淪落の恋 15


夢みたいなあの一日はアーサーの中の一等幸せな思い出として記憶されている。これが、この気持ちが褪せることが今何より怖い。

デジカメの中にはそれを恐れるように大量の写真がある。すべて笑顔だ。隣にアルフレッドがいる、ただそれだけのことなのに。
もう自分たちには義兄弟の関係しか残っていないけれど、あの旅行は傷を深くしただけもしれないけれど。

あの時間がないと二人ともいつか限界が来ることは目に見えていた。最終的には駆け落ちなんてこともあったかもしれない。

(それだけは、ダメだ)

駆け落ちなんて当人たちの都合しか考えていない。ジョーンズ家は確実に没落する。何より、アルフレッドから帰る場所を奪うことだけは避けたい。

アルフレッドは幸せな子供であるべきなのだ。本当に、心からそう願う。会うのが早かったらと思わずにはいられないけど、エミリーと婚約しなければアルフレッドとは一生会わないままだったろう。

どんなに苦しくて切なくても、アルフレッドに会いたい。結ばれなくても、触れられた記憶はアルフレッドに会いたくないなど思わせてくれなかった。

アルフレッドが好きだ。会えて嬉しい。

アルフレッドがどう思うかは別として、アーサーは胸を張ってそう言えた。



「俺は見合いは嫌だぞ」

隣の席に座ったアルフレッドが夕食中に凛とした声で告げる。結婚式まであと一月強、明日か明後日には招待状を送ろうかと言っていた頃だった。

「これから先、もし好きな人ができたらその人と結婚する」

義父が目の前で苦笑し、分かったよと言う。胸が痛いけれど、隣のアルフレッドの手を握ったりしない。
これでいい。正しい。夢は美しくて、そうそう叶わないものだろう。


その夕食後エミリーが声をかけてきた。

「今晩時間はあるかしら」
「どうかしたのか?」
「もうすぐ結婚式でしょ?そろそろ経験しときたいな、って」

言わんとすることは分かった。セックスをしようと言うエミリーはほんのり頬を染めて下を俯く。初めて見る女の顔に少し戸惑って、けれどすぐに思い直した。
女性に、特に自分の伴侶となる女性に紳士が恥をかかせてはならない。

「怖くないからな」

まるで処女にでも言うような陳腐な言葉にエミリーは苦笑した。その顔は、アルフレッドによく似ていた。






呼ばれたのはエミリーの部屋だった。

「先にシャワー浴びてくれる?」
「分かった」

エミリーの部屋はきちんと整頓されていた。物が溢れているイメージがあったので少し意外だった。現代的なエミリーはぬいぐるみよりもPCやコンポを大事にする女だったのに。

脱衣所に入る。しかし、意外だった。結婚すればこんなこともあると思っていたが、まさか結婚前にするとは。エミリーも立派な妻になろうとしているのだろうか。

(ちがう)

ネクタイを抜いたところで気づいた。エミリーは今日左手薬指に指輪を嵌めていた。それは、アーサーのものだったか?

ネクタイを洗面台の上に放って風呂場を出る。照明を落とされた部屋は雰囲気が出ていた。けれど、ベッドは無人だ。
月明かりが部屋に差し込む。エミリーは薄い肩掛けバッグひとつで窓枠に手をかけていたところだった。

「…何だ、出てきちゃったのか」

振り向いたエミリーが笑う。

「精一杯私を恨めるように、黙って出てくつもりだったんだけどね」

何であれ、家を捨てて駆け落ちするのは私の方だから。
エミリーが静かに言う。既に肚は決まった声だった。

「――演技派だな」
「あら、お褒めに預かり光栄だわ」

ふざけた調子で言ったミリーは、それからきちんとこちらを向く。逆光で顔はよく見えない。

「…ごめんなさい」

真剣な声は初めて聞く声音だった。

「ごめんなさい、アーサー。私にはあなたに会う前からあなたじゃない好きな人がいるわ。父さんに言われて抵抗できずに婚約したけど、でも親の言いなりになるのはもうたくさん」

そこまできっぱり言い切ったエミリーはふと申し訳なさそうな顔をした。

「あなたには恥をかかせることになって本当にごめんなさい」

そこでやっとエミリーの迫力に圧されていたアーサーは口を開くことができた。なのに言葉は出てこない。エミリーはそんなアーサーを見て、小さく微笑んだ。

「もう行くわ。このことは明日の朝まで父さんには内緒にしてくれたら嬉しい。…じゃあね」
「エミリー!」

手を握りしめて言葉を探す。未だかつてなく焦った。それでも、たった一言しかでなかった。

「お幸せに」

ありふれた言葉に、エミリーは今までの中で一番嬉しそうな笑顔を見せた。

「私は父から独立する。エミリー・ジョーンズは自由の人間よ!」

高らかに言い放ったエミリーがくるりと振り向いて窓から飛び降りる。ここは2階だ。それはあまりに無謀すぎる。

慌てて窓に近寄ったアーサーが見たものは、夜目にも分かる金髪の男の上に乗ったエミリーだった。ウェーブのかかった髪を揺らして何とか立ち上がった男と目が合う。ひらひら揺れた手にムッとした。けれど、エミリーから繋いだ手に考えを改める。エミリーは駆け落ちするほどあの男が好きなのだ。

庭を抜けて闇に溶けた二人を見送って、アーサーはエミリーのベッドに倒れ込んだ。多分、大変な事態だ。でもエミリーがあんなに幸せそうなのも、初めて見たから。

とにかく今は眠ろう。エミリーたちを隠す夜が明けるまで、何も彼女たちを邪魔しなければいいと強く思った。










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