松田氏の憂鬱
僕は松田桃太。現在キラを追う特別捜査本部で活躍中の二十五才、独身。実は、最近気になるヒトがいる。
松田氏の憂鬱
ナナちゃん。
キラ事件の捜査中だというのに、こんな気持ちを抱くのはおかしいかもしれない。気が緩んでいると思われても仕方がない。
だからこの気持ちは誰にも言えないまま、今はまだ胸に秘めている。
最初に彼女と出会ったのは、ワタリさんが連れてきた日。
竜崎ことLのフォローにおいて、ワタリさんでは間に合わない時の手助けをすると紹介された時だ。
緊張の面持ちで現れたナナちゃんは伏し目がちで緊張していて、初々しい女の子って印象だった。
捜査本部に合流してからのナナちゃんは、竜崎のみならず捜査本部のメンバーのこともよく気遣ってくれた。
食事の支度や部屋の掃除、差し入れをしてくれるだけでなく、みんなが過ごしやすいようさりげなく空調を調えたり、その場の些細な変化にまで常に気を配っている。いつの間にか僕たちも細かな用事をちょこちょこと頼むようになっていた訳だけど、はつらつと仕事に励む姿が健気で、いつしか目が離せなくなっていた。
竜崎があんなに冷たく当たっているのに嫌な顔ひとつせず、みんなが話し込んでいる時は場を乱さないよう空気となり、与えられた仕事を一生懸命こなしているナナちゃん。
最近ではすっかりナナちゃんが出してくれるコーヒーやケーキが楽しみになっていて、その時間が気の休まらない捜査本部にいる中で唯一幸せだと感じる。
今はまず、毎日一緒にいるのだから少しずつ距離を縮めていければなと思っている。
お茶の時間にはできるだけ話しかけて色々なことを聞いている。
一度、珍しくLが席を外した時に本部に二人きりになったことがある。
勇気を出して、「キラは必ず捕まえます。君の為にも」と伝えてみた。
ナナちゃんは戸惑うように俯いて、頬を赤くしていたように思う。
照れて返事が出来なかったのかな、分からないけれど。「竜崎の指揮ですから必ず捕まると信じています」と彼女は答えた。
はにかんで話す彼女の遠慮がちな視線に僕は胸のときめきが止まらなかった。
ちょうどその時竜崎が戻ってきて、彼女は恐れるような視線を竜崎に送り咄嗟に身構えていた。そりゃあんな無愛想な上司じゃ当然だ。
僕はキラを捕まえるだけでなく、竜崎に翻弄されているナナちゃんを早く自由にしてあげたいとも思っている。
**
Lside…
もし自分に特別に親切だ等と考えているなら全く勘違いも甚だしい。
松田の動き。
まさかとは思うが、ナナに対し恋愛感情のようなものを持っているのではないか。
あれでは人数を絞った意味がない。
直接指摘してもいいが捜査に支障が出るようなことは避けるべきだ。
少ない人員を有効に使って事を運ばなければ、この事件の真相を暴くことはできまい。
ナナも必要以上に物を聞かれては困惑するだろう。加えて彼女が持つ余計な情報をうっかり落とされては元も子もない。
こちらに来たばかりの頃はハウスに送り返したくもなったナナだが、緊張が解けてからは思っていた以上によく働き目を見張るものがあった。
…それ故、捜査員の目にも止まるのだろう。
そもそもナナは捜査員達にまで余計な世話を焼きすぎる。
雑務の内容はワタリと同様のはずだが…あの愛想の所為。ああにこにこと対応されては、捜査員達の気が紛れこの場の緊迫感が薄まってしまう。
もっと淡々と仕事するよう言うべきか。
…とにかく。
あの不愉快なやりとりに対策を講じる必要がある。
**
ナナside…
最近Lは以前に比べて少し神経質な感じがする。
私のことにもいくつか助言があり、「生い立ちや自分のことについてなるべく話さないこと」「捜査員の世話は最低限でいい」等、指摘された。
捜査本部でも何が起こるか分からないのだから必要以上に捜査員に近付くなといった話…だったような気がする。
とはいえ私は捜査に役立つ人間として本部にいる訳ではないので、何かしらのお手伝いくらいしないと心苦しい。
Lのことは第一優先にやっているので、出来るだけのことはこれからも続けていきたいな、と思っているのだけど。
なるべく空気になって、なるべく余計なことはせず、なるべく笑顔を心がけて。
ただ、先日ちょっとだけ戸惑うことがあった。
少し…松田さんの距離が近い…ような気がする。
以前は話しやすくて、親しみのある素敵な人だと思っていたのだけど、先日捜査本部にたまたま二人になった時「君の為にキラを捕まえる」みたいなことを言われた。
キラを捕まえれば恐怖から逃れられるのは誰だって同じだから"君の為"に深い意味はないのかもしれないけれど…。
どう受け止めればいいか分からない上、Lからの指摘直後だったので、とても困った。
適当に受け流した直後にLが本部に戻ってきた時は心底ドキリとした。
"捜査員と近付きすぎない"というのにこれも該当するのかとLを確認するように見た。何だかとても不安になる。
言わんこっちゃない、といった表情を返したLは何も言わず私たちを通り過ぎ椅子に収まってしまった。
コーヒーを届けに行くと、去り際突然手首を掴まれ、珍しく目を見て「ありがとうございます」と言われた。
怒られて焦るような、でも頼りになって安心するような、複雑な気持ちになる。
私はまだあの人が、何を意図して発言するのか理解しきれないでいる。
**
―捜査本部―
今日も各々が胸に想いを抱えながらの一日が過ぎた。
続々と捜査員が自室に戻るのを見送りながら、ナナはキッチンで片付けに取り掛かっていた。
流れる水音に混じってLと松田のやりとりがナナの耳に届く。
「僕もう少し作業やっていきます!」
「松田さん、やる気があるのは良いことですが疲れが溜まると効率が落ちます、適度なところで切り上げてください」
一旦シンクを綺麗にしたナナは再びコーヒーの支度をする。Lのカップが空であることが気になっていたのだ。まず角砂糖のポットに新しいカップ。それからキャンディーを一掴み、トレーに乗せる。
(残るなら松田さんの分もあった方がいいかな…)
洗いたてのカップをもうひとつ拭きあげ、トレーに追加して並べるとナナは二人の元へ向かった。
「お疲れ様です。コーヒー、召し上がりますか?」
深夜に近付く頃、Lは度々コーヒーを要求するのでナナはこの判断に自信があった。だから確認もせず準備して持っていったのだ。
「結構です」
松田が「ありが」まで言いかけた時、Lが冷たく言い放った。
最近はうまく調子を合わせられていると思っていたナナの顔には、戸惑いの色が滲む。
「長くなると困るので。松田さんも休んでいる暇はありません、集中して進めてください」
「はい…」
松田の萎んだ声を耳に、ナナは分かりましたと返事してキッチンに下がった。
デカンタを保温したナナは、小さくため息をつく。
(L、不機嫌だったかな…)
ステンレスに布巾を這わせながら考える。しかしくよくよしていても仕方がない、本部にいる今はまだ落ち込む時間ではないのだ。そう思い直しナナは自分の作業に集中することにした。自分の作業とは、現在のところLと松田の様子を確認することなのだが。
「りゅ、竜崎は休憩しなくていいんですか?」
促すように松田が声をかけるとキーボードを叩く手先を休めないままLが答える。
「捜査員全員が切り上げたら私も一度切り上げます。松田さん待ちです」
「じゃ、じゃあこれで一旦終わりにしておこうかな〜ハハ…」
「はい。お疲れ様です」
聞き耳を立てて待機するナナのところまで、緊迫したやりとりが届いた。いつものLと変わらない言葉運びでありながら、ナナはそこに棘のようなものを感じ取る。松田が帰れば自分の仕事もひと段落な訳だが、胸の中は今のLと二人きりになることに対する不安の方が大きく占めていた。
そそくさと立ち上がり服を整えた松田が玄関に向かい出すのが見え、ナナは慌てて不安を振り払った。
一日の捜査に敬意を払い、今はまず見送る心構えを。
「松田さんお疲れ様でした!ゆっくりお休みになってください」
「ナナちゃんこそお疲れ様!…疲れてない?」
「お気遣いありがとうございます。わっ…」
その時、突然松田がナナの手を取り持ち上げた。
「乾燥してない?この間ハンドクリームの貰い物をしたんだけど僕は使わないから明日持ってくるよ!」
松田は告げるとにこっと笑い、ナナの手を静かに放した。困惑したナナの右手は指先を握るか広げるか判断がつかないまま不自然な形で垂れ下がり、左手が隠すようにそれを覆った。
「あ…りがとうございます」
「では、また明日!」
「はい、お疲れ様です。また明日…」
ナナは松田を見送ってドアを閉める。
何がいけないのか自分でもよく分からないが、何かが良くなかったことだけは直感していた。
ナナがまだ感触の残る右手を握るようにしながら振り向くと、やはりピリピリした空気が室内に満ちていた。
不愉快なのを隠さず椅子から飛び降りたLが「セクハラです」とブツブツ言いながらナナに近付いてくる。
「…何ですかその顔は」
ナナの様子にLが鋭さを増した声で問いかけると、慌てたナナは弁明のように言葉を並べる他なかった。
「あ…突然のことでびっくりして…手が乾燥してるの、自分でも気がついていなかったので…」
「手を握られてときめいてたんですか」
「えっそんなこと一言も」
「無頓着すぎます」
今日のLが特別に機嫌が悪いのか、それとも自分が間違った行動ばかりしているのか、ナナは居心地の悪さを感じながらただ「すみません」と返すことしかできなかった。
「自分のコンディションくらい把握しておいてください」
叱責を身構え固くなったナナの横をLが通り過ぎ、引きずられたジーンズの擦れる音だけが響いた。Lはキッチン戸棚の引き出しに指をかけるとやや雑に開ける。
「捜査員から物をもらうのは危険性もありますのでこちらを使ってください」
ナナが引き出しの中に目をやると、そこには意外なものが収められていた。
「ハンドクリーム…?」
小花柄、淡いピンクや高級そうな深紅、シンプルな白や緑のパッケージ。チューブからボトルまで、小さな店が開けそうな品揃えでクリームが揃えられている。
「三日前から荒れてきてました。わざわざワタリに用意させたのに気付かなかったんですか」
「…はい」
ワタリが何か言っていたかナナは記憶を辿るがそんな会話をした覚えはない。普段使わない引き出しだったので全く気が付かなかったのだ。気がついても手を出すのが憚られそうな高級品の雰囲気である。
「これ…私が使っていいんですか?」
「でなければここには置きませんね」
「わぁ…ありがとうございます!」
Lの苛立った雰囲気に恐縮していたはずなのに、ナナは心が軽くなるのを感じた。そんな人ではないと思っていたLの気遣いに、自然と頬が緩む。
「では、」
「コーヒーですねっ今用意します!」
明るさを取り戻したナナはルンルンと弾むように支度を始める。
まだ何か言いたげであったLは親指を口に運び押し黙る。つい先ほど断ったコーヒーを今ならいいと気がつくナナに気を良くしたのか、名探偵は大人しく「お願いします」とだけ答えたのだった。
*end*