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乾杯
 死んだ人間の魂は、天へと昇るのだろうか。
 グラスの中で微細な泡がちりちりと浮かぶ様を見つめ、解散も目前となったこの組織のトップはそんなことを考えていた。死後の世界など信じてはいなかった自分を追懐しながら、今だって神話に語られるような世界などありはしないと疑いつつも。
 それでも、死神は存在した。
 地中に潜るでもその場で消えるでもなくいなくなったリューク。混乱を引き起こすきっかけを作った気まぐれな死神。奴が遥か上空へと飛び去っていくのを、ニアはその目で確かに見た。

 夜神月の死をもって、キラ事件は終わった。
 ノートに刻まれたおよそおびただしい量の文字は、過剰な自意識に乗っ取られた殺人犯による自己保身の言い訳に過ぎなかった。どれだけの命が、死神のノートの前で無力に息絶えたか。SPKの始動初期に、有能な捜査員を多数失ったことが思い返される。
 ニアは絶えず浮かび続ける思考の流れに身を任せ考え続けていた。L。Lを継ぐとは。Lならばどうとも思わなかっただろうか、と。

 あの日の捜査本部。ダイスが散らばる音と共に、目にした景色がニアの中から消えることはない。
 スパイを割り出す前に先を越された。そうなる可能性を把握していない訳ではなかった。戦略と優先順位の相違。
 様々な経過を辿ったが、キラに確たる証拠を突きつけ自白させることに成功した。しかし、こちら側に被害がなかったとは到底言えない。失われたものは多く、紛れもなく必要な命はたくさん消えた。
 コマのように扱うには限界がある。自分は責任者であり指示者であり、SPKを率いる立場だった。Lとは。Lを継ぐとは。正解とは――。
 大きな山を越え俯瞰で感じることができるようになった今だからこそ、雑念のように浮かび来る思考に絡め取られ、ニアは目の前のグラスを手にすることを躊躇する。

 祝宴を開くほど親密な間柄の組織ではない。ただ、目指し続けてきた事件解決を受け、ささやかに労い合う、それくらいのコミュニケーションはあってもいいと気を利かせたレスターがこの場を設けただけのこと。
 味気ないフロアの一角、必要のなくなったコードとモニターに囲まれた室内は、良く言えば機能的、悪く言えば飲食にはとことん向かない。それでも、書類を避けて作ったスペースで彼は手際よくシャンパンのコルクを抜いた。
「ニア……?」
 気遣わしげにジェバンニが声をかける。ニアは答えず、自身の横に置かれたローテーブルとその上にあるグラスを、ただ見つめ続ける。
 反応が乏しくても、ニアの下で動くことに慣れている彼らの理解は深い。レスターはニアをそのままにして、グラスを掲げた。
「Cheers、ニア」
 同じようにリドナーとジェバンニが続き、その後、想定通りの沈黙が訪れた。三人からの視線が集まる。ニアはちらとそれを確認し、仕方なく口を開いた。
「……ご尽力に感謝します。後処理が終わるまで今しばらくよろしくお願いします」
 皆が自分を気にせず一息つけるよう声をかけ、彼はラジコンのコントローラーを手に持つ。操作すると、ビニールプールの中のアヒルが、沈黙を切るように水音を立て勢いよく駆けていった。

 この瞬間、ニアにはどう振る舞うべきかが本当に分からなかった。
 応じた方が良いだろうことは理解できるが、あまり気が進まない。止めどなく脳裏をよぎる「Lとは」「正解とは」という疑問に明確な答えを持ち合わせないまま、何かを祝う気持ちにはなれそうになかった。
 屁理屈をこねているだけかもしれない。こういったことに不慣れであるがゆえ、若干の気後れを覚えていることも完全には否定できない。
 ニアは我関せずを貫こうと視線を下げる。しかしその視界に陰が入り込み、ニアは動きを止めた。見れば、すぐ横のデスクに寄りかかったリドナーが彼を覗き込んでいた。
「ニア。あなたの功績よ」
 リドナーは言葉を選んだ末にそう呟いた様子で、なめらかな唇の端が諸々の思慮を含んで引き上げられている。

 自分一人の功績な訳がない。この結果に辿り着くまでに、危うい場面は確かにあったのだ。そう考えるに至って、ニアは捜査を共にしてきた彼らの存在をまざまざと実感する。彼らも生身の人間であること。死んでいないから、死んだ者のように思い返したりはしないこと。彼らの決死の協力なくして事件解決は出来なかったこと。

 目線を上げると、リドナーはニアを見つめ返し、頷いてみせた。
 彼女の美しい圧に促され、ニアは後方のデスクを振り返る。そこには表情に安堵の色をにじませたジェバンニと、あたたかい視線を送るレスターがいて、グラスを持ったままニアを待っていた。
 思わず彼らを特別な存在に位置付けそうになって、死線をくぐりぬける体験の罠だとニアは皮肉混じりに自分へ言い聞かせる。
 観念してコントローラーを手放すと思った以上に音が目立ち、妙に気恥ずかしく思った。

「Cheers」
 言い慣れない言葉を口にして、ニアはグラスを掲げる。それから皆の動きを真似して、ほんのひと舐め初めてのアルコールを摂取した。
 これまでに感じたことのない風味と熱さが舌に触れ、口内に染み渡っていく。ごく少量でも鼻の奥に芳香が広がって、痺れるような刺激を感じた。

 アルコールにどう影響を受けるかは、個人差が大きい。小さな変化なら、互いに気に留めることもないだろう。
 だからこの瞬間、頬が染まったり、少し笑むようなことがあったとしても。例えば彼らのことを特別な間柄のように感じたとしても。
 それら全てに体のいい言い訳が用意できるのであれば、なるほどこういうのも悪くはない、とニアは思った。
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