
と呟き、教えてくれる。
最後の「まず外側から。」の一言が好き。
他の者には、そんな丁寧な説明はしないでしょう?本当は私だって、そこまで聞かなくとも推し測ることはできる。それでも、より伝わりやすい言葉を選んで足してくれるLに、私とのコミュニケーションを大切にしていることを感じ胸が熱くなる。
「コーヒー飲む?先に入浴する?」
「そういう時はナナにする、と答えるのがポピュラーです。」
きょとん、と目を丸くする私を盗み見て、ワタリが「そういう会話は二人きりの時にするものです。」と注意する。
指を咥えたLの悪戯な視線がワタリを捉える。ここから見ているとまるで注意されて拗ねてしまった子どものよう。ワタリは傘の老主人になり、名探偵の右腕になり忙しい。今は拗ねた子どもをあやす父親としてそこに佇んでいる。
「もう、いいから早く入って。」
呆れたような、恥ずかしいような気持ちを入り混じらせ伝える。
「入浴します。」
Lはさりげなくちゃんと答え、ワタリはすぐにヒューマンウォッシャーの方へ向かう。遮るように割って入り、自分が受け持つことを伝えると、ワタリは嬉しそうな顔をする。
Lの面倒を私が見ることについて、寂しさを滲ませないでくれることが嬉しい。
(良かった。)
安堵に顔を和らげれば、ワタリが
「ナナ、あなただからこそ嬉しいんですよ。」
と声をかけてくれる。触れていないのに、頭を撫でられたような温かい気持ちが胸に広がる。私もワタリに大切にされているのだ、と。
温めておいた浴室に多忙な紳士を促して私は祈る。ワタリの疲れが取れますように。
**
稼働するヒューマンウォッシャーの近くで砂糖水を用意して待つ。今はもう、温かいものを飲みたい気分ではなくなっているはず。
身体の中も外も、ほとんどの水分をワタリの発明品の中で振り切って、Lがガチャリと出てくる気配がする。あれは本当に電力を使う道具だ、と私は思う。だけど、乾燥までやってのけるから便利さには敵わない。
「見ないでください。」
「見てません。」
「見てもいいのに。」
「見ませんよ。」
他愛のない、意味のない会話を交わす。そう、交わす。私は一方通行ではない会話をLと"交わせる"存在。その実感はこの上のない幸福。
Lが温かい気配をまとって後ろから近づいてくるのが分かる。私は分かっているけど振り向かない。分かっているから振り向かない。
スッとLの腕が後ろから私を包み込む。むわっとした熱気、ひと回りもふた回りも大きい胸の中に収まるのはえも言われぬ感覚、くらくらする程刺激的。ぐらりと倒れて、このままこの人に食べられてしまいたい。
「砂糖水をいただいたら、ナナにします。」
「ふふ、またそんなこと言って。」
「二人きりなので。」
振り向いてキスをする。冷静沈着な世界の切り札の情熱的な唇から名残惜しく離れ、私はもう一つ祈る。砂糖水、早く飲み干して。
**
一足早く滑り込んだベッドで膝立ちになり、窓際のカーテンを閉める。
相変わらず窓硝子は雫に我が物顔をされている。
けれどもう涙には見えない。もっと別の、そう、例えるなら…
我ながらよくそんな風に捉えるものだ、と苦笑いする。
例えるならそう、これから私たちを伝う汗とか。
見上げた時に視界に入る美しい彼の腕や、顔に触れるしなやかな髪が思い出され、鼓動が高まる。
温められたLにこれから私の方が温められることを思い、窓の外を見る。
―今日だけは感謝するよ、今日だけ、ね。
雨に与えられた不真面目な"潤い"に感謝をして、私はするり、ベッドに潜り込んだ。
*end*