フイアンセ
通信が途絶えた画面に映し出された自分の顔を見て、絶望を覚えた。(何だったの、今の…)
深夜。ニアが仮眠している時間。机の周りを片付けていたら突然モニターが点灯した。
「ニア、ニア。私よ」
こちらの映像はあちらには映し出されないと知りつつ、まるで見透かされているようで無言のまま固まってしまった。
私と同じように驚いている画面の向こうの綺麗な女性は、戸惑いながら「あれ…応答はニアじゃないのね?私、ニアと話がしたいのだけど」と切り出した。
自分はニアの婚約者で、定期的に連絡を取っていること。
いつもこの時間に連絡を取り合っていること。
(確かに普段、ニアはこの時間一人で作業していることが多い)
そして何より、「あなたは誰なんですか…?」と戸惑いがちに聞く様子。
また改めて連絡するからニアには言わないで、と不安そうに通信を切った彼女の真に迫った表情に胸の中のざわつきを抑えることができなくなってしまった。
こちらこそ。
こちらこそ聞きたい。
あの人は、一体誰なの…?
**
もう少しできっとニアが起きてくる。恐ろしくて、顔を合わせる自信がない。
一般的ではない恋愛関係だとは思ってきたけれど、それでも私達なりに真っすぐお互いを大切にしているものだと信じてきた。
まさか、ニアに婚約者なんて。
だけど優秀な遺伝子を残す為に、優秀な婚約者がいたっておかしくはない。
ニアがあの人にどんな感情を抱いているかは分からないにせよ、たった今、見てしまった。
儚げな視線でこちらを見ていた、傷ついた女性の顔。
本当のことを聞きたいけれど、万が一許容できない答えが返ってきてしまったら…?と頭をかすめて、うまく言葉にできそうにない。
…出ていこう。
咄嗟にそう思った。
真相がどうとかではなく、まず一旦頭を冷やさなきゃ。
とても冷静に考えられないし、渦巻く不安が大きすぎて気持ちが悪い。
情けなくて、申し訳ないけれど。
ニアが利用できる者を言葉巧みに欺くように、自分も騙されていたのではないかという疑心がちらちらと胸をかすめてしまう。
無造作に投げてあった手提げにとりあえず目につく私物を放り込み、最悪もう二度とここに入れなくなっても困らない貴重品だけを探す。
勝手に震えてしまう手が、悲しい。
ニアが物音に気が付いて起きてきたのは、玄関に続く廊下へのドアに手をかけた時だった。
「ナナ…?」
「……」
「どこへ行くんですか」
「ちょっと…」
それ以上言葉が浮かばず、逃げるようにドアを抜けた。本当に驚いたのは、まさか黙って見ているタイプだろうと思ったニアが追いかけてきて、私の手首を掴んだこと。
「どうしました?」
少しだけ早い話し方に、焦りのようなものを感じて、複雑な気持ちになる。
私が出ていきそうで焦ってるなら嬉しい。でも秘密がバレそうで焦ってるなら恐ろしい。
手首に触れるニアの体温は確かにここにあって、今すぐ手繰り寄せて泣きつきたい。
けれど、真実が恐い。通称・Lは、決して清廉潔白ではない。
「ちょっと、夜風に」
「…貴重品を一式持って、ですか?」
ああどうしよう。世界一の探偵に、どんな言い訳をしたって通用する訳がない。
「……何か隠してますね」
反射的に首を振ったものの、それも力なく鎮まってしまう。
嘘は、つけない。
「何ですか?」
「…離して。今は少しだけ離れたいの」
「理由も分からないまま夜外出させられません」
「いいからお願い」
「ナナ?落ち着いてください」
ニアの話し方が、いつもよりほんのり丁寧で、私を言いくるめようとしているのが分かる。
でも今は、そんな風に上手な言い方で誘導しようとするニアこそ受け入れ難い。
極力何の情報も与えぬよう、顔を逸らし口をつぐむ。
私の様子を見て、ニアは小さく息を吐き方法を変えた。
私が飛び出さないよう前に立ちはだかり、壁際へ静かに押し寄せていく。
「私が席を外している間に何かありましたね?何ですか」
掴まれた手首が少しだけ痛い。ニアも必死なの?
意外に強い力に今だって否応なく胸が高鳴ってしまう。
「せめてこちらを見られませんか」
強く迫る言葉に逆らえず、上目にそうっと覗く。
影になったニアの顔は精悍で鋭く、いつの間にか少年ではなくなっていたことを思い知る。
1mmだって逃すことなく情報をキャッチして、私から言葉を、真実を引き出そうとしている。
降参だ。
そう思うとこらえきれず涙がこぼれた。
結果の程度に差はあれど、これから話すことに良いことなんて何もないのだから。
「ニア…、他に付き合ってる人、いるの…?」
次々溢れてくる涙を見られたくなくて下を向いたら、責めるようにきつく握られていた手首が解放され、代わりに身体が苦しくなった。
ぎゅう、と強く抱きしめられ、いつものニアの匂いで胸が満たされていく。
「何を誤解しているのか知りませんが私が想っているのはあなただけです」
きつく強く、こんな風に抱きしめられたのは初めてで、ニアがぎゅっと押さえていてくれるおかげで、暴れ出してしまった感情が溢れていく。
ニアの言葉に安堵を覚えながら、まだ文字通りに受け取っていいのか揺れてしまう自分もいる。
しゃくりながら続きを吐き出そうとすると、ニアは私の頭を胸に引き寄せ、優しい手つきで髪をなでつける。
「あまり良い恋人ではないかもしれませんが…ナナを悲しませるようなことはしていないつもりです。一体何が何だか」
依然離れることを許さない腕の中で、ふとニアの胸の鼓動が伝わってくることに気が付いた。
ばくばくと脈打つ音に、こんなに必死なニアを初めて見ると思う。
「さっき、婚約者って人から連絡があって…いつもニアとこの時間に連絡し合ってるから、また…っ」
打ち明けている途中急に離された身体、不意に暗くなる視界。
事態を飲み込む間もなく唇が塞がって、これ以上続きを言うことは叶わなかった。
ニアの唇の熱で言葉も思考も溶かされる、このまま誤魔化されるなんて嫌だ。
こわくなって顔を逸らすも大きな手に後頭部を捕らえられ、二度、三度と唇を貪られる。
押しのけようとした手は壁に押し付けられ、こじ開けられた隙間から侵入する舌をあっけなく受け入れてしまった。
**
唇を離してから、荒い呼吸を隠さず私の涙を拭ったニアは、少し憤慨した様子で「何故私の方を信じないんですか」と嘆いた。
「…へ」
間抜けな声を漏らした私の前髪を、優しくそっと直しながら、心底迷惑そうな顔を浮かべてニアは続ける。
「婚約者と聞いて分かりました。それは詐欺師です」
「??」
「何度か共に仕事をしています。新しく依頼をして連絡を待っているところでした」
「すごく美人で儚げな女の人だよ?」
「儚げ…結婚詐欺で荒稼ぎしながらハニートラップや各種恋愛工作を半分趣味で楽しむようなろくな人物ではありません」
「そのろくな人物ではない人にお仕事依頼してるのはニアなんでしょ…」
まだ半信半疑ながら、バツが悪くてつい口を尖らせてしまった。
もしそれが本当ならニアを疑ったのは悪かったけれど、プロの詐欺師の演技なんて私には到底見抜けない。
「元々悪趣味だとは思っていましたがこんなつまらない嘘を吐くほどとは思いませんでした。誤解を招きすみません」
今もまだハラハラの名残で泣きそうだけど、
「やむを得ないにしろしばらくは疑われるのでしょうね」
とか
「私は信用を得るのが難しい立場なのに」
だとか
悔しそうに言い訳するニアを見ていたら、何だかいつもみたいに可愛いニアに見えてきて心が落ち着いていくのが分かった。
**
次の日、例の女詐欺師さんと会話する様子を見学させてもらって、しばらくと言わず私の誤解はすぐに解けた。
「あの後どうなったかわくわくして眠れなかった!」と確かに悪趣味を存分に発揮している彼女はあっけらかんと昨夜の嘘を語っていたし、断固接触拒否のニアの容姿をかなりはき違えている様子が聞き取れたから。
紅茶とお菓子を届けた時、潔白の証明に自信ありげな様子で通信を終え振り向いたニアが、何だか愛おしくて照れてしまった。
だから冗談めかして、これでもう終わりにしようと思ったのだけど。
「じゃあ…本当にニアには婚約者いないのね?」
ところが。
「いるとしたらナナだけです」
また違うドキドキが、新しく始まってしまったのだった。
フイアンセ