手には取れない
刻一刻と紫を濃くしていく空の下、この世の何処にも存在し得ない幸福と共にナナは街路樹の横を進んでいた。さほど遅い時間ではないから街灯もまだついてはいない、とはいえコートを羽織る季節。
夕方ともなれば夜の気配は充分に近付いている。
足元も表情も見えているようでよく見えない、何かを隠すにはもってこいの時間。
ナナは猫背の男の遅い歩みより少し前を、朗らかに跳ねるように、嬉しそうに進んでいく。
「すっごく楽しかった!」
ふぅ、と息を吐いて笑みを浮かべた彼女は心底満足していた。何せ今日はこの二人にとっては珍しく、貴重な体験をした日であったから。
「ご満悦で」
猫背の男が出す感情の滲まない抑揚のない声は、ともすれば嫌味や適当な相槌に受け取られかねない響きだけれども、特別な色を伴ってナナの鼓膜を揺らすらしくまったく問題にはならない。彼女は合いの手を打つかのようなテンポの良さで、明るく相槌を打つ。
「それはもう!」
元気よく答えたナナの脳裏をいくつかの光景が駆け抜けた。
開園してからしばらく経ち空きすぎた入場ゲート。
人のまばらな園内の様子。
お化け屋敷で寄り添って歩いた彼の腕。ジーンズの裾を間違えて踏み二人で躓きかけたこと。その時咄嗟に添えられた大きな手のひらの温度。
ミニカステラやクレープを誰もいない空いた食堂の端で食べたこと。あまり清潔とはいえそうにないプラスティックの白いテーブル。アメリカンドッグに砂糖をまぶしてとったかろうじて昼食らしいといえる食事。
観覧車から見える夕暮れの街。隣り合った座席で隠れて交わしたキスは、アクリル窓の隙間から入る空の味だった。
何もかもが素晴らしいときめきに満ちていた。
彼と初めて来た遊園地。きっともう二度と叶わぬ夢。
「今日一日、最高だった。ありがと」
「……」
猫背の男はゆるくナナを睨むように見つめ、何も発しない。果たして自分は礼を言われるようなことをしたのか、礼を言わせてしまうような日々だったか、羽根でも生えるのかと思わされる彼女の幾分か過剰な高揚の具合に、男は些かの抵抗を覚えた。
今日のナナはおかしい、と。
訝しがられていることに気が付かないナナが、ふと前方に気になるものを見つけた。
「記念…メダル。記念メダルだって!」
彼女の目に付いたそれは遊園地の出口付近に設置された記念メダル作成の自動販売機。
草木の影に半ば隠れている古びた販売機は現役とは言いがたいが、それでも来園者の最後の出費を促している。
柄のついた銅板に日付を刻印するだけの、チープなメダル。
「日付の刻印だけで800円は高額だと思います」
「いいのいいの、思い出代!」
すぐに近寄り、片方の手を膝につけたナナは、販売機の説明を読みながらもう片手で男を呼び寄せる。
男はジーンズの裾を擦りながら考える。
日付の入った記念メダル。
いやに高揚した彼女。
「ナナ、日付を入れたとしても」
「入れたとしても!」
「……」
男の言いかけた言葉を聞き、それまで機嫌の良かったナナが突然語気を強めた。男はそれを受け押し黙る。
販売機を見つめたままの彼女の口ぶりは、他の誰からの意見も受け入れまいと頑なに決めているようだった。
…これだけの幸福を共にできる彼の言葉でさえ。
「日付を入れたとして…分かってるわよ。日付を入れたらこのメダルは、私だけの記憶になる」
言いながらナナは小銭を次々と機械へ投入していく。乾いた重い作動音が響き出し薄いメダルへの刻印が始まる。
「このメダルは、私が一人で遊園地に行って気まぐれで作ったメダル。寂しい女としての記憶。ね、それなら記念メダル、別に作ったっていいでしょ?」
柔らかく問いかけるようにして、それでいて男に意見させない口ぶりでナナは言い切った。
コツリ、と音がして完成したメダルが落ちてくる。取り出し口にすぐさま手を入れたナナは、パッと男を振り返る。
「見て!これ。ほら、今日の日付」
「800円かけた日付」
「もう!私個人の記念代に口出さないで。これは、私のたーいせつな…今日、一人で、遊園地に来た記念よ。
…一生忘れない。メダルを見るたびに」
「思い出しますか。本当は一人ではなかったことを」
その彼の一言にナナは顔を上げる。互いの顔は、見えないようでもかろうじて見つけることができる。そんな時間。
無理をしても隠せそうで隠せない。
どこへ手を伸ばせば相手に届くか、見失わない限り分かる、そんな時間。
「…エル」
彼から伸ばされた手を見たナナが失言を漏らした。
メダルを手にした瞬間から、存在する事実は「一人で遊園地に行った」ということだけなのに。
「…うん。思い出すと思う」
「ボロが出ないことを祈ります」
触れ合った指先の熱だけが距離を伝えるそんな時間。
二人は近付き、今度は歩幅を合わせる。
それからゆっくり、うんと時間をかけて。
誰も知り得ない秘密の恋人達は、幸福をメダルに隠し遊園地を後にした。
手には取れない