淪落の恋 8


重なった唇は簡単に舌を迎え入れる。

「…っ、ふ」

くちゅくちゅと音がする。唇が触れあった瞬間全てが飛んで、もう枷なんて感じず夢中になってその唇を貪った。
唇が擦れてきっと赤く腫れるだろう。それでも、どんなに唇を重ねても足りなくて、けれど足は少しずつ力が抜けガクガクと揺れる。

縋るように背中に手を回すとアルフレッドが答えるように頭を抱える手に力を込める。
重なった身体が熱くてたまらない。けれどついに耐えきれず、ずるずるとへたりこんでしまった。

荒い息を吐きながら霞がかった思考を引き出す。キスをした。アルフレッドと、自分からキスを。身体中をたくさんの情報が駆け巡りそれはついに一つに帰結する。

やってしまった。

男と。婚約者の弟と。未成年と。アルフレッド、と。
倫理に反する。こんなことをするのは疑いようもなく間違っている。許されない。誰も望まない。
キスを受け入れた自分がアルフレッドを責めることはできない。けれど一時の過ちと割りきることは、まだ出来るはずだ。

「お前、頭、いいんだろう。本当は勉強なんて見なくていいくらい」

アーサーの突然の言葉にアルフレッドが理解できないと顔に書いてこちらを見る。アーサーは震える足を奮い立たせていつでも立ち上がれるように準備した。

「だから今日から、俺たちはただの兄弟だ」

そうして一気に立ち上がって扉と反対側の窓へ走った。ここは一階だ、少し高いが足を折ることはない。何の躊躇いもなく身体を外に投げ出した。

「アーサー!」

声は無視して走り出す。走るなんて、英国紳士にあるまじきだ。それでも危機に瀕した人間なら誰しも恐怖から一刻も早く逃げ出したいだろう。
捕まったら逃げ切れない。確信めいた予感が走るアーサーに纏わりついていた。







噎せ返るような薔薇の匂いだ。アーサーの香水は薔薇だから嗅ぎなれた匂いでも、ここまでくるとかなりきつい。気味が悪いほど甘くて喉に張り付く。

ジョーンズ家の庭はかなり大きい。その中でも薔薇園は圧巻だ。複雑で入り組んだ小道は人を簡単に迷わせる。柵に絡みついた薔薇はアーサーの背を追い越していて、目を凝らして見なければ向こうは見えない。隠れるには絶好の場所だろう。

は、と浅く息を吐く。こんなに走ったのはいつ振りだろう。体力はあると思っていたが、さすがにここまでくると苦しい。

「アーサー!どこにいるんだい!」
「くそ、来んなよ…ッ!」

アルフレッドはまだアーサーを諦めずに追っているらしい。声はそれなりに近い場所で聞こえて焦りは募るばかりだ。
そろそろ放っておいてほしい。少なくとも今日くらいは、自分にも割りきる時間が必要なのに。今日は最低の日だった。こんなに色々なことが動いて、頭が付いていけない。


汗が滲む。もうすぐ夏が終わる。暑くて、暑くて、きっと今までは全て夏の暑さの所為だった。震える足に力を込めて走り出す。さっきからぐるぐる薔薇園を回っている。

(早くいなくなれ、早く)

呪いのように繰り返す。けれどもう走れなくて、ついに立ちすくんだ。へたりこむ訳にはいかない。ここが見つかってもすぐに逃げ出せるようにしなければ。
その時だった。
突然薔薇の間から現れた手がアーサーの肩を掴んで、思わず悲鳴をあげた。


「やっと、捕まえた」


気が狂ったように心臓が揺れる。その手は薔薇の棘で血だらけだ。当たり前だ、薔薇の蔓が絡んだ柵の間から勢いよく手を突っ込んだのだから。
思わず血の気が引く。

「おま…!何やって、」
「アーサー」

肩を掴んだ手に力が込められる。けれどその力はふと緩んで、優しくアーサーの肩を撫でた。声は苦しそうで胸が締め付けられる。

「足りないよ」

するすると上がってきた指はアーサーの頬をたどり、唇に着く。撫でる手にぎゅっと自分の服を掴んだ。
振り払えないのは、弱さだ。

「キスしたい」

気が狂ったような心臓はいくら待っても落ち着かない。吐息を感じるような近さで聞こえた掠れた言葉に本能的に言葉が出た。

「だめだ。これ以上は止まれない」
「止まる気なんてない」

アーサーの肌を確かめるかのように動いていたアルフレッドの手の動きが止まる。その代わり低くなった声に身体が震えた。

「一緒に落ちたい」

甘美な響きにアーサーは思わずうっとり目を細める。どうしようもなく頬が紅潮して、浅い息が断続的に漏れる。
答えられない。答えてはならない。それがアーサーにできる精一杯だった。


そのまま暫く無言が続いたが、結局アルフレッドはすっとアーサーから手を離した。それが素直に惜しいと思ってしまい、認めたくなくて目を閉じる。
そのまま手は引っ込められてアーサーは立ち尽くす。きっと振り向いてはならない。

「薔薇だ。…アーサーの匂い」

けれど、ぽつりとこぼされた言葉に反射的に思わず振り向いてしまった。アルフレッドが強引に割り入ったおかげで開いた柵の間からアルフレッドが見える。
薔薇の真っ赤な花弁の中心に恭しく口づける、アルフレッドが。

「…っ!」

息を飲む。目を閉じた睫毛の長さ、金糸と紅のコントラスト、その美しさ。
真っ青な海のような蒼が扇形の金糸から現れる。目があって、アーサーはやっと食い入るように見つめていたことに気付いた。勢いよく顔を逸らす。

「っ、手…、…治療しろ、よ」

アルフレッドの視線を感じても絶対見ないようにしたら、暫くしてアルフレッドはくるりと回って去っていった。やっと離れた。
背が見えなくなるのを確認してから、誘われるように歩き出す。目的はアルフレッドが口づけた、薔薇。


甘い誘惑に耐えきれずに口づける。鼻孔を満たす甘い匂い。
頭を満たす背徳感にくらくらした。









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