淪落の恋 5


「はぁ?」

アーサーは頭が痛くなるのを感じた。

「だからここはこの公式を応用して」
「使う意味が分かんないぞ」
「……」

アルフレッドから家庭教師をしてくれと頼まれた次の日、アーサーはアルフレッドを自室に招き入れて勉強を見てやっていた。アルフレッドの自室はあまりに汚いのでやむ無くここにしたわけだが、やれ辞書がない綺麗で慣れないコーヒー淹れろとワガママを言いつのった結果がこれである。

(本当に、何も分かってない)

公式を知らない、知る気がない。家庭教師をしろと言った割りに必死さはなく、楽観的だ。バカなんだ。自分の置かれている位置を知らない。

それなら今までのことも説明がつく。多分アルフレッドは無自覚のシスコンで、エミリーと結婚するアーサーが疎ましくてあんなことをするのだ。好きなオモチャを取られてぐずる幼子と同じ。
子供のやることじゃないか。イライラするなんてらしくない。

「…よーく分かった」

ふうと息を吐いて力を抜く。気を抜いた笑みを浮かべるとアルフレッドが驚いたような顔をした。
アーサーはアルフレッドが開こうとしない教科書を取ってゆっくり開く。焦らず公式を探してやる。

「ほら、これだ」

アルフレッドに渡す。怪訝そうな顔に笑いかけるとパッと顔を逸らした。少し赤い。それを隠すようにアルフレッドは公式を眺めて解法を書き始めた。
椅子に深く腰かけて怒らず焦らず眺める。アルフレッドは居心地悪そうにこちらを見た。

「…できた」

ルーズリーフを渡されて眺める。さすがに公式を見れば分かるらしい、きちんと出来ている。

「よくできたな」

彼に向かって出したことのない優しさが滲んだ声だと感じた。そうだ、優しくしなければ。人に優しくすればそれは自分に返ってくる。

笑顔を崩さずにいると「気味悪いぞ」とアルフレッドが言う。けれどそれは子供が子供扱いされるのを不服に感じているようで可愛いとすら思えた。本当に今までの自分は余裕がなかった。

「よくがんばりました」

アルフレッドが顔を赤くして唇を尖らせた。








アルフレッドといる時は年の離れた弟のように接することにした。すると心にも余裕はできたようで、あまりアルフレッドの暴言も気にならなくなり、窘められるようにすらなれた。

「だーから、分からないってば」
「簡単に分からないって言うな」
「だって分かんないもん」
「アルフレッド」

パタリと教科書を閉じてアルフレッドと目を合わせる。怯んだように彼が肩を揺らす。

「もう言うな」

アルフレッドがアーサーに名を呼ばれると弱いと知ったのは最近だ。アルフレッドはそれきり言葉は重ねず数学の勉強に戻った。
噛み含めるように説明をするときアルフレッドの視線が突き刺さるように感じる時がある。それはやはり苦手だ。どうすればいいか、分からなくなる。

「…でも、やっぱり飽きたぞせんせー」
「あ?仕方ねえな」

アルフレッドがポイとシャーペンを机に転がす。少し休憩するか、と言ってアーサーはポットに入れていたコーヒーをあらかじめ用意していたカップに注いだ。さすが魔法瓶、一時間前にいれたものからまだ湯気が出ている。

アルフレッドは時々アーサーのことをふざけて先生と呼ぶ。それは少しくすぐったい。

「ねえ、せんせ」
「ん?」

差し出したカップを受け取ったアルフレッドがちびちび飲みながらこちらを伺ってくる。

「先生って、この結婚のことどう思ってるんだい」

突然の問いに目を丸くする。それからコーヒーに目を落とした。そういえば深く考えたことはなかった。昔から決まりきっていたことだと思っていたから。

「…お前の姉さんには、恋愛結婚じゃなくて悪いと思ってる」
「君はどう思ってるのかって聞いてるんだよ。幸せ?」
「そんなもの望まない」

言葉を選んで言ったつもりだが、アルフレッドはぎゅっと眉を寄せた。

「君はそれでいいの」
「それ以外の選択肢なんて知らねえよ」

即答してはっとする。自分は何を言っているんだ。いくら政略結婚とは言え思春期の子供にこんなことは言うべきでない。

「悪い、変なことを」

するりと頬を手が滑る。初めてのアルフレッドからの接触に驚く間もなく、引き寄せられた。
唇が触れる。飲んだばかりのコーヒーの味がする。


「…そんなの、俺が認めないぞ」


頬は赤いのにひどく悲痛な顔をしたアルフレッドは勢いよく立ち上がって足早に部屋から出ていった。残されたアーサーは、理解できないままただただ扉を眺め続けた。

「…キス」

したの、初めてだった。
確かめるように触れた唇は濡れていてアーサーは頬が赤くなるのを感じた。







「アル?やだ、何言ってるの。あの子すごく頭良いのよ?一族の中でも群を抜いてるし、飛び級しようと思えば小学生のうちに大学卒業出来たって言われてるのに」

信じられない言葉を平然と言ったエミリーに紅茶のカップを口につけたまま目を丸くする。昨晩からどうにも頭から離れないアルフレッドの新事実に一瞬思考が停止した。

頭がいい?嘘だ、なら何であんな頭が悪い振りを。

(まさか、話したくて?)

アーサーは震える指に内心舌打ちしてテーブルにカップを置いた。予想だにしない状況になりつつあることが、純粋に怖かった。










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