バレンタイン・デイ
今日が何の日かなんてそんなこと、すっかり忘れていた。*
捜査員の皆さんが昼食に出払い本部が空になった休憩時、私はワタリに呼び出された。
L以上に多忙に見えるこの老紳士は、相変わらず美しく身なりを整え、いつになっても敵わないと思わせる見事な出で立ちでそこにいた。
「ナナ、今日は午後半休を取ってください」
「えっ?」
こちらに来て初めての"休み"の響きに、何か悪い冗談か、とうとう取り返しのつかない失敗をしてしまったかと焦った。
ところが有難いこと、そうではないらしい。
「Lも今日は大学へ行っているので手は空いています。日本に来て、慣れない生活が続いているでしょう」
「えー!本当?嬉しい」
「たまにはこれでショッピングでも楽しんできてください。もし時間が許せば、今夜は一緒に食事にでも行きましょう。本部が落ち着き次第迎えに行きます。
…身支度を整えておいで」
そう言ってワタリは私にカードを手渡す。
「本当に!?いいの??」
久しぶりに聞くハウスにいた時みたいなワタリの調子に、すっかり肩の力が抜けてしまった。
「後ほど一つ用事を頼みますが、大したことではないので今日は自由にお過ごしなさい」
そう付け加えたワタリに二つ返事でお礼を言い、早速先に上がらせてもらった。
*
日本に来てからゆっくりとショッピングするのは今回が初めて。
街は寒さをまといながらもそこかしこで煌びやかな彩りを見せ、沢山の人が行き交い騒めいている。
独特でパワフルな場所。楽しい!
まずは服を選びに少し上品なセレクトショップに入った。店内は黄色の光で包まれこっくりとした雰囲気を漂わせている。
いつぶりか…目に付いた洋服を手に取り鏡で合わせる。毎日色気も素っ気もない場所で日々のタスクをこなすだけの仕事をしているので、こんな風に気持ちがわくわくするのは久しぶり。
ワタリの有難いお言葉に甘え、素敵なワンピースのセットアップを購入した。縁取りに型抜くようなレースが施されたデザインは、上品でありながらシンプル過ぎず、華やかさもありとても気に入った。このままでも充分だけれど、ここにアクセサリーを添えればディナー向きのお洒落着としても機能すると思ったのだ。
想像した通り、合わせて購入したアクセサリーもぴったり。華奢なデザインのネックレスとイヤリングは身体の動きに合わせ小振りに揺れて、何とも可愛らしい。
今夜は久しぶりに、ワタリとゆっくり食事ができる。どうか色んなことが滞りなく進みますように!
*
着替えた足でそのまま美容室に飛び込んだ。少し毛先を整えてもらうつもりが、雑談中の美容師に「お出かけですか?」と問われ何の気なく頷いたものだから、会計を終えて再び路地に戻る頃にはすっかりお出かけ仕様のヘアスタイルになっていた。
毛先のカールが揺れ、適度にまとめられた髪が思った以上に自分に馴染んでいて、美容師の腕が良かったことを感じる。
ショーウインドウに反射する自分の姿は大人の女性らしく洗練されていて、先日日本のことわざ辞典で見た"馬子にも衣装"ということわざは、こういう時に使うものだろうと我ながら笑ってしまった。
店を出て少し気取って歩く。いい女になった気分も束の間、日々の仕事に追われ日常の楽しみから離れていた自分をすぐに思い知ることとなった。否応なく現実を突き付けたのは、店頭の商品、街行く人々…手を繋ぐカップル、はしゃぐ女子高生…皆が手にしているチョコレートの箱やロリポップ、プレゼントの包み。
そうか今日はバレンタインデーだったのか、と。
日本では女性が男性にチョコレートを渡すのが主流だと聞いた。
今朝松田さんがやたらと張り切っていたことや、捜査員の皆さんのコーヒーを受け取る動作に妙な違和感を覚えた理由がここに来てはっきりと分かった。
どうしよう、期待しているなら、何かちょっとしたものを捜査本部に用意した方がいいかしら。近くで雑談しているおば様達が、これ見よがしな声で職場に持って行ったチョコレートの話をしているのが耳に入った。
思考を巡らせながら進ませた足が自然に止まったのは、有難い出会いがあったから。目の前に現れたチョコレート専門店が、何ともバラエティ豊かな品揃えで興味を引いたのだ。
Lが喜びそう…。
まず脳裏を駆け抜けた言葉に首を振る。最近、甘いものを見るとまず浮かんでしまうあのボスの姿。あんなに甘いものを食す人だとは思わなかった。
とりあえずいくつかをパパッと見繕ってみる。どうせ糖分摂取だからと楽しまれることなく消費されてしまうのだから、拘っても虚しいだけ。日本式に言うと義理チョコってやつ。
それからワタリにも。こちらは日頃の感謝を込めて、上質な素材を使ったこだわり派のチョコレートを。
捜査員の皆さんには…本部にある材料でケーキを作れば配りやすいかな、と散々買い物をした私は最後の最後に少しだけ節約することにした。
*
冷えてきた街の中をあちこち歩き回り、久しぶりの自由な外出を満喫した。
手を繋ぐ恋人達の嬉しそうな姿、いいなぁ。
こんな時にめかし込んで一人歩いている私は、通り過ぎる人の目にどんな風に映るのかな。
段々と寂しくなってきていたちょうどその時、ワタリから着信があった。落ち行く夕日を遠目で追いながら応答ボタンを押す。
「準備はできましたか?これから出るので迎えに行きます。今、どちらに?」
「結構早いのね!えっと、駅前で…」
徐々にネオンの存在感が増す喧騒な街の中。やりとりを交わして待つこと十数分、スマートな老紳士はあっという間に現れた。彼を見習って上品な身振りで車に乗り込むと、足元に気を取られすぎて頭をぶつけた。
「早かったのね!お迎えありがとうございます。用事があるって言っていたけど…?」
「はい、今から東応大学へ向かいますのでLを迎えに行ってきてください。それで今日の業務は終了です」
「え!」
それは…全然大した用事でなくはない。
むしろ、すごく重要な仕事では。
私は慌てて視線を下げる。すっかり着替えてしまった洋服に、アクセサリーまで着用している。呑気に髪なんかまとめてしまって、こんな姿でお出迎えなんて絶対にできない。気を悪くするだろうし、そうじゃなかったらからかわれそう。
「もう外は暗いですし問題ありません」
「あるよ!あるある、怒られちゃう。あ!お出迎えはワタリが行くっていうのは…?」
「老体をこき使うお嬢さんですね」
「あぁごめんなさい…って今日まで老体感出してなかった!」
「冗談ですよ…しかしこれもまた仕事です。Lも理解しますから、大丈夫。さぁ向かってください」
「えぇーっ!」
半泣きになって焦る私をよそに、車は静かに止まる。
駅からそう遠くない東応大に、議論の一つもできないうちに着いてしまった。
ワタリの穏やかな笑みから無言のプレッシャーを受け取り、私は仕方なく大学内に降り立った。
キャンパスへと繋がる道は既に薄暗く、不慣れな中進むのは少し勇気がいった。流れに任せて歩み進めると、いたいた。人だかりになる夜神月の横に、L。
私に気がついたLがポケットに手を入れたまま、人だかりを抜けこちらに向かって歩き出す。女の子に囲まれた中で頭が飛び出して見えている夜神月が、Lを追うようにして振り向いたので私は慌てて目を逸らした。
「すごい人だかり、本当にこういうことってあるんですね…!」
「はい、女性の執念を見ました。ところで」
近づいて来たLを迎えながら、思ったことをそのまま口にする。
夜神月に気を取られて、Lに指摘されるまで一瞬忘れていた。
「舞踏会にでも行くんですか」
全身をじろじろと凝視され、急速に自分の置かれた立場を思い出す。
「えっ?あ!いや、これは…。違うんですよ!すみません!誤解なんです」
「誤解、ですか。ではどこにも出掛けないのにこの出で立ち…ナナさん意外に自意識過剰なタイプ」
「いえいえ食事に行く予定ではあるんですけど…!」
「誤解…」
「すみません、舞踏会ではないので誤解って口走っただけです。出掛ける予定はあります。…はぁ」
やっぱりLに指摘された。だからワタリが迎えに出てくれれば良かったのに。そう思うとついついため息もこぼれる。
「私が大学でありがたい講義を拝聴している間に随分とめかし込んで」
「すみませんってば!!」
今は立場が悪いから黙っておくけど、ありがたい講義なんて絶対思っていないはず。
本部にいるのと変わらない勢いで揚げ足を取るLに負けないよう訂正し返していると、すれ違う人の声が耳に入り心底驚いた。
「流河君って彼女いたんだ!」
驚いて耳を傾けると、通り過ぎ様の雑談も聞こえた。
「ほんとだ、でも美人の彼女連れてるイメージあったかも」
「分かる!当たってんじゃん!」
彼女?そんな風に見えます?
嫌味な上司を迎えに来ただけ。そして嫌味を言われているだけです。美人のところだけ都合よく頂戴しつつ、私は早足のLについていく。とにかく弁解せねば。
「ワタリが大した仕事は残ってないから身支度するようにと…それで、あの、着替えてしまったんです」
Lの横に並ぶようにして声をかける。
「私の迎えは大した仕事ではないと」
この人は、いちいちいちいち揚げ足を取って!
「わ、私は思ってませんよ!ワタリが…」
「ワタリに指示したのは私です」
「あぁ、そうだったんですね、それで決して悪気があった訳ではなくて…」
何が何だか分からないまま弁解を続ける私を遮ってLは告げる。
「午後半休を取るよう言われたでしょう」
「はい…あれ。え?」
「私はナナさんを迎えに寄越すよう言っただけですが、ワタリは仕事の手を抜かない。抜群の効果で助かりました」
「はぁ…?」
会話が行き違っていることに気付いた私が、何が何だか分からず情けない疑問符を落としたその時。
「私、意外とモテます」
突然Lが顔を寄せ、耳元で囁いた。
近づいた熱に顔が熱くなる。
「どういうこと…ぇっ!」
振り向いて愕然とした。チョコレート攻撃にあうのは夜神月だけではなかったのだ。L…流河君の背中を見つめる女の子達が後方にちらほら…。
「…信じられない」
「それを目の前で発言するナナさんの神経が私も信じられません」
「すみません…て、いいんですか?受け取らなくて」
「受け取っても毒物の混入、食中毒を避ける為破棄することになるだけです」
「そうは言っても…」
私は気になって胸が沈む。女の子がどんな気持ちでバレンタインチョコレートを用意するか。
忘れていた私が言うのもなんだけど、この日を楽しみに心待ちにした経験くらいはある。
「例え処分するのでも受け取るだけ受け取ってあげたらいいのでは…?」
「私と接触してもいいことなど一つもありません」
そうですね、とうっかりつられて言いそうになるのを堪える。危ない危ない。
Lは見えてきた車に向かいながら続ける。
「余計な接触をする為に此処に通っている訳ではありません。用意したものは、」
無感情とか変人とか言われるLだけれど。
私はそうは思わない。
と、こんな時思ったりする。
「自分で処分する方がいい。まだ使い道があるでしょう」
毒物が入っていない可能性の方が限りなく高いのは言わずもがな。むやみに拒否している訳ではなく、ただ合理的に。感情の整理を促す役割もあるのかもしれない。
「…そうですね…わぁっ!」
相槌と同時にLに手を握られ、心臓ごと掴まれたかのように一瞬息が止まった。
「せっかく人が寄らないようあなたに来てもらったんです。この方がそれらしくていい」
そう言って私の手を強く握ったLは、戸惑うこの身を引っ張って進んでいく。突然温かくなった指先がじんじんする。意外と温かい手のひらからダイレクトに伝わる熱は、私の知らなかったLを押し付けるように主張している。
「私も市販品でチョコ用意しちゃいましたよっ」
「そうですか後でいただきます」
「あれっ?」
「あなたは信用できる人物のはずです。まさか毒入りですか?」
「入ってませんよ!!」
またしても茶化しだしたLに応戦しながら進む。追うように視線を上げれば、歩く度揺れる襟足の髪と隙間から覗く素肌。
手を繋いで歩く距離、合わせあう歩幅、握られた手から伝わる温もり。
そしてさらりと寄せられたLからの信頼。
どうか振り向かないで、と祈りながら進んだ。私の顔は今、きっと真っ赤だ。
それにしてもワタリにはぬか喜びさせられた。お出かけできると思っていたのに恋人役の準備だったなんて。
車に辿り着くと、Lはひょいっと軽やかに飛び乗った。もう外からは見えないのに、エスコートするように手を取ってくれる。おかげで今度は頭をぶつけずに乗り込めた。
流れで、私まで後部座席に収まってしまった。
私たちが乗り込み終わると、ミラーでこちらを確認したワタリが至極楽しそうに「これは、不機嫌な顔が二つも」とわざわざ呟いて運転を始めた。滑らかに車体が動き出す。
「余計な気を回すなと」
「騙したでしょう!?」
Lと私がほぼ同時に言葉を返すと、ワタリはますます上機嫌になった、ように見えた。
「ナナ、騙した訳ではありません。今夜、食事の約束をしたのは本当です。席ももう用意してあります」
「本当!?」
「はい…おや、しかしたった今用事を思い出してしまいました。送って差し上げますから、Lとナナ、二人で行ってきてはどうでしょう」
「!」
「えっ!?」
突然の白々しい提案に、横にいるLですら怪訝な顔をしている。私だって、ワタリと一緒に過ごしたかっただけで、緊張するしLと食事なんてしたくない。
先に口を開いたのはLだった。
「…私は今日一日分の資料を確認するので遠慮します」
勿論、私だってご一緒したくないのは同じ。
「わ、私も、捜査員の皆さんにチョコレートケーキか何か用意するつもりだったし、ワタリがいないならこのまま戻ります!」
そう宣言した。すると、今度はLの怪訝がこちらに向かった。
「わざわざ作るんですか?」
「え?まぁ、何かあった方がいいかなと思いまして…」
「私には買ったものを寄越すのに、手作りですか、なるほど」
「深い意味はないですよ!買い物いっぱいしたし節約しようとしただけで。それに多分、買ったやつの方が美味しいですよ」
「そういう問題ではありません」
…そういう問題じゃないかな?分からない。
Lは指をかじってますます不機嫌なポーズをとってみせる。疲れてるのよ。
私も心底疲れた。おめかしは楽しかったけれど、結局食事に行く約束はあってないようなものだったし、今日もまたLに振り回された1日だった。
ついたため息が小さく響く。
車内に無音が少し続いた後、考え事をしていたLがおもむろに口を開いた。
「…本部には着替えてから戻ってください」
「当然そうしますよ!私そんな浮かれているわけでは…」
「いえ今日はナナさんが自意識過剰なタイプだと知ったので」
「それは誤解ですってば!ああもう、せっかく買い物して楽しい気持ちだったのに…」
「私は楽しかったですよ」
こちらの言葉を打ち消すような一言に、思わず横を向いてしまった。
Lは前を見つめたまま続ける。暗い瞳に珍しく、街の灯りが反射している。
「美人の恋人がいると思われるのはなかなか興味深い体験でした」
「また…ご冗談を」
「あなたがそう思うならそれまでです」
静かに振り向いたLにじっと見つめ返されて、今度は何も言い返せなかった。
「とにかく、捜査員の士気に関わるので本部内では服装に注意してください」
繰り返さなくても分かってるってば。はい、と呟いて頭をこくりと落とし、私はそっと窓の外を眺めた。
冷たい空気に包まれた街がネオンを携えていく様子は、儚くて物憂げでとても綺麗だった。眺めているうちに少しの眠気が訪れ、私はゆっくりと瞬きをする。ここから捜査本部まで、あとどれくらいだろう。
無音が続く車内で眠気の狭間に揺れていた私は、突然放たれたワタリの一言を聞いて、軽く瞑った瞼を開けることができなくなった。
「…本当に、独占欲が強くて困ったものです」
Lを諌めるように言ったその台詞の意味を、考えてもいいのだろうか、いややめておくべきだ、そう思いながら眠ったふりをした。何でか分からないけれど、多分そうした方がいい。何でか分からないけれど、少し嬉しいような気がした。
仕方がない。
本部に戻ったら、隣で妙な姿勢をしているボスにも何か作ってあげるとするか。
ふわふわした気持ちを胸に私は覚悟を決め、脳内のレシピを探し始めたのだった。
バレンタイン・デイ