home's_16 | ナノ
Happiness
絶えず口ずさんでいる鼻歌と
軽やかに揺れる毛先と
ふわり風にめくられて見える髪と首の境い目。

窓から入ってゆるく頬を撫でていく風。
室内から見ても吸い込まれそうな、どこまでも遠く青い空。
カウンターの椅子に座って把握できる360度すべて。

不確かで間違いばかりの世界の中にもほんの少しばかり真実や幸福があるなら、こういうものだと思いたくなる。


「もう少しでできる」

張り切りながら真剣な声を出すナナの後ろ姿は何とも形容しがたく、表現に適切な言葉が浮かばないから落ち着かない。"愛らしい"というのかもしれない。"可愛い"じゃ陳腐だ。

さっきまで鳴り止まなかった鼻歌は怠惰にこねくり回す右手を盛り上げる応援歌だったらしい。いよいよミスの許されない段階に入ったのか、ナナの唇から零れ落ちるドロップスのような、透き通る雨粒のような清らかな歌声はふと消え失せ、今や職人のように角ばらせた背中と肩で丁寧に手仕事している。

「味見したい」
「ジャムの作り方を知っていたら今味見ができる温度か分かるはずです」
「違う」

立ち上がるとナナの肩越しに見えるまさにグツグツと煮詰まった其れは、熱など関係なしに口づけしたい程特別に上等なストロベリー・ジャム。でもね、今味見したいのは小鍋の主ではなく。

鍋の中に送られる真剣な視線、瞬く睫毛の先から斜めに落とすと捉えることのできるその首筋に、自分の痕をつけたくて。

万が一にもナナを付け狙う男がいたら、既に誰かのものだと教えてやらないと不親切だろう。

気配を消して近付き、背後から身体を捕まえると不機嫌な声が右耳に響いた。

「ああっ焦げちゃうでしょ!」

慌てて火を消す音が響く。それはこちらにしてみればyesの合図だ。あっちが消えればこっちの火が点く、燃え上がる。しかし髪を掬って柔く白い首筋を露わにすると、ナナは身体を滑らかに引き抜き逃げてしまった。こっちの気も知らないでタイミングだムードだと言い出すんだろう、これだから女というのは面倒臭い。

「これ」

乱れた髪を撫でつけ耳にかけた後、ナナは傍に置いてあった小皿を手に取り自信ありげに披露してみせる。手のひらに乗る小さな白い陶器の上には、透き通って固まるレッド。

「そう言うと思ってよけておいたの。煮詰め具合は足りないかもしれないけど、もう冷めてるから」

「…thank you」

そう来るなら仕方がない。眉だけを大袈裟に上げて言った礼の言葉が「そうじゃない」と告げていることには気がつかないだろう。"愛らしい"彼女お手製のストロベリージャムを食ってやるのがパートナーとして望まれることなら、喜んで。

「ふふ!でもまだダメ」

小悪魔のように小さく舌を出した悪戯な彼女の手は、受け取ろうと差し出した手を避けるように離れていく。一体何をしたいのか、試すような仕草は好きじゃない。

疑問につられて寄せてしまった眉、不機嫌になるのは避けたいところ。この空間には360度、上機嫌が似つかわしい。

何をするのか待ってやると、ナナはおもむろに指先でジャムをすくい出した。清純な指の先端が、自ら近付き粘度に侵されていく。別れを告げるジャムと指先の間で僅かに引いた甘い糸の妖艶な様。


その瞬間は、スロウモーション。


傾けた指先に吸い付くようにして奇妙に形を保ったままのストロベリージャムは、なめらかな顎のラインを飛び越えべたりとナナの首筋に移される。
そうして白い肌に甘い赤を滴らせたナナから、ようやくゴーサインが放たれた。

「…いいよ」

許可など取らず何も恐れず、胸の中まで見透かすその瞳を舐めてしまい衝動。ナナの身体はどこをとっても甘いに違いない。

「…thank you」

同じ言葉を呟いて、冷静なふり。極上と表現すべき淡い白肌と濃厚な赤のコントラストだ、瞳はいつかにとっておいてまずはこちらのご馳走からいただくとしよう。

吸い付くように這わせた舌にナナが「…ん」と零し反応するのを、逃さないよう抱きとめる。興奮も熱情も全部全部欲しい。全部ぜんぶ、もらってしまえ。

耳元で漏らされるナナの吐息に鼓膜も脳みそも揺さぶられながら、溶かすようにしつこく熱で擦り上げる。囃し立てるような強い風が通り過ぎ、この瞬間が止まればいいと心底願った。


何にも穢されることのないナナとの尊い昼下がり。

彼女といると、いつも

不確かで間違いだらけの世界の中にもほんの少しばかり真実や幸福があるなら、首を垂れて両手を挙げて、こういうものだと信じたくなる。

Happiness
PREVTOPNEXT

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -