淪落の恋 4


背もたれを軋ませながら伸びをして目を擦った。目の前のデスクトップは煌々と光を放っている。夜のオフィスにアーサー以外の気配はない。

「9時か…」

予想以上に手間取ってしまった。
封筒から必要な書類を取り出そうとして封筒ごと家に忘れてきたことに気づく。少し悩んだが、仕方ない。持ってきてもらおう。

携帯から電話を掛ける。年老いた敏腕執事の落ち着いた声が聞こえた。

「悪い、使いのものを頼めないか。部屋に封筒を置き忘れてしまったみたいなんだ」

かしこまりましたと言う声を確認してから電話を切る。人に頼るのは苦手だが、今から帰るわけにはいかない。

(本当にいい執事だ)

カークランドの執事たちは如何せん兄達を贔屓していた。慇懃無礼に振る舞う様は我慢ならなかったが、アーサーはカークランド家で全くと断言できるほど力がない。
あの目が苦手だった。こちらをバカにしたような色を含む、冷たい目。

「冷たい目…か」

アーサーへの当たりがキツい者はジョーンズ家にもいる。アルフレッドだ。
けれどあの子供の目は冷たくない。態度は酷くて見るに耐えれないが、激情を宿す燃えるようなブルーだ。突き放すというより飲み込まれそうな。

だからよく分からない。あの目は何を望んでいるのだろう。アーサーにどうしてほしいのだろう。

(…まあ、勘違いってのもある)

それとも嫌われていないと思い込みたいだけか。ともすれば都合のいい解釈をしてしまいそうで嫌だ。まさか婚約者でなく婚約者の弟にここまで悩まされるとは。

―――家族が作りたいのだ。愛されたいから、だからこんなに必死になる。

見ない振りをしていた自分の本音に顔をしかめてアーサーは再度仕事を始めた。一人で考えるのはよくない。悪い方向に思考が流れがちだった。






そろそろ来るかと思っていると丁度携帯が震え出す。携帯を取った。ふうと息をつく。

「待ってくれ、今から下に行く」
『全速力で頼むぞ。あと、豆から挽いた熱いコーヒーが飲みたい』
「…、え」
『ほら、早く降りてきてよ義兄さん』

思ってもみなかった声に頭が固まる。アルフレッド、何で。
とにかく早く迎えに行かなければ。しかしそれにしたってどういうことだ。こんなお使いをジョーンズ家の跡取りが?

「冗談だろ」

アーサーの兄はそんなことをしようという素振りすら見せなかったのだが。






そうして出ていったビルの下にはやはりアルフレッドがいて疑問はますます増していく。バイクに凭れていた彼はアーサーを認めて目を細めた。ライダースーツを着ている。家から会社まではそれなりに遠い。

「間抜けな顔だな」
「なんでお前、来たんだ?」
「優しさだよ。いけないかい?」
「まさか!助かった」

理由は分からないがとにかく持ってきてくれたのは助かった。アーサーは封筒を渡してくれと言う意味で手を差し出すが、アルフレッドは知らんぷりで隣をすり抜ける。

「え、おい」
「あー疲れた。良いコーヒー置いてんの?俺がこの会社入るときは置かせなきゃ」

聞く気は全くないらしい。スタスタとビルの中に入ってたアルフレッドに小さくため息をつく。何かはよく分からないがここでいるらしい。
とりあえず美味いコーヒーを出してやろうとアーサーはその背を追った。






オフィスにカタカタとキーボードを打つ音が響く。それと、アルフレッドが熱いコーヒーを啜る音。

「あとどれくらい残ってるんだい?」
「もう終わりそう…う」

長い間パソコンと睨めっこしていたため目がシパシパする。大分画面が滲んで見えにくくなった。疲れ目にはきつくて胸から目薬を差して目を閉じる。

ギギギギと音をたてて背もたれに体重をかけて伸びをしたら、隣の椅子に座っていたアルフレッドと目があった。ディスプレイの光がアルフレッドの眼鏡に反射する。
眼鏡か。

「眼鏡貸してくれないか」
「え?」
「悪ぃ、見えなくなってきたんだ」

頼む、と若干ドキドキしながら目を合わせる。砕けた口調に慣れなくて気分を害してなければ良いとそれだけ思った。
アルフレッドは目を丸くして、それからムッと顔をしかめた。やっぱりだめかなと諦めているとため息混じりに外される。

「仕方ないからね」

はい、と手渡されて歓喜を顔に滲ませながら掛ける。度はぴったりだ。ディスプレイを見るとぼやけていた字が鮮明に浮かび上がっている。

「サンキュ。よく見える」

アルフレッドに笑いかけると変な顔をされた。

「やっぱ返せ」
「は?」
「似合わないよ眼鏡。壊滅的に」
「ああ?似合う似合わないより機能性だろ」

誰の前に行くわけでもない。自分が疲れなければそれで良いのだ。そこでアルフレッドの頬が少し赤いことに気づいた。

「どうかした?空調キツいか?」
「違う、から放っといて。…くそ」

そう言ったアルフレッドが忌々しげに舌打ちする。本当に掴めない。どう扱えばいいか誰か教えてくれないだろうか。

「…君さ、頭いいんだろう」
「え」

突然話しかけてこられて間抜けな声を出してしまった。アルフレッドが依然厳しい顔のままこちらを見据える。

「俺のカテキョしてよ」

予想外の申し出に固まってしまった。家庭教師?俺が?
それより何より、柄にもなく心配になる。

「お前勉強苦手なのか?きちんとした家庭教師の方が、」
「金なんてかけたら勿体ないだろう」

けれど予想外の返答を即答される。そんな理由かよ。そう思うとガクリと力が抜けて、何だかバカらしくなった。なかなか適当だ。

「…分かったよ」

アルフレッドを見ないまま呆れまじりに笑う。利用したいならすれば良い。一緒にいる時間が長い方が打ち解けると言うものだ。

よろしくね、と言ったアルフレッドの声は心なしか掠れていた気がした。









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