黒椿ヱレキテル








 祭囃子が遠ざかる。

 限られた季節、いくつかの爪痕をのこして、彼らは何処へと行くのだろう。






「タイヘンタイヘン! タイヘンざんす〜!」

 ひっそり閑とした木造平屋に、ぎんと切り込むような声が通った。立て付けは良いが少々重たい引戸が開閉され、どたどた駆け込んでくる音が耳を打つ。
 勢いが過ぎたのか濃茶色のべんがら格子もかたりと揺れ、ほそく取り入れられた赤い夕陽が僅かばかりぶれる。夜の帳が下りつつある事に今更ながら気がついた。
 手元の診療録を裏へと返して所々ペンキの剥がれた木製扉に目をやると、曇りガラスの向こうに特徴的なシルエットが映り込んだ。真鍮のドアノブが回されぎぎいと開いた扉から、常連の男が滑り込んでくる。キザったらしい見てくれと、汗を拭う青い梅の染め柄がこぼれた清楚なハンカチの組み合わせが、成程いかにも似非っぽい。
 訊ねずとも話してくれるのだろうが、此処は診察室だ。平時の通り、私は決まり文句を口にした。

「今日はどうされたんです」
「ドーモコーモ大変ざんす! 久方ぶりに“出た”ざんすよ、センセ!」

 実に27年ぶり! と、聞いただけで既に予感はあった。腑に落ちない知らせだ。なんでまた、今になって。
 顔色の悪さから明らかに歓迎されない話だろうと察せられるが、患者用の丸イスをがらがら引いてきたイヤミには、数瞬の間だけ寄せられた私の眉間は見えなかっただろう。
 月に一度、こうして何故だか診療時間外にバタバタと此処を訪れては雑談に興じて帰っていく常連が、堰を切ったように喋り出す。

「今回はなかなかムゴイざんすよ。“首だけ”落っこちてたざんす。赤塚神社の裏手にある一本松の根元に、ごろんっと」
「……そりゃまたバチ当たりな」
「普通に評判のいい青年だったざんすよ。まっ、運がなかったざんす」

 おーコワッ! と自分の両肩を抱き締めてぶるぶる震える常連に、用意していた湿布薬を手渡す。暮れ泥む小さな診療所は物淋しくも、地松を黒塗りした梁の木目は温かい。そこに掛かった振り子時計をちらと見て、私は続きを促した。

「すると現場は火事みたいな、上を下への大騒動?」
「と言うより、おっかなびっくりのお祭り騒ぎざんす。久し振りな上にここまであからさまにコトが起こったモンだから」
「今までずぅっとナリを潜めてたのに、いきなりどうかなコレ? って?」
「そんな塩梅ざんす。さっきまで神社の前は都会のケーサツと野次馬でごったごた! やれ検問がどうのとか、ムダムダざんす」

 どうせまた妖怪のしわざざんしょ。神経質そうに切り揃えられたヒゲをびよびよ引っ張りながら、うんざりした顔で常連はそう言った。

「春先とはいえまだ寒いですし、機嫌でも損ねたんですかね」
「さァ?」
「首だけ残して、ってのもねぇ。存外、花のような妖怪さんで、気の毒な彼にめろめろうっとり〜とか」
「雨も風も食わないジョーダンやめるざんす。なんにせよ、センセーも今日はさっさと帰った方が身のためざんすよ」
「どっこいそうもいかないんだなァ。って、そちらこそ大丈夫ですか?」
「ミーは悪運だけは強いざんす」
「ならお返しにひとつ。都会のケーサツさんに呼ばれてましてね、これから“首だけ”さんの検死です。胸が痛みますね」
「シェッ! 白々しいざんす。人間結局変われないモンざんす」
「流石の説得力ですねぇ」
「しかし何でまた」
「人手不足だとか」
「お祭りでもやってるんざんしょ」
「さァてね。そんじゃあぼちぼち出ますかねぇ、っと」
「シェ〜〜〜〜ッ! ならオイシイ裏話をたっくさん持ってきてちょーよ! センセ!」
「おっと心配されてなかった」
「話のダシが欲しかっただけざんす」

 やおら立ち上がりさっさと帰って行った常連を見送りながら、べんがら格子の向こうを見た。話し込む間にすっかり夕陽が落ちている。
 これは作り置きしたカレーをかき込む時間もないだろう。診療所の引戸に鍵をかけて、念のためにと臨時休診の札をぶら下げておく。歩き出せば、だいぶあたたかくなった夜風から春の薫りが流れてきた。

 さて、結論から言って検死の結果は実に気の毒なものだった。見るも無惨な“彼”の頭部は首から下を喰い千切られており、頚椎が裸電球の紐のようにぶら下がっていた。
 脳天をカチ割られたのかという程に顔面から頭髪まで赤黒く、しかし骨が妙に白く綺麗であったのは、首を逆さまにして頚椎を“しゃぶった”ためだろう。椰子の実に挿したストローを吸い上げる要領だ。まさか潜り込んだわけではないだろうが、中身の脊髄がなくなっていた。どういうメカニズムだ。
 しかしこれが何の仕業であれ、このまま普通に捜査が進めば歯形や唾液からアシは付くだろう。私は私の仕事を粛々と済ませて、いざ帰り道。これが大人の甲斐性だ。

 長閑な田んぼ道を行く。今はまだ溝が掘られているだけだ。少し経てば、思わず寝っ転がりたくなるような美しい緑がさらさらと揺れるのだろう。
 その先で件の神社と一本松はテープで囲われていた。すべてが起こりすべてを見ていた古木の思うところは、私には知り得ない。
 畦道が終わり、町並みを歩きながら顔を上げれば、紫の空がじわりじわりと明らんでいく。今回は流石にげんなりする案件であったし、疲れた。往復が。帰ったら全力でカレーをかっ込んでバタンキューだ。

 そんな事を考えていたら、途端にコロンコロリと何かの転がる音がした。立ち止まる。と、同時に丸っこい塊が落ちてくる。

「夜勤済んだ!?」

 首だ。
 私の目の前。いやさ足元。ぽぽんぽぽんと跳ねながら、首がすこぶる明るく話しかけてくる。

「……どうかね。つーかそちらさんがくれた夜勤ですけどね」
「ツケといてよ!」
「とりあえず帰って寝たいんですわほんと」
「カレー鍋超美味かった!」
「ウソだろ十四松さん」

 寝ぼけた目を凝らしてよくよく見下ろすと、けらけら笑いながら開いた口元が絶望的なほど黄にまみれていた。

「はい! 十四松です!」

 この町に神は不在だ。いるのはヒトと、そうでないモノ。
 松野十四松。
 不運な男を“首だけ”にした人外。
 「つるべ落とし」と呼ばれる妖怪である。

 古き良き赤塚の町には、ヒトならざるモノがいる。
 食卓の飯が失せていた。道端で歌っていた。山で呻き声が聞こえた。目が合った。笑いながら転がっていた。ひたすら数えていた。紳士から助言をもらった。酒屋の何某さんがいなくなった。かと思えば腕だけ見付かったとか云々。
 ちょっとした失せ物から人死にまで、あらゆる怪異は「妖怪のしわざ。いつものこと。まぁ仕方ないよね」――それが日常に染み込んでおり、じゃあ誰がはっきりと妖怪を見たのかなどと問う住人もいない。
 外から流れてきた私にとって、此処はとてもおかしく、異様で、とても面白い町だ。そしてこの、カレーとの別れを惜しみながら茹でた蕎麦すらもごく普通にすすっている“首だけ”の彼もまた、とてもとても面白い。

「いつもより食べますね」
「食欲大爆発ー! かっらぁぁー!! 爆弾!? ボゥエエエエエ!!」

 耳と口から火を吹きながら首がゴロンゴロン転がり回る。多少の制裁はあって然るべきだろうと、一味唐辛子をしこたま盛ってやったのだ。ささやかな謀反戦だ。

「そんで喰ったんでしょ、彼」
「あ! なんか炭出てきた! 人骨!?」
「うっちゃれそんなもん」
「この蕎麦うっめーね! ナルトも入っていたれりつくせり!」

 ぽぽんちゅるちゅると跳ねるすする賑やかな首に悪意の類いは命中しない。そもそも会話を回すのが至難の業だ。

「押しても引いても遠投しか返ってこない……」
「あれは仕方なかったねー」
「スタンドプレイ大いに結構。ですけども、前フリすっ飛ばすのは勘弁してくださいよ。あれだけ本人が“残る”と権力を抱き込むのも面倒です」
「僕も相当だけど先生も大概だよね!」

 ずぞぞぞぞ。すっきりとした木目のちゃぶ台に乗った十四松さんは、首から生やした手で器用にどんぶりを傾けて、まだ湯気の昇るかつお出汁のつゆを飲み干した。そのままハマりそうな絵面だ。
 話の流れで、兄弟も両親も留守にしているという松野家の台所を勝手に借り受けてしまった。つい先程までは「カラ松兄さん」がいたらしいが。
 何にせよ、蕎麦を使わせてもらったお返しを考えておかなければ。しかしながらこの件は流してもらっては困る。

「うまかったー!」
「お粗末さまでした」
「ごちそうさまでしターッチアップ!」
「ちょいとお待ち十四松さんよ。で、なんで喰ったんです、彼」
「えーっとねーえ……お詣りしてた! 診療所の先生に想いが伝わりますようにって」

 は。

「……いや、面識ありませんよ」
「一目惚れって健全でしょ。とっても普通! あの神社に神様なんていないけれど、彼、足繁く通ってたんだよ」

 コロンコロリ。卓上のどんぶりや薬味の入った小鉢を気にもせず(咄嗟に私が避難させた)、十四松さんは真っ直ぐ私の前まで転がってきた。落っこちそうだったのでそのまま両手で持ち上げてやる。
 本人は身軽だと言っているが、頭部はそこそこ重い。質量の話ではないかもしれないが。
 しかし、まさか、めろめろとろとろうっとり〜の先は私か。好意を寄せてくれていた人がこの首に――知らなかった事だけに夢見が悪すぎる。
 思わぬ真相に腕が強ばり、十四松さんを抱っこするように腹へと押し付けた。

「そういうの全っ然関係なく、たまたま松の下で強盗に遭って殺されちゃったんだよねー! 喰べたのはなんとなく!」

 関係なかった。不運が加速しただけだった。しかも単なる強盗殺人で済んだものを気まぐれで「妖怪のしわざ」にしてくれたのか、この首は。

「……すごくドッキリしました。え、十四松さんそれ冤罪ですよ。世の妖怪さんにデッドボール」
「ついカッとなってやった……」
「猫目になってもダメです。ちゃあんと後始末してもらわんと」
「ねぇねぇこれ! 頭あたってるコレぇ! もしかしてアレぇ〜!?」
「あててンですよ」
「処す? 処す?」
「だから頼みますよほんと」
「ウィー!」

 明朗快活な返事をしながら十四松さんが両手から転がり落ちる。そのまま畳んで置いてあった私の白衣に突撃して「はんぺん!」からの白いモノボケ六連発が始まった。

「強盗さんの特定は出来ますか」
「匂いと顔は覚エンタイトルツーベース!」
「十四松さんそこ外野席じゃないですバックフスマです。あーあ綺麗に空けましたね……」
「ただいマッスルマッスルー! ハッスルハッスルー!」

 あちこちぐるぐるしていた白衣球の十四松さんを手元でころころ遊ばせながら、私は件の強盗さんとやらにご退場いただく算段を立てていた。怪異渦巻く此の場所に、ヒトの手による不条理な所業は必要ない。
 その事実もまた、明るみに出る必要はない。



「……結果的に十四松さんが気の毒な彼を喰ったのは幸い? そもそも、判っててやりました?」
「そうなの? とんだマッチポンプだね!」
「喰えないなぁ」

 私と十四松さんは共犯者だ。
 いつ電源がぶっこ抜かれるかもわからない、すでに戻れない帰れない、時限式の発電装置のような間柄。
 へらへらおどけた風な十四松さん――妖怪「つるべ落とし」の需要に、私が供給する。ヒトを喰らいたいという欲求を可能な限り平和的に満たせるよう、私が手段を講じて現物を提供する。
 モラトリアムにしがみ付く私――医者の皮を被ったヒトの需要に、十四松さんが供給する。唐突に降って湧いた人外がもたらす非日常を少しでも長く愉しめるよう、十四松さんがヒトを喰らう時は私を呼ぶ。

 立場上、私はヒトの生死に近い。生きている間は私も役割を全うするが、ヒトにその時が訪れた後は、火葬されるより先に十四松さんを呼ぶ。
 我ながら、およそこの世に要るとは思えない所業。倫理も美学もばらばら。
 電源が落ちる日はどうあっても訪れるだろう。
 少しもじっとしていない十四松さんが天井にめり込むのを眺めながら、私は何とは無しに、転機となった日を思い起こした。

 世にも変わったモノが見られるかもしれない。との話だけを頼りに流れて来る程度には、私は退屈していた。
 夏の盛りだった。魂を揺さぶる歌もそのうち遠くなるとわかっていた。

――ホエ〜……気持ちはわからなくもないだス。でも退屈なのは、それだけ平和だってことだスよ。
――そりゃあ、そうなんですけども。
――不服そうだスなぁ。
――退屈に殺される前に、少ぉーし、ね。面白くしてやりたいなぁって。子供心は変わらなくてもいいけれど、環境くらいは、って。思っちゃうんですよ。
――ホエホエ〜……だったら、わスの町に来てみるだスか?
――デカパン博士の?
――退屈はしないと思うだス。ただし“彼ら”との付き合い方を間違えてしまうと……

 どうなるかわからない。

 そうして、考えナシに私は動いた。結果それでどんな事が起きたとて、きっかけをくれた上に以前の町医者が使っていた診療所の賃貸しまでしてくれたデカパン博士には、感謝の念に堪えない。

 そうしてゆぅるりと時間が流れ、望んでいた環境の変化は唐突に訪れた。あれはまだ錦秋のころ。
 田舎ながらの小さな診療所が、ほんの少しだけ土地に馴染みはじめた頃だ。

 休診日の真っ昼間に「たぁのもー!」と、病人らしからぬ声が響いた。何の看板を獲りに来たのかと引戸を開けてやれば、足元に首がいた。
 そうと認識する間もなく、畳み掛けるように「十四松です!」と自己紹介をしてくる。
 真しやかに囁かれる人外は玄関から普通に訪れて来るのかと、仰天を周回した頭は冷静だった。

――相談があります!
――……まァ、どうぞ。冷えるんで。

 びょんびょこ跳ねる首にそう返した時の私は、十四松さん曰く「トッティみたいな顔だった!」そうだ。全くわからないが、外ヅラにめちゃくちゃ出ていたらしい。

 “首だけ”の急患、十四松さんの相談内容はこうだった。

――今はうまいもんいっぱいあるから、そうでもないんだけど、どーしてもガマン出来なくなる事があるんだー。チョロ松兄さんが言ってたように、なるべく殺さず喰べるにはどうしたらいいかなぁ?

 まず前提条件から破綻していたため、渋みのある秋摘み茶を出しながら差し障りのないよう、なるべく殺さず云々のくだりから突っ込んでみたところ。

――屠殺は罪にならないって一松兄さんが言ってた!

 これはダメなヤツだと即断した私は、ひとまず常備していた落雁を十四松さんに与えてその場はお引き取りいただいた。秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、こうして私は十四松さんと遭遇したのだ。
 さてどうしたものかと悩みながら帰路に着いた当時、そう、私は私自身を、そこそこ落ち着いたもんだなぁと分析していた事を覚えている。

 要はとんだ見当違いのパッパラパーだったわけだ。本能のままにヒトを喰らいたいと相談してきた人外を帰したらどうなるか、私はこれっぱかしも考えていなかった。
 奇妙奇天烈、摩訶不思議の存在と顔見知りになった事と、非日常が訪れる予感とで浮かれていたのだ。(実際、望んでいた非日常はやってきた。報われなかった数奇な人であると私が彼に評されるのは、もう少しだけ後の事だ)

 十四松さんと出逢ったその日の夜、私が見たモノと同じモノを、同じ場所で。

――それ。そんなにイケるんですか。
――参るよね、全然やめらんない!

 現在の私もそれを見ている。

 ひら。はらり。
 桃の花弁が頼りなさげに舞っている。山の何処かで桜が咲いたのだろう。愛でられる間もなく早早と散ったそれが私に届く事はなく、夜露で湿った地べたに落っこちた。
 いよいよ生い茂る弥生とは味わいに富めど、やはりまだ夜は冷える。

 ぱきゃ。にちょり。
 十四松さんが不運なヒトを屠り喰らっている。手を出さなければ無害だろう彼の、欲を満たすためだけの行為だ。
 一体全体どんな顔をしてそれを咀嚼しているのか、残念ながら私には窺い知る事が出来ない。松の木には神様が降りてくると伝え聞くが、此処に棲むのは通りがかったヒトを喰らう妖怪だ。
 高い高い松が枝に棲まう人外と、地べたから見上げるだけのヒト。この一本松が私と彼との境界だった。

「先生ー! 呼吸を止めて1秒ー!?」

 やっている事の中身にそぐわない賑やかさで、十四松さんの声が降ってくる。あちらからは私が見えているらしい。

「あー、春のセンバツ始まりましたね……そんなに真剣に見てましたか、私」
「見つめる系ヒロインならCR泪姉さん!」
「愛ちゃん導入待ったナシ」

 見上げながら話しかけるも、やはり十四松さんの姿は伺えない。この町で強盗を働いた不運なヒトを見舞った凶事は、夜の暗がりに伸びる枝の向こうだ。

「それにしてもすぐ見付けたよね先生。レンタルされたの?」
「いや売っても貸し出してもいません。ミスター・フラッグの仕事が早かったおかげですよ」
「特定したじょ〜!」
「見えませんが似てる。まァなんでも、情報提供者に懸賞金じゃなく現物支給したとか」
「在庫抱えてたんだ」
「ニッチな企画で有名なレーベルの極少パッケージだそうで」
「さすがのハタ坊! 売れる商材ヒネり出してくるねー」
「ぜーんぶ松野さんちのご長男が持ってったそうな」
「世間は狭いね!」
「狭いですねぇ、十四松さん。ちなみにそのヒト、前科がなかなか……」

 つと、二粒三粒のしずくが私の顔と白衣に滴り、咄嗟にその場から一歩引く。直後、胴体をなくしてすっかり身軽になった生首がぼとりと地べたに落ちてきた。
 私はそれを持ち上げて、一本松の根元に掘っておいた穴の中へ置く。不運な彼は我が身に起きた一切を知らぬまま、その奸悪そうな双眸を閉ざしていた。(十四松さんなりの礼法だそうだ)

 赤黒く濡れそぼった首を、落ちた寒椿のようだとこぼした、かの日。その色に魅入られた私は、遭って間もない十四松さんに「また見に来てもいいですか」と、酒で浮かされたように乞うた。
 次も、さァさ次もと、欲して半年あまり。沼の奥底と言うには狭く心地よい脳裏の茶の間で、享楽に耽る時間はどれだけ残っているのか。

 冬枯れても葉を落とさず、どっしり構えた太い幹に藤蔓が絡み付いている。春を過ぎたら、千歳緑の松の葉にしだれる野田藤が見られるのだろう。

 置いた首の上に土をかぶせ、形ばかりの黙祷を捧げる。本来の意味は持たない。

 ねんねんころりよ。おころりよ。

 一場の春夢で五臓も脳髄も煩っていたいのだと、ただただ冀求する。

「夜勤済んだ?」

 閉じた目蓋の裏からあの色が消えた。赤く黒く心地のいい暗がりに明るいばかりの光が刺さる。
 視界が高い。満月が近い。背中が熱い。冷えた風が流れ、先ほどまで見上げるだけだった松葉が目の前で揺れている。

 引き上げられた、と理解した。

「……十四松さん?」

 彼以外に有り得ないが、今ばかりは自信が持てなかった。抱き枕にでもひっ付くように、私の後ろからヒトの腕と足ががっしりと巻き付いている。
 肩に置かれているのはいつもの顔だろうか。本音なんだか建前なんだかわからない、あのズレた目は見えない。

 体、あったのか。つるべ落としなのに。

 一本松のおそらく一番上。乞い焦がれた場所、妖怪の棲み処。足場はなく、ミノムシのようにぶらぶらと揺れている。十四松さんの両腕はここにあるのに。
 などと考えながら私は待った。

 ややあって、春先の寒空によく通る声が聞こえてくる。

「これってお祭りなんだよね」

 俺たちの「先生」の。

 私の知らない静かで落ち着いた声色が、言い聞かせるように染み込ませるように伝えてくる。
 ああ、ああ、わかってしまう。知ってしまう。
 いいや最初から知っている。この感覚はよォく知っている。

「最初は俺も、俺たちも、なんでかなーって。物珍しくても代わり映えはしないのに。でもこれが始めてみたら楽しくってねー! 不条理? ナンセンス? 気にしない気にしなーい! これでいいのだ! ってもう夢中!」

 これは終わりだ。たのしいたのしい祭りの終わり。 季節の変わり目に必ず訪れる、何度も何度も味わう不条理。私は“このまま”が続いてほしいのに。
 叶わないと知っているのだ。強請ったっていいじゃないか。

「俺は毎日楽しいよ! 最初から俺の話聞いてくれて、あったかいお茶くれたのスッゲー嬉しかった!」

 回された腕と足にぎゅうう、と力が入り、後ろから十四松さんが頬をすり寄せてくる。ぬいぐるみにでもなった気分だ。
 あたたかさで胸に潜む郷愁を押し込める。私は十四松さんの顔を見なかった。
 松の葉の上に出ている大きな満月が、明るく黄色い光で照らしてくれる。十四松さんの服の袖と同じ色だ。

「だからね、好きになってくれたのが、おそ松兄さんや、みんなの色だったらなぁって。そうしたら」

 ぼとり、ぼとりと落ちる赤黒い非日常ではなく。例えばいつぞやの赤日だとか、青梅の染め柄だとか、田園の緑、朝焼けの紫、桜の薄桃。

 日常にありふれた色を、キミが気楽に愛してくれたなら。

「友達になれたのにね」

 ああ、私は。付き合い方を間違えた。申し訳ありませんね、博士。
 十四松さんは異常の共謀関係なぞ望んじゃいなかったのだ。

「特別な時間とか、深い意味だとか、そういうんじゃなくて、普通に野球したりおでん食べたりして一緒に遊びたかった!」
「……十四松さん」
「あわよくばセクロス!」
「十四松さん?」
「本番アリの触診とかしてくれるんでしょ!?」
「十四松さん……」



 ヒトを屠る共犯者ではなく、ただの友達としてこの半年間を過ごしていたら。人外としてではなく、松野十四松自身を知ろうと歩み寄っていたら。
 もっと仲良くなれて、もっと楽しかったりしたのだろうか。もう終わってしまう今からでも、少しだけ変わることは出来るのだろうか。

 変わる。変わる。私が?

 いいや、人間は結局変われないと嫌味な常連は言っていて、私も、まァ、ご期待通りだろう。

「ねぇ、十四松さん」
「あタッティ!?」
「あたっ………はは」
「!」

 つるべ落としは、ヒトを松の木の上に引っ張りあげて喰らう妖怪だ。どこを取っても史上最悪の幕間だろうに、笑いが込み上げた。
 何を変わろうとする必要があるのか。頭だけの生き物だった奴でさえ下半身で生きている。

 悪意のひとつふたつ曝け出したところで、十四松さんは胃の腑に収めるだけだ。そうそう、そのまま。咀嚼しかねて消化しかねて、扱いを決めかねてぐるぐる悩んで溜まって溜まって。
 泣き喚いてください。笑い飛ばしてください。
 泣けど笑えどおんなじなら、お互いバカのままでいましょうや。

「好きですよ」
「俺、応えられんないよ」
「何期待してンですか」
「えっ」
「それですよそれ、その顔」
「この顔」
「十四松さん結構顔に出るから」
「へぇー。でもさ、俺が今どんな顔してるかわかんの?」
「さあ」
「気にしないんだ」
「気にならん事もないですけど。見ましょうか?」
「やめた方がいいね。俺、今ひっどい顔してる!」
「とどのつまりは?」
「発禁モノ!」
「そりゃあ見るしかありませんね」

 黄色い満月を視界から外す。見返れば、口を閉じて私を覗き込む十四松さんの両眼がゆったりと細められた。小癪な顔しよってからに。

「気は済んだ?」
「いいえ」
「そっか」
「ねぇ、十四松さん」
「なぁに?」

 袖口が少しだけ冷たく重くなる。コレ、さっき切るのに使ったんですがね。

「次、何して遊びましょうか」
「次は遊べるといいね!」

 ぶつり。夜が切れる。さてはて、その人はどんな顔でどんな色をしていたっけね。






 祭囃子が遠ざかる。

 限られた季節、いくつかの爪痕をのこして、はじまりから此処にいた彼らは何処へも行かないのだろう。

 ずうっと此処に、居るのだろう。

 斯くして、人外とヒトの寸劇は仕舞いとなる。

 どんとはらえ。