呪い解ける時
不審者が現れた。最初はそう思った。ドアスコープが映し出す夜の闇の中、僅かな月明かりに照らされた玄関扉の向こうに黒い影が蠢いている。
酔っ払いだろうか、この辺りは行き場を失った迷い人が多い。寂しい土地だ。廊下の電気をつけなくて良かった。このままそっとこの場を離れ、何も見なかったことにして息を潜めていよう。
朝になれば白い空に正常な意識を取り戻し、真夜中の不審な訪問者の多くは行き場がないながらにふらふらと去っていく。きっといつもと同じだろう。
そう、思った。
目の前にいる影は今にも崩れ落ちそうな揺らめき方で必死にこちらへ足を引きずって近づいて来る。月明かりに当たって鈍く光るのは革の服を着ているからか。
ボサボサに伸びたところどころ黄色い髪は綺麗に整えればブロンドかもしれない。きらりと光ったのはほとんどが汚れで覆われている…ロザリオ。
確かに間違いなく、目の前にいたのは不審者だった。
面識さえなければ。
「メロ……!?」
名を口にして直接呼びかけたのは何年ぶりか。息つまる思いで私は迷わず扉を開いた。
*
ドアを開けるとすぐに倒れこむように不審者はのしかかってきた。一瞬自らの願望が幻影を見せたのかと焦ったけれど、煙に燻された匂いに懐かしい甘い匂いが混ざっていてすぐに思案は掻き消される。
「メロ!!メロ!?」
支えた腕を引き抜き顔を確認しようとして心臓が止まるかと思った。
擦れたような赤黒い肌とところどころからの出血、透明な何か…恐らくメロの体液で私の手は赤く染まっていた。
「どうしたの……!?」
恐怖で足がすくむ。一体どうしてメロがこんな目に…。誰かに襲われたのか、何かに巻き込まれたのか…。
「きゅ、きゅうきゅうしゃ…」
「ょ…ぶな…!」
はぁはぁと途切れた呼吸で絞り出された声は掠れている。
触れた傷跡が熱い。それにこの焦げた衣類。火傷…?
「何があったの、私じゃ応急処置しか…」
ハウス時代多少学んだとはいえ、重症者を前に実践的なことがどこまでできるか分からない。
現在は研究職についている私には応急処置が手一杯だ。
左半身が赤みを帯び、ところどころ水泡になっている。特に左腕の傷付き方が顕著で見ているこちらまで息が苦しくなる。赤みは首を通って、顔の方まで。あの丸く愛らしいシルエットを作っていた綺麗な髪が、見る影もなく水分を失い焦げているなんて。
「火傷…?爆発か何か…」
考えて…ハウスでしていたみたいに手のひらをこめかみに当て思考すると自分の腕から指先までががくがくと震えているのが分かった。
思案中の独り言にメロが反応する。頷いたのか、それとも支える力を持続できなかったのか、落とすようにこくりと私の肩に頭を預けるメロを倒れないように受け止めた。
「や、火傷なのね…?」
唇が震えてうまく話せない。目の前でメロの息が今にも絶えそうなのだ。
追われている様子のメロを一体どうすればいい!?考えながら血に染まる指先で玄関の鍵を閉めた。
「こっち…こっちに、早く…」
負傷して力の抜けた身体が重い。無理に引っ張って皮膚にこれ以上のダメージを与える訳にはいかない。
「お願いメロ…もう少し、頑張って、お願い」
必死に声をかけながら昼に掃除したばかりの綺麗な廊下に血と黒い埃を重ねて進む。
浴室のドアを足で放ち、すぐにメロを横にさせた。肩から離れる時に聞こえた呻くような息遣い、こんな苦しそうなメロの声、一度だって聞いたことがない。死なないで、死なないで。どんどん溢れてくる涙に気がつき、傷跡に落ちたらしみて痛いだろうから覗き込むのはよそう、混乱した頭で、今重要とは思えない細かなことを考えながら蛇口を捻った。
*
シャワーの響く音を耳にしながら、私は携帯を手に取り電話をかけた。
どうしてメロが…。
キラ事件を解決するとハウスを飛び出してからずっと音信不通だった。
キラに迫るところまでいったのだろうか、そこでキラに…?
違う。キラは直接的に攻撃を仕掛けるような方法を取らない。きっとキラ事件に関わるどこかで、何かに巻き込まれたんだ。
辛そうに呼吸するメロの身体にシャワーの水が当たって撥ねている。低体温を防ぐ為右半身に当てた毛布もじわじわと濡れゆく。
コール音の間さえもどかしい。早く、早く出て。
「おう」
「ナナです、マット?」
「そーよ。何、慌ててどうし…」
「メロが…!」
同窓だったマット。ハウスを出てから国家機関をクライアントにハッキングの腕を活かして生計を立てている。先日久しぶりに連絡を取り、家からほとんど出ないと聞いて冷やかしに会いに行ったばかりだった。
「は?」
「メロが…火傷だらけで…今ここにいるの!どうしようマット…!」
「ナナのとこって…家?」
何度も頷いてから、それでは伝わらないと「そう」と絞り出した。
電話口の向こうでガサゴソと慌ただしく音が鳴り始める。
「…深さは?」
「少なくとも深達性II度以上…III度かもしれない…追われてるみたいで病院に連れて行けないの!」
「すぐ行く。用意は」
「ガーゼと包帯を大量に…それから…」
必要なものを早口で伝え電話を切った。ついさっきなのに何を話したか思い出せない私の言葉でうまく伝えられたか甚だ不安ではあるけれど、マットなら間違いなく必要なものを用意してくれるだろう。
*
こんなに生きた心地のしない時間はなかった。
マットをすぐ迎え入れられるよう玄関にいようか迷いながらも浴室のメロを見ていないと恐ろしく、廊下と浴室の間あたりをうろうろしていた。
けどマットが来たらすぐに運ぶことになる。この後に備える為メロを覗き覗き急いでベッドを整えた。
突如、真夜中に不釣り合いな呼び鈴が響き、玄関へ飛んで行く。
「ナナ…」
ぐしゃぐしゃになった私の様子にマットは一声漏らしたけれど、すぐに「メロは」と続き二人で浴室へ向かった。
マットがメロの衣類にハサミを入れ、私は皮膚をめくらないよう水で流していく。
時折痛そうにメロが呻きをあげるけれど、この状況においてそれは、神経が死んでいないことを表す希望のようにすら感じられた。
*
「これで…ひとまずは…」
「ああ」
薬なら種類豊富に家に置いてある。ほとんど全身を包帯で覆われてミイラみたいになったメロの前で私とマットはへたり込んだ。
「マット…来てくれてありがとう」
「礼言われるようなことはしてないよ。メロがナナの家に来たのは正解だったな」
「…できることはやったけど、来るまでに時間があったはず」
マスクか何かをしていた跡があった。そのおかげか呼吸器に大きな問題はなさそうだし、綺麗にしてみるとどろどろに黒ずんで見えた初見の印象よりはかなりましなように思えた。命に別状がないとまだ完全には言い切れないけれど、恐らく薬を塗って安静に過ごし続ければ状況を落ち着かせることはできるはず。ただ…。
「…跡が残る可能性は大きいと思う」
額を抑えて自問自答する。他にできることはなかったか、私の動きは寸分の無駄もなかったか。
「大した問題じゃないさ。箔がついて羨ましいくらい」
マットが励ますように言った。
*
「帰るよ」
メロとマットが静かな寝息を立てていたので、そっと抜け出し廊下と浴室を掃除していた。
一通り綺麗にして朝食でも用意しておこうと思った朝方、マットが既に帰り支度を済ませてからそう声をかけてきた。
「もう?せめてコーヒーくらい」
「やりかけの仕事放り出してきちゃったからさ」
「…あ。本当に動転してて…。ごめんね、ありがとう」
「必要になったらまた連絡して。…後は、若いお二人で」
廊下を歩き進めながらマットが妙な言い回しをするので笑ってしまった。頬がこんな風に柔らかく動いたのはものすごく久しぶりに感じた。
「私達みんな同い年じゃない」
玄関ドアの前でそう言葉を返す。
「ナナこの間、メロどうしてるかなって言ってたじゃん」
ドアノブに手をかけたマットが少しだけ優しい顔をしてこちらを振り返り、私は何も言えなくなってしまった。
*
目を開けたメロへ先手を打つように宣言する。
「左半身深達性II度前後の火傷よ。本来なら2ヶ月は大人しくしてて欲しいの。最低でも10日ないと正確に判断できないからね」
「……」
「だから一週間はここにいてもらう」
「……」
「せめて、最低、5日くらいは……絶対」
メロは何も言わずこちらを見据え続ける。この視線が苦手だとかねてから思っていたことを今さらになって思い出した。私の中で鮮明なつもりだった記憶が、徐々に弱まっていたことを思い知らされる。
「ぶれぶれの治療方針…」
「はい?」
やっと喋ったメロの言葉に怒ったように返しつつも、胸の中で安堵や喜びが広がるのを感じた。良かった、ちゃんと声が出て。
何年も待ちわびたその声を、久しぶりに聞くことができて。
「メロが動き出すの待ちきれないと思って言ってあげたんじゃない」
「…手間かけさせたな」
メロは私の言葉に一言そう返して、右側へ寝返りを打つ。
「あっ反対側でも擦れる…でしょう?大丈夫?」
「何とかな」
「じっとしてて。今お水持ってくる」
キッチンへ向かう後ろで「…悪い」と呟いたメロの声が聞こえた。そんな風に気を使うようになったんだ。あの頃より伸びた背丈、火傷がなくてもガラリと変わった雰囲気。もう遠い存在になってしまったかもしれないメロが、それでもこの非常事態にここへ来てくれたことが嬉しかった。
*
メロは意外にも大人しく数日を過ごした。私が仕事へ行き来する間に何処かへ行ってしまうのではないかと気が気ではなかったけれど、毎日帰宅するとベッドやソファの上に大人しく収まっていた。
「ただいま」
「おかえり」
私の世話になっていることを引け目に思っているのかいやに素直な挨拶をする。「おかえり」なんてハウスにいた時だって言われたことなかったのに。
「今日教授に疑われたわ」
「?」
「薬持ち出してないかって」
「捕まるな」
「責任取ってよね」
あんなに火傷したのにホットチョコレートは飲めるらしい。
私はハウスを出てから久しぶりに誰かと食事を共にする。その相手がメロであることに感謝すら覚えてしまう。
夜を迎えるのがこんなにも楽しいなんて。
「泣き虫のお前が暗闇で眠れるようになったとはな」
「何歳の頃の話してんのよ」
「しかも一人で」
「そう、すごいでしょ。褒めて」
「あーえらい、えらい」
「ちゃんと心込めてっ」
ベッドに蹴りを入れるとメロの返事がなくなり、私は肌が擦れることを思い出す。
「あぁっ!ごめん!大丈夫!?」
「…わざとだろ」
「違うってば!」
「謝れよ」
「あーごめん、ごめん」
「絶対わざとだろ、さっきの」
「違うってば!本当にごめんね」
思わずメロの髪に添えそうに持ち上げた手を、気がつかれないように下ろした。
かつてはそれが許されるくらい近い距離にいたような気がする。だけどどれだけふざけあっても、子どものようにじゃれあえる距離では無くなってしまったと、私はそう感じていた。
*
「今食べるもの用意するから待ってて」
"最低でも5日"と言ってしまったのでいよいよ飛び出す時がきたかと思えば、今日で6日目になる。私はうっかり、「このままずっとこの日々が続けばいいのに」と思いそうになる。
けれどメロが、私の不在時にPCを使い何かを調べていることは知っていた。
「チョコレートが欲しい」
5日間、用意したものを大人しく食べ続けていたメロが沈黙の後そう切り出し、私は時が近付いていることを確信した。
*
メロが飛び込んで来て7日目の夜を迎えると、私はどうしても居ても立っても居られなくなった。
まだ痛みもあるし、ケアも必要な体。けれどきっと、メロはもう動き出してしまう。それを止めるだけの力は私にはない。こんなに苦しいのに、後悔のないようメロを後押ししたい一心なのだ。メロはまた命を危険に晒すかもしれないのに。
だからこそ、居ても立っても居られない。
「何だよ」
暗闇の中でむくりと動き出し、布団の端をおもむろに捲るとメロが少し警戒するような声を出した。
「一緒に寝る」
「は!?何で…」
「ここは元々私の寝床だもん。ほら、そっち詰めて!」
自分を奮い立たせるようにあえて強気に言って、潜り込んだ。
7日の間に私の布団はすっかりメロの匂いに変わっていた。
「いつ行くの?」
我慢ならず口にした。突然会えなくなるなんて、もう二度とごめんなの。
「あ?」
「いつ、出て行くの」
「…出て行って欲しいか」
そんなわけないじゃん、と言ったら泣いてしまいそうでそれ以上は言えなかった。メロは相変わらず意地悪だ。意地悪を言って相手を試そうとするところが意地悪で意気地なしで、意固地だ。
「…知らない」
言葉に詰まって結局濁した。隣にいるメロがどんな顔をしているか、確認することもできないくらいに私たちは近い。
「最後の最後まで後悔したくないんでしょ。なのに私のところに来るなんてメロも弱って気に迷いが出たわね」
「うるせーな」
「何よ、こっちは死ぬ程心配したんだから!」
「…すごい顔してたもんな」
ふっと呼吸を漏らして、久しぶりにメロが笑った。
この感覚、ハウスの庭でサッカーをしていたメロを見ていた時以来だ。
胸がぎゅっとなって、触れている腕に抱きつきたくなってしまう。
「でも気の迷いから選択を間違えてくれて良かったよ。もう会えないかと思ってたんだから」
「…」
メロは黙ってしまうけれど、自分の口を止めることができない。
メロがそんな弱い気持ちでここに来た訳じゃないことを、私はちゃんと分かっている。だけどもう離れてしまうなら、精一杯強がるしかないじゃない。
「メロが来てくれて嬉しかった。後悔しないように生きて…また何かあったらいつでも来てね。ずっと…ずっと待ってるから」
「やめておけ、時間の無駄だ」
「いいよ。それでもいい」
「…」
「私、メロのことずっと好きだった」
暗い部屋がしん…と静まり返る。幼い頃は勇気がなくて言えなかった言葉を何故だかどうしても今言いたかった。伝えておきたかった。
触れ合った指先が自然と繋がった時、暗闇に溶け込ませてメロが静かに呟いた。
「俺が選択を間違える訳ないだろう」
それから「…その言葉を聞きに来ただけだ」とも。
メロに妥協なんて似合わない。諦めなんてもってのほかだ。キラ事件の真相を突き止めるまで、目的を果たすまで、動きを止めないに決まってる。
その最中に私のところへ来たのが気の迷いでないのなら。
想うと胸が熱くなった。
その夜いつも一人で寝ていたベッドの上で、私は愛しい人の呼吸を感じながら眠りについた。
もしかしたら、"私達は"だったかもしれない。
*
翌朝はっきり目を開けると、ベッドにいるのは私だけだった。
力なく起き上がった先で見渡す限り、メロに繋がる何もかもが忽然と姿を消していた。
綺麗にしたロザリオも、新しく買っておいた服も、沢山用意したチョコレートもすべて。
「…またいってらっしゃいを言いそびれたな」
強がりをひとつこぼして頭を掻いた。窓の外は澄み渡る青空にぽっかり浮かんだ白い雲。メロを突然失ったあの日とは違う、晴れた日。
のそのそと歩いて携帯を手に取った。夢中で過ごした一週間だった。何日ぶりに手にしたかなというくらい、懐かしく感じるフォルムが手に馴染む。すぐに履歴の一番上の番号に電話をかけた。
「ナナです」
「どーした?」
何パターンか予想はついているであろうマットに改めて告げる。
「近いうちにメロがそちらへ行くと思うから、よろしくね」
「まじかよ…」
だるそうな声を出すマットにいつぞやのお返しを仕掛ける。
「マットこの間、退屈してるって言ってたじゃない」
くすくす笑って伝えると、電話の向こうで少しの沈黙が広がった。
きっとあの時の私と同じ顔をしているに違いない。
黙って返事を待つと、ほどなくしてマットの「しょーがねーな!」と請け負う声が聞こえた。
*
まだ夜に近い明け方。すぐ横にある温もりが失われていく瞬間、私は、本当は意識があった。
私を起こさぬようきっとまだ痛む身体でそろりそろり姿勢を変えていくメロの為に、私は一生に一度の眠り姫になった。
支度を終えたメロは出発する間際、ベッドのところへやってきた。
空気すら震わせないよう慎重に近付いて、そしてチョコレートの香る唇で私に一つキスを落とした。目を瞑っていても分かったよ。瞼に落ちた髪の毛、くすぐったかった。
丁寧に丁寧に玄関のドアが閉められた音を聞いた時、堪えきれず一度泣いたけれど、それは許して欲しい。
王子様にキスされたら、お姫様は目を覚まさなくちゃならない。
だから私も顔を上げて、今度は泣かずにちゃんと前へ進むよ。
*
…決意の朝だ。
「幸運を祈ってる」
目の前に広がった、何も知らない、平和で穏やかで泣きたくなるような青い空に顔を向けて。
二人の無事を祈り、私は電話を切った。
呪い解ける時