打ち明けざる者、恋に至らず。
ものすごく、遠くへ行っていたらしい。「どうかしましたか?」
そうLに話しかけられて、自分が今、職場にいることを思い出した。
湯気が立ち上がる空気感も、エアコンの稼働音も、ちゃんと耳に入っていた。
指先で持ったカップだって、しっかりと落とさずにいた。けれど、そのどれもが一瞬どこか他人事だった。
こうなった原因は、ひとえに疲労にある。
何もかも、精神疲労のせい。
明確に誰かのせいだと、責任の所在が明らかになっている訳ではない。だからこそ苦しい。当たりどころがない。
思いがけない予想外の出来事は、誰の身にも起こりうる。
受け入れざるを得ないこともある。
あきらめが肝心な時、あきらめずに持ち堪えることが大切な時、どちらもある。
多忙という言葉では言い表せない時間的物理的な余裕のなさなのか。
それとも咀嚼する隙間のない、内面的な混乱のせいなのか。
もはや、すべて。
事態は混乱を極めている。
が。それを上司に、それも最高責任者に愚痴る訳にはいかない。
無能だと思われたくないし、この体制に不満があるとも思わせたくないし。
「……すみません。一瞬、ぼーっとしちゃってました」
苦笑いでごまかすように言ってみた。
上司にする言い訳としては気の抜けた発言だなと思ったけれど、松田さんの方がもっと気が抜けてるから、この程度で変わり者の最高責任者を怒らせることはないだろう。
「思考力の低下。睡眠不足…ではないですね、昨夜爆睡だったようですし」
「えっ」
「確認したいことがあって連絡しましたが反応がありませんでした。あ、心配しないでください、その件は既に解決してますので」
はい…、と答えてから心の中で悪びれる。
L、このビル建てたのよね。連絡とか言ってるけど、着信履歴なんてなかったような。まさか室内に監視カメラあって目視確認してたりしないよね、みたいな。
「では悩み事でしょうか」
こちらの疑惑を無視して、Lは淡々と話を進める。
「うーん、悩みというほどはっきりしたものじゃないんです」
「ではあれですか」
上を見上げて、関節の際立つ長い指でぽりぽりと顎を掻き、そして彼はこちらへちらりと視線を向ける。
「精神面」
正直どきりとした。
原因が分からない時、心はどこに根を張っていいのか分からなくて揺らいでしまうものだ。そういう状態だったのを、今シャキリと立て直された。
疲労の原因も、どきりの正体も、この一言で。
「…そうかもしれません」
「休んでください」
間髪入れずに返ってきた言葉は、想像していた通りのそれだ。
ありがたいけれど、私はどうにも、それでは腑に落ちない。それが困っている原因でもある。
「それが、休んだらそれはそれで余計悩みそうな気もしていて」
「難しいですね…では相談に乗りましょうか」
「竜崎が…!?とんでもない!」
他人に一切歩み寄らないように見えるこの人が、相談という真逆の行為に手を差し伸べるものだから、失礼ながら思い切り驚愕してしまった。
「竜崎、悩みとか弱音みたいな、湿っぽいぐちぐちした話聞くのお嫌いなのでは…?」
「ああ、そうですね。興味のない話に付き合わされるのは基本的に苦手です。が、時と場合によりますよ。ナナさんのような方が何に悩むのかについてなら、多少興味も持てますので聞けます。多分」
「いっいいですいいです!嫌われたくないですし!」
「?」
しまった。おもむろに疑問符を浮かべた表情をするLを見て、血の気が引きそうになる。
“嫌いなことはしたくない”が、正しかった。
“嫌われたくない”だと、非常に、ニュアンスというか、意味合いが違って聞こえるよね。
好かれることを目標にしてるみたいだし、どんな浮ついた気持ちで捜査本部にいるのかとがっかりされてしまったらどうしよう…!
訂正するのも妙にこだわってるみたいで違和感が際立つかもしれない、と自ら悩みを1つ増やした愚かな頭がぐるぐる作戦を練っているうちに、Lの方から思いがけない言葉が飛び出した。
「嫌いになりませんよ?」
はっとして見上げると、指を突き刺すようにして下唇の形を押し潰したLが不思議そうに首を傾げていた。
「内側をさらけ出すのは、実際には勇気のいる作業です。努力家の弱音は、信頼に値しないと聞ける立場にすらなれませんし。それを理由に嫌いになることはあり得ません」
努力家。って、私のことだろうか。
そう思うと、間接的に褒められたような気分になる。
一人で抱え込んで、処理しきれずにオーバーヒートしかけてた気持ちが緩みそうになって危ない。
嫌われたくない、の後に涙はまずい。
喉の奥にめいっぱい力を込めて堪えていると、Lは様子を見て、「むしろ好感を覚えます」とにこり付け足した。
Lの笑顔…!
ときめきそうになるけど、なんだかおかしいぞ。
一度、見たことがある。
日本警察の士気を上げたやや含みのあるわざとらしいスマイル。
「竜崎…。う…」
「う?」
「うまいこと…言って、私の頭の回転をいち早く元に戻そうとしてます?」
思わず、口角を緩めてそう聞いてしまったら。
「バレましたか」
Lは頭を掻いて、悪びれずに嘘の仮面を剥がした。
ちょっとドキっとしかけたけれど、彼の巧妙なトラップにかかって涙を見せなかった自分が、急に誇らしく思えてくる。
こんなやりとり1つで、自然と元気が出てくるのが分かった。
小さな会話も、時に大きな支えになる。
顔を上げて部屋を見回すと、急に視界が開けたように感じられて、何だか意欲がわいてくる。
「有能な人材はそういないので大切にしないとなりません。休憩を差し上げますので、落ち着いたら戻ってください」
「はい!」
さっきとは打って変わって明るくなる私に、目を丸くしたLは、ほどなくしてごく僅かに口角をあげた。
そして貼り付けたスマイルとは少しだけ違う、愉快そうな瞳を揺らして、一言付け足してくれたのだった。
「待ってます」
打ち明けざる者、恋に至らず。