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彼と彼女の天敵
少し湿気った空気のキッチン。並べられたカトラリー。ベタつきのないテーブルクロス。
湯気の上がるミルクパンは幸せの象徴。
気まぐれ(二人とも誠実でありながらそうとしか表現しようが無い)に訪れるナナと・との朝は、妙な張り合いと共に幕を開ける。

「寝不足の顔してる。大丈夫?」

少し早めの朝食を用意しながらナナは振り返った。あくびをかみ殺した・は睡眠不足を思わせない隙なく整ったスタイルで椅子に腰掛ける。

「ありがとう、普段より眠れた方だよ」
「3時間で?」
「ああ」

ブラックでいい?と確認しながらナナはマグカップにコーヒーを注ぐ。立ち上る蒸気と共に広がるアロマがひとときの安らぎをもたらした。

「随分とハードなんだね」
「専門職だからね」
「そっかぁ…」

ナナは満たされたマグカップを差し出しながらちらりと寝不足の恋人を見やった。目の前の恋人はナナが仕事について詳しく訊きたがっていることに気が付かない程無能な男ではないはずだった。しかし端整な顔は鈍感を装い本日ものらりくらり、聞き出したい情報を避けるようにマグカップでこちらの視線を遮る。こうなると、ナナはいつも少し濁ったプラスチックの透明な壁を一枚隔てているような複雑な気持ちになった。

「ブラック企業…とか?」

ナナが意を決して普段より踏み込んだ発言をすると、・は少々驚いてコーヒーに向けていた視線を上げた。マグカップ越しに真っ直ぐナナを見つめる。褐色の目覚めを喉に落とすとまだ湯気の上がる器から口を離し、・は慎重に言葉を紡いだ。

「そういう業界なんだ。納得してるしほら…報酬は少なくないから。満足してるよ」
「そう」

普段なら、収入よりも精神的な安定の方が大切とでも口にしそうなナナが押し黙るのには理由があった。
なかなか会えない恋人を待っている間に一冊の本を読んだのだ。サブタイトルに"男女のすれ違いについて斬る!"と掲げられたその本は、恋人の言動を理解できない悩める男女を相手取り、一定の需要を満たしているベストセラーだった。

多くの悩めるカップルを救った(もしくはより混乱させた)とされる噂の本によれば、相手が話そうとしない局面において問いただすような真似は、パートナーの行動としてあまり推奨されるものではなかった。
ナナは素直に本のアドバイスを受け入れ実行に移した。健気な気質なのだ。

ところが素直な彼女は結局のところ、自分の思ったままの心情を口にしないでいるのに不向きでもあった。
実直と言えるかは若干の疑問を呈すわがままを含んだ本音が、・に会う前決めたはずの覚悟を溶かしてナナの口から零れ落ちる。

「心配。なかなか会えないし」

・はこれで有能な男である。さっと立ち上がると空になった食器を下げ、頬を膨らませた恋人の横にすぐさま並んでみせた。

「こうして会えてる」
「ふふっ。そりゃあ前向きに捉えたいところだけど…」
「僕はナナといられるだけで幸せだよ。元気をもらってる」

ナナが上目に・を捉えた。

「またそうやって言いくるめられちゃうんだもんな」

・は唇を尖らせ出したナナの頬を両手で包み、温めた。包容力とは、抱きしめることだけではないとナナの胸は思い知る。

「ちょっと寂しくなっただけ」

ナナの言葉は今度こそ可愛らしく素直なものだった。・は頬から下げた手をナナの肩に回し、後ろから柔らかく抱きしめる。
抱きしめ方ひとつで愛されていると実感できることがいかに恵まれているか、その点について肝心の本には書かれていなかった。
ナナは、難しい駆け引きより自分の背中に感じるぬくもりを信じることにした。

・の唇がナナの首筋に這わされる。

「んーっ、あさ、朝!」

身を捩ったナナが振り向くと、瞬きのまつ毛さえ触れてしまいそうな近さに・の顔があった。
少しの間を置いてナナが目を閉じる。傾けた顔、求め合う唇が触れる直前…

"ピリリリ…"

・の胸元から携帯電話の着信音が鳴り響いた。
ナナはどう引っ込めていいか分からない唇を再び尖らせる。仕方がないとは分かっているのだ、"そういうギョーカイ"だと。

ギョーカイでは会話すら機密らしい。申し訳なさそうに眉を傾けた・が廊下へ消えていくのをナナは大人しく見送った。

一体どんな奴がこの幸せな時を邪魔してくれているのか。ナナは素直を通り越し、穏やかとは言えない胸の内で静かに悪態をつく。素直といえば素直、正直といえば正直ではあるのだが。

度々電話をかけてくる憎き上司。パートナーの心身の安定と自らの幸せの日々をかけて、いつかガツンと言ってやりたい。
いつ訪れるかも分からないその日へ強い決意を固め、ナナは戻ってくる足音に耳を澄ませた。早足のそれが部屋に舞い戻る時、悪い知らせが飛び込むのはよく分かっていた。

「ごめん、ナナ。すぐに向かわないとならなくなった…」
「そっか、お疲れ様。大丈夫だよ。気にしないで?」

だって仕方ないと思えてしまうほど、彼の醸し出す雰囲気が正直なのだ。大きな秘密を抱えながら、ごく素直に肩を落としている。

ナナは"心底名残惜しい"と書いてある誠実な恋人の頬に小さくキスを落とし、「気をつけてね」と笑顔を添え・を送り出した。


束の間の、気まぐれな恋人達の朝は、こうして幕を閉じたのだった。

彼と彼女の天敵
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