約束
こんな生活をしていれば、約束などあってないようなものだ。この場における約束の意味は「同じ用件に納得したよね」というその場限りの意識の共有であり、そこに明確な拘束力などない。私たちが交わす約束は、子どもが絶交を言い渡し、その翌日にはじゃれて遊んでいるのと変わらないくらい不確かで、その場限りのものなのだ。
――分かってる。分かっては、いても。
窓に叩きつけられる雨と、その奥に滲んで見える暗い空を見上げて、鬱々とした気持ちになる。ため息をどうにか飲み込んで、まったく、自分がそんなにも”約束”に期待高まっていたことを少し悔しく思う。
不確かな約束も、その全てが無意味な訳ではない。子どもがする他愛のない約束だって、「絶対結婚しようね」と「今日このあと遊ぼう」では実行性が違うように。そして何故私がこんなことになったのかといえば、それは私とLが交わした先日の会話(そもそも約束ではなかった)が、「今日このあと遊ぼう」に類するものだったからだ。
「大学の状況を確認したい」とLが言い、「リムジンで行ったら目立つ」と私が言い、「なら別の方法を提示してください」とLが言った。
はたから見ればなんてことのないやりとりかもしれない。約束だと、そう取ったのは私だけだったかもしれない。
けれど、鬱屈した捜査環境に身をとどめ、思ったようにLに近付けないこの状況で、一度心に宿った気持ちをなかったことにするのは、容易ではない。
“じゃあ歩いていっちゃう?”
例え私がそう言っても、Lはきっと返事をしない。
だからやりとりは省略された。けれどこのやりとりは私たち共通の認識下にあり、だから今日、きっと二人外を歩くことができると思っていたのに。
空模様に文句を言うのは愚かしい。Lにだってコントロールできない。我々は翻弄させられている、神の掌の上。
加湿器がピーピーと小さな音を立て、端にあるライトが赤色に点滅する。給水のサインだ。いつも音を鳴らさぬよう意識しているのに、しくじった。きっと、今日はもう何をしてもうまくいかない。
天気に恵まれなかったことも、加湿器のエラーも、Lが悪い訳ではないのに、私はわざとLから視線を逸らすように彼の前を横切る。
内心を悟られたくない気持ちと、八つ当たりしたい気持ちが半々。
どのみち、Lがそんなことに構っている暇はない。竜崎氏は忙しい。捜査員と直接顔を合わせての指示は初めてだから事態がスムーズでない。彼が今までやってきたやり方ができない。内部に統率が取れていないから、完全な連携が計れない。Lが個人主義であることの意味が、今さらながら理解される。
私はどうしたってLの肩を持ちたくなるから、この場所にいると少し窮屈だ。我慢していた気持ちが、憤りついでににじみ出てきてしまう。
Lから逸らした視界に否応なく飛び込んだ捜査員たちを見遣り、誰とも目が合わぬようさっとその場を通り抜ける。
――あの人たち、何かやろうとする度に抵抗を示すんだもの。
しかし協力する以上、否定的に捉えるのは禁物だ。視界を曇らせる。竜崎がやるように、せいぜい、彼らの心理傾向を先回りして対策を立てる他ない。
悪いのは彼らではないのだ。方法が、文化的思考回路が違うだけ。
極力音を立てぬよう加湿器からタンクを外す。水分のかけらがプラスティックの内側でところどころ垂れて、泣いているみたいだった。
*
「今日はここで切り上げます」
22時を回る頃、Lがそう告げた。捜査員の面々が確認するように顔を上げる。
22時で早いと感じるくらいには、私たちはとうに感覚が狂っている。0時を回る日もざらにあるからだ。
「残りは監視カメラの映像確認のみです。が、確認作業は疲労度が高いと見落としが生じやすい」
あくびを噛み殺した松田さんが「それもそうですね」と、このままの流れを変えぬよう肯定的な相槌をうつ。
「睡眠を確保してください」
淡々と説明するLに、夜神さんが聞く。
「竜崎は、どうするつもりだ?」
「私も自室で少し目を休めます」
捜査員の間に含みを持った無言が広がる。”竜崎でも目を休めることはあるのだ”という小さな発見。でも嘘だ。獲物を前にしたLが休みなど取るわけがない。
「そうか……。ならば、今日のところは竜崎の言う通り切り上げよう。皆、明日に向けてしっかり休んでくれ」
夜神さんは痛む心を隠して納得してみせる。この人は非常に勘がいい。そして正しい人だ。
Lが休まない、休むとしてもそれはごく僅かな時間で、結局は夜通し監視映像の確認を行うことを分かっている。本当は自分が下がって良いものか、気にかかっているに違いない。けれど直属の部下の疲れ切った顔も、見過ごせなかったのだ。
捜査員の面々がそれぞれ休息を取ることに同意する。その姿を、どう見ても一番疲労している夜神さんが見つめていた。
*
プライベートルームに入ったLは、勿論のこと休息の「き」の字も取ることなくモニターの前へ移動した。しゃがむように椅子の上に収まり、転送した映像を見つめ続けている。
「何か飲みます?」
二人きりなのに思わずかしこまって聞いてしまい、ばつが悪い。先ほどまで長い間、捜査員の前にいたものだから。だけど、捜査員の前で馴れ馴れしい態度を取るといった逆の間違いよりはずっといい。表向きの私はLのビジネスパートナー。プライベートには立ち入らない、”深い意味のない”パートナーなのだから。
「コーヒーをお願いします」
ちら、とこちらを見た竜崎が要望する。パートナーとして、私はすぐにコーヒーを用意しにかかった。
*
「どうぞ」
「どうも」
間髪入れずに帰ってくる返事が一瞬どちらのものか分からなくなって戸惑った。竜崎か、Lか。竜崎は普段私をあまり視界に入れない。捜査員の前では特に。見えているのかいないのか、そんな態度を取る。
そう思えばこそ、これは二人でいるから発した言葉なのだと理解される。彼の素顔を垣間見ているようで、Lは無意識なのかもしれないけれど、私はかすかに胸が躍る。
そしてまた同時に、失われた二人きりの散歩を思い出しては残念な気持ちになるのだ。
コーヒーカップと並べて置いたシュガーポットの蓋を開けて、Lは唐突に口を開いた。
「砂糖を入れている間見落とさぬよう、ナナさん映像を見ておいてください」
「……はい?」
思わず聞き返す。Lが私に頼むなんて珍しいことだから。
「何見ればいいの」
「変わったことがないか」
「自信ないけど……。すぐ終わる?」
「ええ。砂糖を入れる間、補助としてですから」
そう言われた私は、Lの隣へ椅子を持ってくる。赤いビロード張りのふかふかした椅子。腰掛けると柔らかなクッションが贅沢に身体を包む、高級な椅子だ。
私が黙ってモニターを見つめると、Lはポットへシュガートングを運びはじめる。そして角砂糖を掴み、ぽとりと一粒、それをコーヒーへ落としてみせた。
見つめたモニターには明け方と思われるビル街の景色が映っている。人通りはなく、車の一台すら見られない。オフィスビルの明かりも軒並み消えており、映像上では内部を窺い知ることは難しい。
見つめる必要があるのか疑問に思いながら、モニターに視線を送る。
今度トングを使わずゆっくりと二粒目の角砂糖を摘んだLは、それをコーヒーには入れず直接口へ運んで噛み砕く。まったく、呑気なものだ。
三粒目はまたコーヒーへ。四粒目は噛み砕く。まるで、遊んでいるかのよう。
コーヒーの中へやっとのこと七粒目の砂糖が浸入したのを見て、自分の中で痺れが切れてくるのが分かった。
固形が崩れ、溶けていくこれだけの時間を、何の邪魔もなく過ごせたこと。貴重なのではないか。今この瞬間だけはいつものように、今までのように二人きりなのではないかと思う。
「え、る」
Lでも、エルでも良い。どちらで呼んでいるかは、私にしか分からない。今探ったのは竜崎と呼ばなくても良いかどうか。
「はい」
無視されず返事が来たことを受け、胸の内側に安堵に似た高揚が広がる。今日一日心を曇らせていた不満はどこかへ行ってしまって、急に、エルが恋しくなってしまった。
今は二人きり。
すぐ隣にエルがいる。
その事実が、本当は何より。
この上のない距離に堪らなくなって、今なら許してくれそうな気がして、私は傾けた頭をエルに寄せる。
膝に載せられているエルの手に遠慮なく頭を置いたら、ずるずると引き抜かれてしまった。
けれど、その大きな手のひらはすぐに私の後頭部へ添えられる。頬と後頭部にじんわり伝わってくる熱は、私たちにおける”約束”がちゃんと実在のものであったことを認めているようで、どうにも甘えたい気持ちに歯止めが利かなくなる。
そのまま黙って熱を共有し合うこと数分。
触れ合って満たされた胸が、今日の出来事にへそを曲げるのはやめようと機嫌を直しはじめる。
「……私も糖分補給する」
一言漏らすと、エルはモニターを見ながら角砂糖を摘み、私の口元へそれを寄せる。
角砂糖と一緒に指もかじろうかと思ったけれど、それはやめておいた。
約束