この手全部。
月明かりが差し込む窓辺を眺めていた。眠気はいつ訪れるのか。身体を休める為にせめてと促されベッドには入ったものの、今夜も碌な睡眠を得ないまま朝を迎えるのは目に見えていた。カチャリ、と物音がしてドアを振り返ると、廊下の電球色を背にしたパジャマ姿のナナが立っていた。
「どうし」「シー!」
私の声を制した彼女は、羽のようにふわりとドアを閉める。物音の立たない様を見て「私にはドアを閉める才能がある!」と豪語して回っていたのは冗談ではなかったのかと思う。
リズムをつけるよう軽やかに近づいて来たナナは、ベッドの側で立ち止まりこちらを覗き込む。
驚きも親愛も表現せず無言で様子を窺う。静かにするよう指示したのはナナなのだから。
「ねえニア、一緒に寝てもいい?」
身体をUの字に曲げるべく横斜めに倒した上半身、髪の毛がサラサラと流れて落ちる。
「またですか」
「いい?」
いい?とは口先ばかりで、言った側から布団を捲り上げ下からもぞもぞと潜り込んでくる。
彼女がこんな風に私の部屋に来て一緒に眠りにつくのは初めてではない。
不思議なことにナナと話しているといつの間にか眠っているということが何度かあった。
「いいですけど、窮屈なのはいやなので離れてくださいよ」
「うん、OK!」
隙間から混ざった冷気を伴いながらナナ芋虫は傍らで這い上がり、ボサボサ髪の下に満足そうな笑みをぶら下げて顔を出す。
そして先ほど爽やかに離れると了承したはずの彼女は、見事なまでに約束を跳ね除け今寝返りを打った私の背中にぴたり張り付いている。
「ねえねえ、寝ちゃうの?」
「その為に寝転がっているんです」
「寝る気なんてないくせに」
「…」
柔らかな温もりを背にしたまま他愛ない会話を交わし、それから互いに無言になって横たえることしばらく。
呼吸の仕方から寝ていないであろうことは何となく。探り合うような数分間が静かに過ぎる。
少ししてナナが再び声を出した。耳元にごく近い場所にあるナナの口唇から息遣いごと脳に響く。
「もう寝た?」
「寝てます」
「寝て、ない!」
面白がって彼女がバタバタと動かす足が腿に刺さる。痛いし邪魔っけである。
「ニア、ちょっとこっち向いて?」
「いやです」
「お願い!」
「…何ですか。…っ!」
仕方なく振り向くと、視界が潰され額に痛みが走った。ゴツリと耳の中だけに響く鈍い音と共に肌が触れ、頭髪がざらりと擦れる感覚の後「イテッ!」と彼女が小さく漏らした。どうやら私達は頭を勢いよくぶつけたようだった。
ぶつけたのと同時に頬に柔らかな感触もあったような気がしたが、その正体は言われるまでさっぱり判らなかった。
怪訝な表情が表に出てしまったように思うが、彼女は気にせずに告げる。
「あのね、これはおやすみのキスだよ」
「え?」
「しんあいなる人にするって、教えてもらった」
「…今のがですか」
「ちょっと失敗した」
そう言って照れくさそうに彼女の悪戯顔は、はにかむ。
ちょっとどころか盛大に失敗した親愛のキスは、額の痛みの存在感に比べ微々たる感触しか残さなかったが、ひとたび意識を向けると妙に頬の一部が熱く感じるものだ。
「…何してるんですか。大人しく寝てください」
そう返したのは居心地が悪かったから。どう反応すればいいのか、計り兼ねた。
「え?」
元の向きに戻った背後で、彼女が悲しみをまとった声を出し明らかにしょんぼりとするのが感じて取れた。
ゴツリから数十秒、舞った埃が落ち着く頃まで私たちはどちらとも口を開けない。
「そっか!」
先に沈黙を破ったのはナナだった。
「私がすきでも、ニアはすきじゃないよね、ごめんね!」
声色だけで、困ったように笑うナナの顔が目に浮かぶ。やせ我慢してすぐにあの表情をする彼女を、できるだけ楽にさせてやれないものかと願ったのは、どこの誰だったか。
「部屋に、もどるね」
そっと横に転がるようにしてベッドを出ようとするナナの、棒のようにまっすぐな腕を咄嗟に掴む。
「今さらあなたが抜けたら寒くなります」
「…ニア」
えへへ、ありがとう、と小さく答えたナナはそのまま距離を取ってベッド上に収まった。
掴んだ手を滑らせるように下ろしてナナの手を握る。彼女もまた握り返す。
私たちは互いをしっかり捕まえて、ゆっくりと堕ちていく準備をする。
しばらくすると呼吸が入眠後のものになり、彼女は穏やかに寝入ったようだった。
私は半分寝返って仰向けになると、目だけで彼女を見つめる。
握り合っていた手から力の抜けたナナの指がするすると逃げ、掴むは薬指と小指だけになる。
「…段階というものがあるでしょう」
言い訳のような言葉を意味なく発した。
私たちはまだ、幼い。
未熟で、権利などあるようでないに等しい、確立されていない存在。
ナナの全てをいつか、包み込めるように。それはまだ敵わないから、今はせめてこの手全部を包み込むように。
探った指先で逃げた分まで捕まえて、柔らかで小さな幸をしっかり握って私も眠りについた。
この手全部。