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ピンポーン


と、時間に大変そぐわないインターホンの音に、おかしなくらいすぐ気が付いた。たった一回、耳を通り過ぎただけなのに。


マイルさんだ。


直感でそう思う。
直感も何もない…薄暗い、いや薄明るい部屋で、いつもの方向に目探りして見つけた時計の時刻は午前五時。こんな時間に遠慮なくインターホンを押すのはマイルさんしか考えられない。


マイルさんのことは、よく知らない。
私が休憩を取る公園、いつもの指定席あたりにある日突然現れた。スペースは他に沢山あるのに何故私の近くに座るのか、最初は全く解せずただ怖かった。

ぽつりぽつりと雑談を交わすようになってから、ある時彼がその場所から何かを見つめていることに気が付いた。


違う目的があったのか。

…なんて言ったら、まるで「彼は私に接近するのが目的」と勘違いしていたみたいだけれど。

少しずつ重ねる時の中で、名をマイルさんと教えてもらった。これは偽名だそうで、本当の名前は知らない。偽名を使うなんて、何か複雑な事情があるのだろう。

だから私は彼に自宅を教え、困ったことがあったらいつでもどうぞ、と告げたのだ。
我ながら何故そんな大胆なことを言ったのか…明確な目的意識を持って発言したはずなのに、今となっては理由が思い浮かばない。見た目こそ今時の若者だけれど何をしているか全く分からない人。偽名を名乗っているから年齢を聞いてはいけない気がして、長いこと質問も碌にできないままだ。見ている限り働いているようには思えない。決まった時間に決まった場所にふらりと現れる正体不明の男。肩書きを付けるなら不審者以外の何者でもない。

それなのに。彼と過ごす休憩時間の四十五分は妙に居心地が良く、気がつけば不思議に心を開きすぎていた。


実際には、彼がここを訪ねたことはなかった。だから今玄関先にいるのがマイルさんとは限らない。
そうは言っても、私の知っている人の中で午前五時に構わずインターホンを鳴らす人物はやはり彼しか考えられなかった。


ぬくもりを手放し玄関へ向かう。ご近所の目もある。のぞき窓で覗いてやはりマイルさんであることを確かめたら、ドアを開けすぐに腕を引いて中へ招いた。

「お、意外に強い力。お誘い?」
「違う違う、しーっ」

朝方、一人暮らしの女の家に男が訪ねる。

その意味を深く気に留めていないのか、あっけらかんと彼は玄関に足を踏み入れた。

「どうしたの?」
「いつでもどうぞって言ってたじゃん」
「そうよ。何か困った時は」
「ぁ、」

困った時ではないかもな、と眉をひそめた彼は、ゴーグルの下で思案する。透けて見える端正な目元。そこに隠れる素肌も、彼の本当の瞳の色さえ、私は見たことがない。

「これ」

マイルさんは少し困ったように、そして同じくらい得意げにして、細長い木の枝を持ち上げた。

その先にちらりと咲き誇っているのは、開花したばかりの春の主役。

「桜…!」
「そろそろだから見たいって言ってたじゃん」
「折っちゃったの?」
「枝先だけしか咲いてなかったから」
「ちょっと可哀想…」
「え?」

寝起きの気の利かない脳みそが、思ったままの言葉を口に運んでしまった。
せっかく持ってきてくれたのにこんな反応を示す私の方が、枝を折ることよりもっとずっと無粋かもしれない。

「可哀想って、木が?」
「うん…やっと咲いたのに、身体の一部を折られたら可哀想かなと思って」
「身体…ね」

マイルさんはまるで私が理解できないことを言っているかのように困惑して、頭を掻く。沈黙が少し。少しも何も、話さなければ深い沈黙に包まれる時間帯なのだ。

「分かった。次は折らない」
「う、うん!だけどせっかくだからこの枝はもらってもいい?」
「ん」

差し出された枝を受け取り、まじまじと花弁を見つめる。咲き零れるとはよく言ったもので、ぎゅっと一つにまとまったところからまるで溢れるように淡いピンクが咲き広がる様は、見ているだけで気分が春めく。

ふとマイルさんのブーツが玄関の床を擦る音が聞こえ、ハッと気がついた。

「あ、上がってく?」
「いい、いい。届けに来ただけだから」
「あ…そう」

それならますます、悪いことをしてしまった。せっかくの厚意だったのに。

「…」
「…」
「…えっと」

部屋には上がらないという割に動かないマイルさんに戸惑ってしまった。じゃあさようならとこちらから言う訳にも。

「あ、悪いね」
「…やっぱり、上がっていく?」
「いや、いいよ。ただ…今は"困った時"
だから。こういう時はいてもいーんでしょ?」

困った時。

ならいつでもどうぞ。

言ったのは私。

言っておきながら、私こそ戸惑い困っている。マイルさんの意図が読めない。

「その…、桜、喜ぶと思ったから」
「あっ…」

原因は、私だった。握った枝に申し訳ない気持ちは残りつつ、目の前のいつもより近いマイルさんの方により胸が痛んだ。

犬のおまわりさん程ではないけれど、私達は困ってしまって沈黙に身を溶かす。

「そうだ、それなら桜が満開になったら、一緒にお花見に行かない?」

ふと頭をよぎった思いつきをこの際だからと思い切って提案してみた。

「花見か、ん、イイね」

マイルさんは時々…実のところほとんど、心のこもっていない返事をする。
だから私の言葉を覚えていて桜を届けてくれるなんて…気のない返事をしながら記憶していたのか、つかみ所のない人という印象だけが深まった。

「お弁当作るよ、私」
「あー…うん、よろしく」

何か思案を含みながらマイルさんが返事をする。

「…じゃ、楽しみにしとくよ」
「うん」


意外だった。彼は本当にドアノブを回し、帰る姿勢を見せた。

実は何処かで、彼が部屋に上がること、それからその先まで踏み込まれても構わない…と思っていた。期待といってもいいかもしれない。

こちらが拒んでも、迫ってきそうな勢いすらあったのに。

察しのいいマイルさんは今度は物音を立てぬよう静かにドアを開ける。スムースな様を見ると、がっかりしただろうか、つまらない女と思われただろうかと雑念が頭をよぎる。

私と同じく何か考え事をしながら足を踏み出したマイルさんは、心ここにあらずな声で「じゃあ」とだけ呟いた。
一抹の不安を握りつぶして私も「じゃあ」と同じように返す。

マイルさんが数歩進み私の視界から消える。閉まるドアがゆっくりと近付いて、外の景色が遮られていく。数秒のうちにドア一枚に遮断される私とマイルさ

「あのさ、」

心臓が止まるかと思った。静かに場を去ろうとしていたはずのマイルさんが、がつりと音を立て、滑り込ませた手でドアを押さえた。早速吸おうとしていたのか、煙草の箱をぶら下げた指先。
早朝から度々意外なことをするのはやめてほしい。吐き出した呼吸で返事する。

「なに…?」
「俺の名前」
「…なまえ?」

「マット」

マイルさんはそう、自らを名乗った。

「マット?それがマイルさんの…」
「偽名」
「…偽名の代わりに偽名、教えられても」
「こっちの方が本名に近いからさ」
「あ…そう…」

朝方に物音を立ててまで言うような話には思えず、今度は私の方が「理解できない」という顔をしてしまったかもしれない。

それでも何だか、彼のことを教えてもらえるのは貴重で嬉しいことのようでもあった。マット。それがあなたの。

「それから」
「…?」
「"さん"は要らないから。おやすみ」

言い終わるとこちらの顔を確認することなく、マイルさんはその場を後にした。大きな音が立たないよう、突然手放されたドアを私が引き継ぐ。
おやすみと言われても、今からではもう深い眠りにつくことは叶わないだろう。

それでも私は声を抑えながら、できるだけ届くように返事をした。

「おやすみ……マット」

ドアに遮断される前に見えた、朝に溶ける彼の背中に。


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