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幸福論
壁に掛けられた時計の時刻は間もなく午後5時。
生まれて初めて、田中実はナナを邪魔だと思った。
今日は担任の機嫌が良くて早く下校できたとか、購買のおばちゃんがパンを一つサービスしてくれたとか他愛のない出来事を、愛らしい笑顔で話しかけてくれていても、だ。
普段なら安らぎを感じるその時間にあっても、田中実の脳内を占めているのは屈めば見えそうなスカートの中身より、スマートフォンの画面の四角に映し出されるニュース映像の方にあった。

―――そろそろか。

さりげなく画面に目をやるとニュースのライブ配信が始まったことが確認できた。
"再び事が起きる"のは10分後。見たところ番組の受け入れ態勢は予測した通りに完璧だ。
”遠隔で人を殺せるキラの力”のオークションは、既に国民の関心を完全に集めていた。
カンペと称される紙が空中を漂う摩訶不思議な現象が再び起こるまでもう少し間はあるにしても、視聴者の期待は番組に反映され、冒頭からこれまでに起こった怪現象の検証、オークションの経過、専門家による落札予想、果ては過去のキラ事件特集…死を操れる絶対的な権力をほのめかす薄暗いリフレインは、ある種の熱狂をはらみながら落札行為に手の届かない一般市民に至るまで強く興味を惹きつけていた。

"遠隔で人を殺せる"

そう聞いても現実感を伴わなければ少年漫画を彩る能力の一つのようにしか思えないものだろうか。
自分なら誰を手にかけるか…教室で繰り広げられたおよそ正気とは思えない数々の言葉が田中実の頭を駆け巡った。

正気ではないのだ。
田中実の成績はお世辞にも良い方とは言えないものだが、そのことに気が付かないような、「人の心を理解する感覚」が抜け落ちている訳ではなかった。

正気では、ないのだ。
カラスと骸骨を合わせたような死神を眼前にし、死のノートとそれに伴う完璧に辻褄の合う説明。
これらを持ってして「遠隔で人を殺せる」と言われなければ…実感などわくはずがあるまい。

自分の意思一つで誰かの命を断つことができる。

田中実はそのどこも、何も、魅力的とは思えなかった。家族の顔が一人一人思い浮かぶ…自分や大切な人間に危害が加えられそうならまだしも、何もない段階において、どんな怪しい人物であれ、「死」を押し付けるのに相応しい者がいるとは到底考えられない。
むしろ、そんな力が許されてしまったら…何かの手違いで自分や自分の周囲の大切な人間が犠牲になるようなことが起こりはしないか、よほどそちらの方が気にかかった。

自分にとって大切な人間…例えば。
思い浮かべて見つめた田中実の前で、ハッとしたようにナナが顔をあげた。

「みのる見て!浮きカンペまた出た!!」

思えば大人しかったナナは田中実と同じニュース配信を見ていたらしい。
人を殺す力など嫌悪しそうなナナでも一連の騒動に興味があるのかと、自分で世の中を煽っておいて、田中実の胸に苦い思いが走る。

「これ、本当に仕込みじゃないのかなぁ」

現実味の足りていない抜けた声でそう発しながら、ナナはスマートフォンの画面を見せようと田中実の元へ身体を寄せる。
ナナの左手に押されたマットレスが沈んで右半身が自然とナナに近付く。画面の左半分を譲る為動かされたナナの頭と、揺れる髪。熱を含んだフローラルが鼻をかすめ、さすがに田中実も「ラッキー」と思う。
自分のスマートフォンを隠した田中実は自分のとは違う、淵を可愛く飾られたナナのスマートフォンに目をやった。

画面ではリュークがぼさっと心もとない浮かび上がり方をして、例の"浮きカンペ"を実行していた。
スタジオでは大騒ぎだ。揺れるカメラ、焦って支持を出す怒号、画面に見切れるスタッフや沢山の撮影道具にその様子が見て取れた。

「さぁ」

気のない返事をして、頬杖をつく。
田中実の中には、事態の展開を見守りたい気持ちと同じくらい大きく、ナナにこの騒ぎに関わっている…むしろ引き起こしているのが自分であると知られたくない思いがあった。

人を殺せる力などには全く興味がない。関わりたくもない。それならむしろ好きなことを好きなようにできる力の方がよほどいい。
だから自分に訪れた謎の事象を「大金を手に入れる」ことに使うことにしたのではないか。
それも独り占めじゃなくていい。多くの人間が棚ぼた的に大金を手にすることも厭わない。
そのうえで自分が一生かかっても稼ぐことのできないような大金を手に入れることができる。
我ながら平和な、いい「死を生み出すノート」の活用法を見つけたと田中実は満足していた。

「みのる興味ないの?こーゆーの、絶対好きだと思ったのに」
「ないない」

自分をまじまじ見つめるナナの視線に、「ないない」はいささか嘘くさい返事であったかと、田中実は急速に取り繕う言葉を探す。
矛盾がなく、話を逸らせて、それでいて時間の稼げる言い方…。

「え、逆にナナは興味あんの?」

そう言ってから、田中実はまたナナを試してしまったことに気が付く。どうしてこんなにも、彼女の興味の先が気になるのか。
清廉潔白であれと童貞なりの妄想に身を焦がしている訳ではない。
ただ、田中実はナナに薄暗い想像の一つもしないで欲しかった。
喜怒哀楽が分かりやすく、嬉しい時は迷惑なほどうるさい。けれど失敗した時、嫌なことがあった時、人を責めず素直に落ち込み怒ったり泣いたりする彼女が、田中実は好きだった。

遠隔で殺す、なんて卑怯でこの上なく最悪な攻撃方法だ。
その力を持ったらどうするかなんて、ナナの頭をよぎることすら許容できそうにない。
世の中に存在する悪意のようなものから、彼女を守りたいと、本人すら認知できない心の奥底で、確かにそう思っているのだ。

けれどしかし、ナナの返事はシンプルで明快だった。

「あるよ」

勿論これは、興味があるという意味だった。
マットレスに接地した田中実の胸でばくばくと鼓動が早まる。
まさかクラスメートがしたような下衆な発言が飛び出すのではあるまいかと、警戒が高まる。
だがもしナナの発言が望ましくないものだったとしても、それはクラスメートと同じ、"実感がないからこそ出る発言"に他ならないではないか。
だからどんな発言でも今は甘んじて受け入れよう、そう言い聞かせるような結論が出たところだった。

「だって私、こういうの、ほんとに無理!」

田中実は一瞬たじろいだ。興味があるのに無理とは、矛盾しているように思われたからだ。
しかしナナが続けた言葉に、彼は安堵することとなる。

「人を殺す力をどこかの誰かが、それどころか国が買うって、兵器と変わらない気がして…私はこわい。だからこの話がどうなるのか、やっぱり気になっちゃうよ」

いつになく真面目な表情を浮かべたナナを、田中実は何の気なくを装って見つめる。

「しかもオークションなのが余計に不可解じゃない?キラの力を買う方も買う方だけど、売る方も売る方」

画面を凝視したまま、きゅっと唇を結ぶナナの前で田中実は静かに圧倒された。

何と喜ばしい。ナナから下衆な発言を聞くことはなかった、それどころかやはり今日も、彼女は素朴で素直で、気高く美しかった。

しかし一方で、懸念点も増えた。"売り手"が自分であることを知られれば、ナナに軽蔑されるのは火を見るより明らか。
田中実は言い訳がましく口を開く。彼は売り手ではあるが、自分だけが得をしようとは考えていないのだ。その策も、我が身を隠す為ではあるけれど。

「確かにね。でも一人だけに金が増えたら絶対足がつくはずだからなぁ。売った金額山分け〜とかだったりして。日本人全員で分けても単純計算で800万近くになる」
「やだ!みのるそんなお金欲しい!?」
「何もしないで大金が手に入るのは人類共通の夢だろ」

田中実は今度は伺うようにナナを見る。心配には及ばず、彼女もつられて「そりゃそうだけど」と困ったように微笑んでいた。

「スマホ新しくできんじゃん」
「ほんと、最近反応悪いから切実。確実に変える!」
「音楽も聴き放題ですよナナさん」
「確かに!迷わず音楽サービスに加入できるわ!あとネイルをプロの人にやってもらいたい〜」

まつ毛の下に覗く柔らかいナナの瞳は、視線を自身の指先へ注ぐ。
自然に手放された彼女のスマートフォンが、ぽと、とこもった音を立ててマットレスの上に倒れた。

「服も装飾品も買い放題…」

そこまで言った田中実は、爪の先を見つめたナナの顔から楽しそうな笑みが消えていることに気が付き語尾を失った。

「…には、ならないよね」

押し黙った田中実に代わり、ナナが続きを引き取る。

「バブルが発生して、ゆくゆくはデフレになるだろうし、それに何だか。急に大金持ちになって、平和に過ごせるとは思えなくない?」

自分で塗った淡いカラーの爪先を静かに伸ばし、ナナはスマートフォンを改めて持ち直す。
彼女としても、何の気なく言いたい台詞があるのだろう。

「私は、みのるとこうやってのんびり喋る放課後が平和で幸せ」

せっかくの乙女の告白は、残念ながらその言葉を受けて固まった田中実の前で、ゆるく漂ったままどこともなく消えることとなった。

「それに、キラの力の対価なんて受け取っても戸惑っちゃうし」

濁すように重ねたナナの言葉は、独り言としてスマートフォンの画面に投げかけられる。

好きな人の大切な言葉を聞き逃しながら、田中実はその間、忙しなく考えを巡らせていた。


"ナナもアルバイトの給与受け取りにヨツバ銀行の口座を持っている"


無意識に追っていたスマートフォンの画面の中で、リュークが地面へ消えていった。


**


「?ヨツバ銀行じゃなくていいのか?」

「うん」

落札金の行方を指示した田中実はため息交じりに相槌を打った。

「惜しくないと言えば嘘になるけど」

そう言って彼は少しばかり口を噤む。これだけの大金を動かせば、何にしても経済状況への影響は免れないだろう、しかしそんなことはどうでも良かった。
数年に渡り多少の翻弄があったとしても、慎ましく生きる一般人にはさりとて大きな問題にはなり得ない。

問題はつまり、人を殺さなくたって、デスノートを利用して何かを得ようとすればその代償は必ずあるということの方にあった。
例え身綺麗に大金を手に入れても、平穏が乱れ危険に晒されては意味がない。
こんなものとは、最初から関り合いになるべきではなかったのだと、蟻地獄に嵌った蟻をわくわくしながら見つめた後ふと我に返った時のような、言いようのない不快感が田中実の胸を埋めていた。

「じゃ、言われた通りにするぞ」
「うん」
「これで終わりか」
「そう。あんまり面白いもんは見せられなかったかもしれないけど」

吹っ切れたように小さく笑う田中実に、死神は不思議な感情を抱く。
確かにもう少し、世界が混乱する様を見たかったような気もするが、それにしても大金も死を扱う能力も手放す判断は、希有なものに思われた。

もう二度と現れてくれるなと頼まれたリュークは、差し出されたノートを受け取る前に一つだけ問うことにした。
終わりは近い、これはこれで面白かった。

「どうして策を変えたんだ?」

問われた田中実は、少しばかり固まる。
自分なりの答えが出るまで考えるタイプだ。
しかし答えが出るまで、今回はそうかからない。

「キラには、」

反則気味に彼は質問で返した。


「自分以外に守りたい人間、いなかったんだろ?」


田中実を見下ろして、今度はリュークが沈黙を受け持つ。
死神から一本取るとは、やはり次も頭のいい奴にノートを渡そうと、密やかな満足感を得ながら。

「さあ、俺には人間の心は分からない」

かくしてデスノートで遊ぶ時間は終わりを迎えた。
所有権の戻ったノートとリンゴを手に、黒い不幸は田中実の記憶から永遠に消え去ったのだった。


**


「ん?」


何かを忘れているような気がして意味もなく田中実は頭を左右に振った。

「ああ、イヤホン。だる…」

座る時はいつもイヤホンを使うのに毎回バッグに入れっぱなしにしてしまう、彼の最近の悩みだ。
もういっそ、マットレスに置きっぱなしにする用のイヤホンを購入してしまおうか、でも音質にはそれなりにこだわりたいし…しがない高校生としては、欲求と出費の狭間で揺れる重大な問題だった。

「って…、いうか、遅刻!!!」

慌てて制服のシャツを手に取り立ち上がる。着替えながら、田中実は心の中で豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまいたいと繰り返す。
これは焦った時落ち込んだ時の口癖だ。悩みはイヤホンの方ではなく、最近のスマホ中毒の方でもあった。
マットレスの上で蠢くニュース動画の画面。ついつい見始めると止まらなくなって、最近成績の悪化が加速している。

着替え終わった田中実はスマートフォンの画面を消灯しバッグへ放り込むと、朝食を取らずに家を飛び出した。

「ごめん寝坊した!」
「わああっ!!」

物凄い勢いで玄関を飛び出してきた幼馴染に、ナナは肩を竦め胸を押さえる。

「ちょっ、そんな慌てなくてもいつもと同じじゃん!」
「…あれ?そう…?」
「分かった、どうせまた今朝のニュース動画に夢中になってたんでしょ?」
「ニュース…?」

寝ぼけ眼で聞き流していた今朝のニュースを思い出そうと立ち尽くす田中実に、ナナが明るい調子で重ねる。

「人類共通の夢、叶わなかったね」
「…まじかよ」

記憶が曖昧ながら、そういえば以前、働かないで暮らせるだか、何もしないで大金が手に入るだか、そう言った類いのことが人類共通の夢だと二人で盛り上がったなと思い、田中実は適当に返事の調子を合わせる。

「ほら!まずは先に学校行かないと!本当に遅刻するよっ!!」
「あ、あぁ…!」

何だかすっきりしない目覚めを迎えた田中実だが、自転車をこぎ始めたナナを追って走り出すと、5月も終盤の温かい風に顔をくすぐられ、思考がクリアになっていくのを感じた。
天気のいい、気持ちのいい朝だ。

ニュースについては学校に着いたら確認して、放課後にはまたナナと雑談しよう、と気持ちを切り替える。

田中実はナナとこうやって走る朝や、のんびり喋る放課後が、平和で幸せだと思った。


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