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それは、とても遠い
私は頭なんて良くないから、生まれた時から深く考えず楽しむことに長けてるし、そういう自分を恵まれてると思ってる。賢そうにしたり格好つけたりしてる男どもがベッドの上でどんな風に腑抜けるかだってよく知ってるし。

欲しいものなら何でも手に入る裕福な暮らしを送ってきたし、充実しているかどうかなんてどっかの偉い人が言いそうなこと、特に考えることもなく生きてきた。そんな日々に新しい刺激が加わったのはメロがやってきたあの時からだ。

ロッドが面白い奴を仲間にしたと顎で指し示した先に立っていたのは、まだ子どものような顔つきをした、すらりと美しい少年だった。
女から見ても羨ましい整ったブロンドのボブ、細い手足、何も信じない鋭い目。ボスはやっぱり見る目があると、改めて惚れ惚れしたほどだった。

「相手してやれ」

言われて立ち上がる。ボスがそう言ってくれた時は、許可の合図。味見のひとつふたつは許してくれる。

初めて同い年くらいの子と夜を過ごすことになる。それも極上の美少年。ひ弱な奴に身を任せる気はないけれど、ロッドが認めたならこの細い身体にとんでもない何かを潜めているんだろう。
どんな風に舐めてやったら、その澄ました顔を歪ませることができるだろう。そんな風にすら、思っていた。


ところが驚いたことに、メロは私を抱かなかった。


メロへ与えられた部屋へ夜な夜な訪ねても、抱くどころか彼は私に触れようともしなかった。
最初は遠慮や緊張がそうさせているのだと思った。私はボスの女なのだから。

けれどシャワーを浴びタオル一枚でメロの部屋へ入っていった日でさえ、他の男どもは私の身体のラインを舐めるように見ていたのに、肝心のメロは部屋の中でペンを回しチョコレートを齧って考え事をし続けていたのだ。

メロはゲイか男性器不能かもしくは経験がないのだと仲間内では賭けのネタにすらされていたけれど、私はあの日、直感した。


メロは一輪の花を愛してる。


一途に誰かを想っているんだと。


そのことに気が付いてからはまるで地獄のようだった。
メロに身を焦がしながら他の男に体を貫かれることに、あの視線を奪うのは誰なのかを思い浮かべながら声をあげる我が身のはしたなさに。


見せかけの満足なんてあっという間に吹き飛んだ。盗んで作るまやかしの充実は途端に色を失った。

だからこのほど、アジトに女が入り込んだと聞いて嫌な予感がしたんだ。メロが、取られてしまわぬようにと。


「周辺をふらついていた妙な女を捕まえた」

そう言って連れ込まれた女は、今まで見たようなのとは違って、肝の座った勝気な女だった。

メロの好みではないといい、そう願って確かめたあの時のメロの目が。今でも忘れられず胸に残っている。

チョコレートを齧るのを止めた口元。
見開かれた目。


この女だ。


愚かな男達はメロが機嫌を損ねたのではないかと恐れていたけれど、違う。女の直感は当たる。


**


会いたかったけど会いたくなかった。
当たって欲しいけれど外れても欲しかった。

こんなところを住処としてるメロなんて見たくなかった。

「ナナと名乗ってる。この女、どうしますか?」

私の腕を掴む屈強な男。その近くにもう一人似たようなの。

眼前のメロは何だか着心地の悪そうな服を着て、板チョコレートを握っている。偉そう。早くもいい立場にいるのだろう。その辺りはさすがね。

隣には疲れた様子のメガネをかけた男と、それから若い連中が何人か。この人達はいわゆる配下の人間だろう。それに随分と肌色の割合が多い女が一人。派手な風貌…ボスの愛人だと思いたいけれど…ボスではなくメロと一緒にいる点においてそれが何を意味しているか、…今は考えたくない。

「ロッドの手を煩わせることはない」

メロは私を汚らわしいものでも見るかのような目で見て、そう漏らした。

「じゃあ俺達で…」

私を捕まえている男が親指で腕をさするように撫でた。気持ち悪すぎて鳥肌がぞっと立つ。誰がお前なんか相手にするか。だけど状況はいいとは言えない。

メロに会えさえすればいいと飛び込んできたけれど、メロの前で辱められるなんてことは絶対に避けたい。所詮この程度の覚悟だった自分の非力さよ。

「いや、面倒事は避けたい、その女は俺が始末する」
「ヤっちまってからでも…」

途端、メロが銃を構えた。

狙うはこちら。私の少し横。

「それしか頭にないのか?そいつが何をする気か分からないのに警戒を怠るな。離せ、俺が連れて行く」

ピンと張った空気。言われるなりそっと両手を挙げ私から離れる大男。
本当に、メロは今この場で一番偉いのだ。それがしみじみと実感され、感心するような、泣きたくなるような気持ちになった。

「なんだ、メロでも女に興味あったのか…それなら言ってくれよ」

緊迫した空気を誤魔化すかのように乾いた声を出す男をすり抜け、メロは私の胸ぐらを掴み無理やり外へと引っ張った。





表へ出たら、廃虚のような場所になっている。そこで壁に押し付けられ、脅すようにメロは言った。

「何しに来た?」
「想像通りよ」

こんなにも哀しいのに、触れられた手の温度にも紛れのないメロの声にも、歓びが溢れてきてしまう。愚かだ、とても。

「会いたい人がいたの」
「…お前の目当ての奴などここにはいない」

少しだけあった"間"に感じる。
メロはちゃんと私の言いたいことを分かっていると。

私が誰に会いたかったか。どんなに会いたかったか。

けれど会話さえ普通にしてくれない。誰に聞かれたとしてもいいように選ばれた言葉しか。
だから私も、メロの名を呼ぶことができないじゃない。苦しい。

「ここがどんな場所だか分かってて来たのか?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「…どうかしてる」
「お互い様でしょ」

苛立った目の奥に狼狽の色が滲んでいる。
メロ、お願い。
戻って来てとは言わない。

傍にいさせて欲しいの。

十中八九、それどころか限りなく可能性がないことは分かっている。
だから口にすることもできない。

「……」

メロが薄い唇を開く。漏れ出るのはチョコレートの香りをのせたもう二度と近寄ることの許されない吐息。

私は今日、突然消えたメロに一目会いに来ただけだ。
好き合っていたと思っていたのはとんだ誤解だったと、自分に突きつける為。
区切りを、決別をつけに来たのだ。

最後にあなたを困らせることができて良かった。

困ってくれる程度には、情があったと思い込んで生きていくよ。


「誰も来ないうちに早くここから消えろ」


メロは静かに言った。誰かに聞かれたらまずい一言。

私も答えた。メロの身を案じて、最大限取り繕って。


「もう来てるわよ、女が一人」


**


コンクリートの壁際に女を追いやったきり、メロの背中しか見ることができない。

一体何が繰り広げられるのか、どんな秘密を掴んでしまうのか恐れながら見ていた。

私にとってショックなだけの出来事とは限らない。
メロの裏切りを目にしてしまえば、黙っている限り私だって同罪になりかねない。…危険だ。そう分かっていても、目を離すことができなかった。

手荒な様子を見るに、本当にただ苛立っているだけなのかもしれない。けれどそれならば、あの女がメロに殺されるところを確認したい。メロがあの女をどうとも思っていないことを、この目で。

そんな風に願いながら、現実はまったくそうではないと突き刺さるように分かっていた。

だってさっきから、二人は何か小声で会話している。

見たことのないほど顔を近づけて、メロがあんなにムキになって。


「戻ってろ」


いよいよ銃口を女に向けた時、メロが振り向きもせず突然通る声を出し、びくりと身体が震えた。

…私に言ってるの?

しらばっくれてそのまま身動きせずにいたら、メロはもう一言付け加えた。


「女が見るもんじゃない」


今までどんなことをしてきたってこんなに心臓が早く鳴ったことはない。

…私だ。私へ言ってる。そしてここにいるのが、他の男どもではないことも分かってる。

これ以上ここにいては私もメロの逆鱗に触れてしまう。それでもいいと縋りたい気持ちを押し込め、重い重い一歩を踏み出す。

あの女の行く末が不幸であることを祈りながら。


**


「…私も女なんだけど」


憎まれ口を叩いたら、メロがぎろりと私を睨んだ。たった一言でも、余分に発言させたくないらしい。


メロ、

と思わず口にしてしまいそうでぎゅっと口を結んだ。


銃口を向けられて、こんなに安心していられることなんて、ないと思う。


どうしてこんなに冷たいのに、こんなに落ち着くんだろう。
どうして一緒に過ごしてきたのに、こうなってしまったの。


メロ。


「ばか」


メロの身体で隠れるよう手を伸ばし、こちらへ伸ばされた腕へ指先を添えた。
きっと一生触れることのできないメロの肌。

銃口を逸らしたメロが最後にぽつりと呟く。


「お互い様だろ」


**


パァン!


と発砲する音が聞こえた。…一度だけ。

メロはあの女を逃がしたに違いない。
一体、どう言い訳するのだろう。他の奴らが現場を見に行けば状況がおかしいことに馬鹿でも気が付くはず。

立場を悪くするかもしれない、どうしてわざわざそんなことを。
どうして、そうまでして。

巡る頭の中で、その答えはとっくに出ていた。

なんて苦しいんだろう。胸が張り裂けそう。


メロは、逃がしたんじゃない。守ったんだ。

大切な一輪の花を、この薄汚れた世界から。


**


メロと同時に背を向けた。お互い前方に誰も現れないといいね。そんな風に思ってからふと、さっきこちらを覗いていた彼女のことを思い出した。

そうだ、メロが進む先にはあの人がいるか。
どんな表情をすればいいか迷った頭は、私の顔に苦笑いを浮かべるよう指令を出す。

あの人は戻ったメロを向かい入れるだろうか。あの肌で、触れるのだろうか。

「女が見るもんじゃない…って」

そうやって女心が揺れるような言葉を無意識で使えるところは今も変わらないんだね。
大人しく引き下がった彼女と、対称に強く掴まれた胸元をさすって、苦しい想いでいっぱいになる。


「会えたんだからいいでしょ?」


必死になって自分へ言い聞かせ、廃墟を抜けてなお、ずんずんと足を進める。
暗くぬかるんだ道、進み続ければ本当に明るくなるだろうか?

どんなメロでもいい。傍にいられたなら。

隣にいることができるならそれで良かったのに。


泥にまみれてもいい、歩みを返したい気持ちと闘いながら、強く思った。


**


「行きましょう、メロ」


遅れて現れたメロと合流して、声をかけた。何も言わない彼の横について進む。

あの女は今頃どのあたりにいるだろうか。あの時、どんな会話を交わしたのだろうか。
あの女が真正面から捉えたメロは、一体どんな顔をしていたの?


メロとは、肌が触れるほどの距離。

こんなに傍にいるのに、私には一生なれない。

メロが守った一輪の花。あの女。


虚しさに打ちひしがれ、泣き叫びたいのを堪えながら、強く思った。


**

彼女になれたなら。

**

あの女になれたなら。


それは、とても遠い
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