真夏の産声






 煤けた蝋に麻痺しきっていた鼻が薬味の匂いを嗅ぎ当てた途端、正直なもので胃がぐるぐる鳴った。なるほど口の中にも水分が分泌されるのであったとまる一日ぶりに思い出し、ふらつく頭で台所を向くと、六畳間に生じた陽炎のただ中、男が膝から崩れ落ちるのを見た。男は全裸だった。
 床に倒れ込んだ男は、しばらく眺めていても動く気配がまるでなかった。たかだか六畳間。仕方がない四つ足でぺたぺた這って近づくが、煮え立つ鍋に似て熱気がこもる室内では、足元が板張りからタイル張りに切り替わるまでに砂漠越えの途方もなさを感じるのである。
 ようやく件の男一松の元に辿り着いたが、揺り動かす前にふと一抹の不安が過り、シンクに指を引っ掻けグッと背筋を伸ばしてコンロを覗き込んだ。――アッツイ!  眼前に迫る青色の炎に前髪がぶわりと膨らみ、焦って火を止めるとびっしょり濡れた額からぱたぱた汗が零れ鼻筋を伝って唇がしょっぱくなった。
 あーぶなかった。色々と。
 ところでフライパンの中にはレバニラ炒めがあった。一欠片指でつまんで口に入れると今度こそ期待通りの塩気が舌に広がり、皿も箸も出さずにすっかり平らげてしまえば元気がでていくらか正常になった気がした。

 そういえば、と一松のことを思い出す。
「一松、ご飯」
 床に沈んだ一松の頬をぱちぱち叩くと、不明瞭な呻きが返った。瞼はぴくぴく震えるばかりで開かず視覚が機能していない。仕方がないので両脇に手を差し込み、どっこいしょと持ち上げる。が、すぐに重力が戻ってきて、猫みたくぐにゃりとしなだれかかってきた。ぺたりと張り付く肌はひんやりとして、ぬるくなった保冷剤、みたいな。これがキングサイズの保冷剤であればウォーターベッドよろしく飛び付いて寝てしまいたいところだが、そうではないし、全裸だし、成人男性一人の重さは結構なもので、ぜいはあ体勢を整えて背中を叩いた。
「一松、ご飯だよ」
 死んだように垂れ下がっていた手が、母を探す迷子のように腰の辺りをさ迷った。すんすん鼻を鳴らして肩口に顔を擦り付ける仕草は、まだ目も開かない赤ん坊がミルクを探すのに似ている。肩口に押し付けた唇がもぞもぞ躊躇っていたので背中を撫でて促すと、眠りの中で長く溜め込んだ息が鼓膜を震わせ、ねとりと熱い舌が皮膚に押し当てられた。
 あー、くる。
 アルマジロが身を守るよう反射的に体をこわばらせたが、皮膚は紙みたくブチッと容易く突き破られた。――ああーだから寝起きはダメなんだ遠慮ってもんがない待って痛い痛いおいコラ一松――ぶよつく皮膚に爪を立てたところで離れやしない。こうなってはもう大人しく吸血行為を受け入れるしかないのである。

 一松は吸血鬼だ。
 吸血鬼といえば人を魅了する美男美女というのが定説だが、一松は期待を裏切る感じに既成概念に風穴を開けた。
 平たい日本人顔、髪はぼさぼさ、上半身と下半身を繋ぐ境は赤ん坊のように寸胴である。体温調節が苦手で、暑くなるとすぐに脱いでしまう悪癖をもっている。生まれてこのかた――以前からの生粋の糞引きニート。吸血鬼というとなにか高貴なイメージが漂うが、せいぜいアンニュイな雰囲気が漂うばかりで緩慢な動きには優雅さの欠片もなかった。
 人の肩に顔を押し当ててじゅるじゅるしていた一松は、食事を終えてのっそり体を持ち上げた。こちとら流血沙汰の痛い思いをしているのだ。「おいしかったよありがとう(ハート)」くらい言われてもよいのではと思わなくもないが、眉根を寄せてへの字に曲げられた口からハートだの音符だのが飛び出す気配はこれっぽっちもない。
「口当たり悪い」
 ぼそ、と呟かれた言葉に、ほう、と目を細めた。
「泥水みたいな喉越し……。ビタミンとかとったほうがいいんじゃないの」
 車にも積載忠告の音声機能がついている昨今、血液ソムリエたる一松氏は食事の度にこうしたアドヴァイスをくれて、よりよい血液を流す手助けをしてくれる。
 舌に引っかかるからやれビタミンをとれ苦味があるからやれ果物を食え、言って用意しないなら作ってやるからそこで待てと、日に一度食事をとれば上々だった私の生活は、一松により幾分か健康で文化的に改善された。
 無論吸血鬼を匿う時点で健全も糞もないが、私ときたら収入が不安定で健康管理がガバガバだ。
 蝋燭と革を使った小物作りにたまのバイト。都会で食い繋ぐには生活費を削るか無心で製作に没頭するかというところで、血を与えることに関しては「無料で血液検査できるならいっかな〜」と一松には言っている。一松が「正気かこいつ」という顔をしたのも覚えている。

 アトリエ兼住居として住まう築四十年の貸家に、一松と暮らしはじめて十ヶ月ばかり経つ。「吸血鬼と同居なんてはじめてで……」と不安もあったが、蓋を空けてみれば主食が血液というだけの糞ニートを飼えばいいというだけの話。陰気だし、皮肉がうるさい時もあるが、食費はかからずたまに家事もしてくれるので犬猫よりもよほど良いペットではと思わなくもない? ような? そんな感じ。
 
「そういえばご飯おいしかったよ、ありがとう」
 語尾にハートをつけてこれ見よがしに礼を言った。一松は眉根も口もきゅっと結んで皺をつくり、「別に」だの「大したことない」だの蚊の鳴くような声でぼそぼそ呟くのに、紫の目の奥がじわじわ喜色ばんでいた。
 一松はいつもこんな調子だ。
「ほら一松、ばんざいして」
 脱ぎ散らかしたTシャツを引き寄せて襟口を広げると、一松は素直に手をあげた。パンツとズボンは自分で履けと押し付けると驚いた顔をされたが、それこそなんで? って感じでスルーしつつ、外出用のボストンバッグを引っ張り出した。
「どっか行くの」
「商談。友達のツテでね、カフェに作品置いてもらえそうだからサンプル持ってくの」
「エアコン壊れて蝋が固まらないだのなんだの言ってなかった」
「それとはまた別。夜は幾分かマシだろうし、造形が必要なのは帰ったらやるよ」
「……あ、そう。自営業ってのはたいへんですね。いってらっしゃい」
 と言いながら一松がまとわりついてくる。
 ボストンバッグに商品を詰めていると、上から覗き込むみたくしなだれかかってきて、うだる暑さに垂れ流しの汗を、皿にこびりついたソースを舐めとるみたく長い舌で浚っていく。
「くすぐったい」
「僕の唾液、虫除けオイルみたいなんで。こうしとくと蚊が寄ってこないの」
「へえ、すごい」
「瓶詰めにして売ったらイベントで大人気でんな」
「すごーい」
 一松がヒヒ、と笑うので雑にノッて返す。雑な話で時間を稼ごうとする。
 ボストンバッグのファスナーを閉めてパンパンと形を整えると、一松の手が緩んだ。立ち上がると絡めた両腕がぶらんと落ち、諦めたような醒めきったような目で私を見上げる。
「どこまで行くの」
「赤塚まで」
 小高い台地の平坦な場所にひらけた赤塚は、新宿まで快速で十五分足らずの好立地にあり、商業施設と住宅街が近い忙しない街だ。昭和後期のサイケデリックな色合いの建築物が点々と聳え、過去と未来を交互に積み重ねている。
 生まれも育ちも赤塚である一松にとって、複雑な配線染みたその街はよく知る庭らしい。路地という路地に猫の形をした情婦がいて、毎日のようにぶらぶらと遊び歩いていたという。
 赤塚からたった一駅離れた土地とはいえ、今ではかつての友達に会うのは難しく、かといって新しく友達を作るでもなく、一松はいつもこの部屋で退屈そうに過ごしている。
「お土産はいる?」
「あー……駅北のメンチカツ? 横丁のみたらし?」
「食べないでしょ。行ってきます」

 外に出ないことはわかっているので鍵も渡さず玄関に向かい、ドアを開けた。夏の暑い、しかし室内よりも乾いた空気に目を細めると、淀んだ室内の空気ごと未練たらしい視線が背中にへばりついているのに気づいた。
 どうしたのと目で訊ねてみせても、一松は知らんふりして眠たげに欠伸をした。そのままぱたりと横たわり半目で見送る、扉の先も出掛ける私も、何も見ようとはしないあの感じに、ちくちくした抗議が含まれている。
「なるべく早く帰るね」
 だからいいこにしていてね。
 そう言ってやれば無表情ながら、少し安堵したようにこくりと頷く。

 赤塚駅南口を出て駅前の繁華街を抜け、公園通りを進む。階段を下る手前で西に曲がるとモダンな街並みが続き、路地に入ってすぐのカフェは真新しい白木の壁がいかにも清潔で明るかった。店内にはオフヴォーカルのボサノヴァが流れ、ざらりとしたソバガラ色のエプロンつけた店員が、くるくる動き回ってる。インド綿、麻、オーガニック、ナチュラル志向、雑誌で言うならリンネル――そういう店。
 友達のツテと言えば話はすぐにまとまり、早々に切り上げてそのまま中で一休みした。一松の小言を思い出したので有機オレンジ果汁のジュースを頼んだ。

 まだ陽は高く太陽はギラついているのに、カウンター越しに見る向こう側の青々とした梢は、木漏れ日を漏らしていかにも爽やかだ。夏めいた空は夜型の目に眩しい。
 間もなくお盆を迎える。連休に入ればこの辺りの往来も割増しになり、客商売は書き入れ時になる。
 毎年この時期になると避暑地で野外イベントが開催されるが、今年は「ちょっと面倒みないといけない子がいまして」と出店を見送った。出店の度に車を出してくれる商売仲間は濁しに濁された子の存在にしばし文句を言ったが、連絡がこなくなったのをみるに代わりの女の子を見つけたのだろう。めんどくさいともう見切られて二度と連絡はないかもしれない。

 行き交う人々の群れを眺めていると、見覚えのある男の横顔を視界の端に捉えた。えっ、なんで。と一瞬ぎょっとして席を立ちそうになったが、ふとこちらを向いた男の目はくりっとして木の実のようにまるかった。ああ、なんだ。"アッチの"松野さんだ。
 
 ガラス越しにこちらの心情は見えないのだろう。松野さんは目の端をやわらかくすると、ひらひら手を振ってカフェの扉を開けた。ツレがいるとでもやり取りしているのか、店員と話をつけにこにこ近づいてきた。
「ナマエさん久しぶり。元気だった? 寄るつもりなかったのに、姿が見えたからつい入っちゃった。隣、いい?」
「うん、どうぞ」
 断る理由もなかったので促すと、松野さんはやったぁと言葉尻を高く伸ばして椅子を引いた。メニュー表の新作からチェックしてケーキセットに迷う姿勢は、成人男性というよりも女子大生然として、うちの松野さん――一松とはまるで違う。

 松野さんと一松は六つ子の兄弟だ。一卵性らしく形作るパーツのひとつひとつはよく似ていて、三ヶ月ばかり前にはじめて松野さんに出会った時は、先程の比でないくらいに驚いてつい声を掛けてしまった。
 松野さんは言葉巧みで女性の扱いに慣れ、なんやかんや、指折り数えてみればお茶をするのはこれで四回目だ。自営業らしくアンテナをはり松野さんの話題を商売のアテにしていることもあるが、一松との差違を探すのも興味深いとつい話し込んでしまう。

「こう暑い日が続くとやんなっちゃうよね。うちにいても暑いから、図書館でも行こうと思って外出てたんだ」
 松野さんはハットを脱ぎ、ぱたぱた手で仰いだ。少し甘めで、万人受けする清涼感のある香りがふわふわ漂う。ワイシャツの襟は隅までピシッと整えられていて、キチンと感を出しつつ袖をまくっているのはヌケ感というヤツだろう。ハットのリボン、ネクタイ、スリッポンと差したピンクが親しみやすい。
 じっと眺めていると、松野さんは人好きのする笑顔を作り真っすぐに見詰め返してきた。
「ナマエさん、可愛くなったね。顔色とか肌艶もよくなってるもの。……ひょっとして恋でもしてる?」
「まさか。食生活がまともになっただけ」
 ぱたぱた手を振り首をすくめてみせるも、松野さんはほんとかなぁと口に手をあて、少女のようにくすくす笑った。かと思えば流し目をくれて、意味ありげに口角をあげてみせる。
「でも、何か転機はあったわけだよね。女の子っていいことがあると変わるからすぐにわかっちゃうよ」
 松野さんは、毛先を三センチ切ったりネイルを変えたらすぐに気がつくタイプだ。こちらが気を回して頭を働かせなくても、至れり尽くせりに女の子をもてなしてくれる。こういう人は放っておいても人の輪の中にいるもので、一人でも生きていけるんじゃあないのかな。
 どうかな、と私はむず痒くなった首筋を掻いた。
「彼氏なんてもう随分いないし、好きなことばっかりしてるから、行き遅れるんじゃないかって感じ」
「ええ? そうは見えないけど」
「ううん、ほんとに」
 いまや学生時代につるんでいた友人の半数は結婚し、妊婦であったり乳幼児がいたりと、一生ものの人間関係を築きSNSに幸福を晒している。盆に帰省すれば両親からは、結婚はまだか孫はまだかとせっつかれるのが慣習であったが、このところ、こればっかりは縁ですからと独り身の生活を容喙したりあげつらうのは忍びないという、ありがたくも情けない気遣いを頂くおかげで下手な言い訳を考える手間もなくなった。
 
 好きなこと、好きなことねぇ。
 自分で言っておきながら、だいたい、それだって語弊がある。
 オーガニックだとかナチュラル志向がもてはやされる昨今、蝋燭の造形よりも原料で良し悪しを判断されることが多く、地球保護の関門をまず抜けなければ凝ったギミックを入れたとてお話にならない。パラフィンよりも蜜蝋、大豆。芯はタコ糸よりも紙や木片が有難がられ、そういうものはだいたいにしてシンプルイズベストだ。時間をかけてハワイアンキャンドルをこしらえたところで、売れの目処は立たない。
 ――ナマエ、昔から図工得意だったもんね。趣味で食べていけるなんて羨ましい。特技を活かせる職なんてすごい。夢叶ったんじゃない?
 私なんて家事も育児も忙しくって。と母になった友人は愚痴っぽく零したが、幼い頃に描いた夢には、中学に制服で通ったことと同じくらい当たり前に結婚と出産がセットになってついてきたものだ。そのどちらも手元にない今、話をふられても妙に空々しく、「おおきくなったら」と題してサクラクレパスで描いた色がどんなものであったか、ぼちぼち直視できない。
 意図しない作品で稼ぎを得るばかりとなると私が製作をする意味があったのだろうかという思案は、漠然とした虚脱感を伴い寝入り端に哲学を巡らせる中学生時分の夜を思い出す。結局のとこ明日も明後日も明々後日も世間様の需要を意識したものを作って売るしかなく、であればもう普通に商社OLでよかったのでは。そんなことを考えたりもする。

「今日は商談でね、サンプル持ってきたの。パッケージも出来たから置いてもらえないかなって」
 話題を変えるように鞄を漁ると、松野さんが身を乗り出してノってきた。わくわく、と擬音が浮かんでいそうな待ちぶりにコミュ力高いなぁとしみじみしつつサンプルを取り出し、よく見えるようにカウンターの上でくるりとまわしてみせる。半透明の樹脂の内側で、ランダムに並べたモザイクタイルがグラデーションを描く。
「火をつけると間に挟んだ紙が透けて模様が浮かぶの。外側は樹脂だから、中の蝋が溶けても繰り返し使える仕組み」
 樹脂から製造された化合成ワックスは厚さの調整が手強く、思うように紙が透けずに苦労した。もうちょっと、あとちょっとだからと朝な夕なに作業に没頭して食事もとらず、血を与える体調でもなかったから、そのうち一松がキレて無理矢理食べ物を口に詰め込まれた。アンタ、よくこれまで一人で生きてたねと神妙な面で言われたのだった。吸血鬼に。

 思い出してへっと笑うと、いつの間にか、松野さんが意味深な目付きで私を見つめていた。話に耳を傾けてはいるのだが、不思議なものを見ているような目でいる。「一松兄さんみたいな笑い方するね」
「……で、なーんでこんなものも作っちゃう自立した女性が、よりにもよって一松兄さんの友達だったんだろ」
 首をかしげて、訝しげに眉を寄せる。
「一松兄さんのこと、ひょっとして好きだった?」
 私は首をかしげる。
「ニートって知ってたよね。童貞で根暗。人を殺しそうな目をしてたでしょ。なんで? よりにもよって?」
「はっきり言うね松野さん」
 しかも今は吸血鬼だ。
 心の中で付け足して、ストローをつまんでオレンジジュースをぐるぐるする。狭いコップの中で瞬く間に渦になった橙色は、中心部ほど沈んだ色をして苦そうに見える。

 一松と出会ったのは、季節外れの大雨に側溝が渦巻く大荒れの夜だった。
 そんな天気だからせっかく取り付けた商談の約束は流れ、大荷物で出ていって蜻蛉返りに帰路についた私はエエエエもう勘弁してよォと平静ではなかった。足元がおぼつかず転倒して膝は痛いし、せっかくのサンプルは駅で立ち往生した人々の群れに押し潰されたし、傘も壊れてパンプスの中はぐちゃぐちゃだった。帰宅したところでタオルを差し出しねぎらう同居人もなく、雷におびえるペットを慰めることもないのだと思えば、心身ともにまったく酷い有り様だった。
 横殴りの冬の雨に身を縮こまらせながら家につくと、四十年ものの外壁が今にも吹き飛ばされそうにガタガタしていた。これで家が飛ばされたら保険はおりるのだろうかとヒヤヒヤしながら、いっそなにもかも吹き飛べばさっぱりするかしらと考えながら、玄関先に荷物を放り込んで雨戸を閉めに裏庭に回った。
 そこで、縁側の下でぶるぶる震える一松を見つけたのだ。
 その時の一松ときたら、屋外だというのに全裸だし、雨だというのに灰を撒いたような燻った臭いがした。出店であちこち出歩いていれば色情魔だの危ないお薬使いだのと妙な輩には遭遇するものだが、その中でも唯一の、今まであったことのない種類の不審者だった。それなのに――だからかもしれない――すぐに通報しなかったのは、震える一松の表情があまりにも憐れっぽくあったからで、目が合った途端飛び込むように噛みつかれ意識が遠退いたせいだった。
 目覚めた時、家の中にいた。一松は申し訳程度にタオルを被っておどおどとし、タオルの裾を始終かりかりといじっていた。この不審者はたぶん、望まず生まれた赤ん坊なのだろうと、紫の不思議に濡れた瞳を眺めながら思っていたら、いっそ殺してくださいと聞こえた。そんな気がした。

 だから正直なとこ、ニートとか、童貞とか、根暗という要素はどうしようかなと考える土俵にもたっていなかった。
「あんまり気にしなかったかな」
 そう言うと、松野さんは口角をあげくすくす笑った。
「……へえ、気にしないんだぁ」
 一松のじっとりとした視線とも違う、表皮をなぞるような視線に尻の座りが悪くなる。チリッと、妙に痒くなった首筋を掻いていると、松野さんは「そういえば」急にワントーン声を高くして広げたサンプルを手に取った。
「これ、全部で何色あるの?」
「赤、青、黄色、緑……桃色と紫で、全部で六色」
 カウンターの上にランダムに並べると、松野さんがすいすい並び替えた。赤、青、緑、黄色、桃色。少し離れて紫。左に茶碗、右に汁椀を置くように松野さんにとってはごく自然な並び順らしい。眺めていると、「これが僕ね」と桃色を押し出してはにかんだように笑った。
「僕達兄弟ってみんな同じ顔だから、担当カラーがあるの。ちょうど揃ってるから、兄さん達にも見せたいなぁ。写メとっていい?」
「ああ、いいよ。ていうか、サンプルだしあげる」
「えっ本当? いいの?」
「いいよ。ほんとのとこ、採用されたのって別のなんだよね。モザイクタイルなしのシンプルなやつ。蝋も大豆にして、オーガニックって感じの」
「あ、いいねそれ。僕好き。……でもこっちも可愛いし、やっぱ写メはとっておこ」
 松野さんのスマフォから二、三シャッター音がした。ついでと言わんばかりにレンズがこちらに向き、またシャッター音。私が目を瞬かせている間に悪戯が成功した子供の表情で顔を寄せ、自撮り棒もなしにツーショット。「画像送りたいからラインのID教えて?」と繋げるテクニックが一松と同じ顔から披露されては舌を巻く。

「ほんとに兄弟なんだよね」
 新たしい友達に追加されたトッティを眺めて零した言葉の意味を拾い、トッティこと松野さんはスマフォをいじりながら「そうだよ」と頬を緩める。
「男が六人もいたから、兄弟喧嘩はそりゃ派手でね。玩具やおやつの取り合いに、一人部屋が欲しくって場所取りでももめたっけ。兄弟がたくさんいれば役割分担するなり交代するなりで有利に働くこともあったけど……兄弟間で欲しいものがあったら、大抵早いもの勝ち。そうでなければ他の兄弟を出し抜こうと足の引っ張り合いね。……あ、僕はそんな野蛮なことはしないよ? もう大人だもん」
 スマフォから続けて通知音が鳴った。松野さんから送られてきた画像の最後に、口をにんまりふくらませた猫のスタンプがくっついてきた。CUTEという文字が猫の背後に描かれている。
「みんなね、自分だけの唯一が欲しいんだ」
 スタンプの猫みたいに口角をあげて、松野さんは目を細くした。
 目を逸らして画面を見つめる。猫のスタンプ、可愛い。一松が好きそうと何とはなしに呟くと、ナマエさんと話してると一松兄さんがまだいるみたいって思っちゃうよ、と松野さんが笑った。
「もう十ヶ月経つんだね」
「ね」
「よかったら今度は、昼から計画立てて遊ぼうよ。一松兄さんの話、もっと聞きたいな」
 私は一瞬黙った後、「そうですね」と言いながら口角をあげてみせた。作り笑いの得意な松野さんにバレてしまわないかと、内心で警戒した。
 警戒って、何。
 自分で思ったことなのに言葉のチョイスに今度こそ自然に笑えてきて、どうにも始末のつかなさに首筋を撫でた。
「ナマエさん、あんまり痒くても、掻いたら痕が残っちゃうから気を付けて」
「え? ああ……」
 わっかんないなぁ、六つ子。
 赤塚は今日も八月の陽射しと喧騒に溢れ、やがて訪れる夜にこの一幕に紡いだ思い出は葬り去られまた朝を迎える。繰り返し繰り返したそのうちに松野家では松野一松の初盆を迎えるが、欠けた一松がこの世にいると知れば、どうするのだろう。

 場所を変え、そこでも三四時間話し込んで、結局家に着く頃には頭上に絞られたような月が浮かんでいた。玄関ポーチの電球は切れて久しく、一松は電気関係に強いだろうかと考えながら手探りに鍵を回して玄関扉を開けると、夜とはいえ真夏なのに冷蔵庫を開け放したような冷気が足元を漂っていた。
「一松?」
 返事はない。
 霧が立ち込める森を進むようにゆっくり奥に向かうと、うすい暖簾を透かしてアトリエから仄明るい光が漏れていた。作業台に置いたままにしていた蝋燭のいくつかに火がつき、ローズウッドやジャスミンが入り交じった熱っぽく甘い香りが膨らんでいた。
「一松……」
 足元を漂うばかりであった冷気が背中を這い上がり、びくりと肩が震えた次の瞬間強い痛みが上半身に走った。床に打ち倒されたと気付いた。

 あ、一松。

 濃い紫色のかげりをおびた双眼に縫い止められていた。昼のうちはぐにぐにとやわらかそうだった輪郭は鋭く浮かび上がり、薄い板硝子を何枚も重ねたように青くみえた。ただ人らしからぬ色味に、なるほど吸血鬼とはこういうものかと妙に得心して唾を飲み込んだ。
 夜は己の時間だと言いたいのか、はたまた帰りが遅いと責めているのかといえば、後者だろう。鼻を鳴らしてくんくんと顔を近づけてくる。
「油もんと、生魚と……ビール。煙草の臭いもする。困るなァ。アンタの食ったもん、全部俺に流れるんだから」
 ぼそぼそ鼓膜に響く声で一松が言った。肩にかかった髪を鼻で払い、昼の食事痕を唇で撫でている。昼間にくずぐずしていた時の気弱さはもはや消え去り、夜が一松に危うい貫禄を与えていた。蝋燭から燃え立つ光が陰影を深め、にたりと歪む牙向こうは奈落染みて暗い。
「いちまつ……一松さん?」
 やばいと思ったので確かめるように名を呼ぶと顔をあげ、鼻を歪めたぶさいく面を晒してくれた。少しほっとして気を抜くや否や、何かに気が付いた様子の一松が目を細めた。
「このクソ甘い匂いってさぁ」
 あ、やっぱダメな感じ。
「いだっ」
 と思った瞬間一松の牙が皮膚を貫き、待ったをかけようとした唇から鈍い悲鳴が漏れた。判然と満ちていた夏夜のなまぬるさが一息に消し飛び、理性の都合など考える暇もないままに一松の顔を押しのけようと爪をたてるのに、ぐっさり貫いては離し貫いては離しとブレーキを失ったように牙はどこまでもついてきた。「いだ、ちょっ、いだい」二、三繰り返すうち、それは腹を満たすための吸血行動というよりも仕留めた獲物を弄ぶ獣に似ていると気づいた。
「いい、いだい、馬鹿。痛いってば馬鹿」
 背中を曲げ、海老のように仰け反ってバシバシ背を叩くと、馬鹿はそっちだよね、と一松は眉をひそめた疑わしそうな目で私を見た。
「アンタさ……アンタは、根っからの餌だなぁ」餌だよ、うん。とぼそぼそ言った。「こんなところで……あー、俺みたいな死に損ないの餌になって。外ではドライモンスターにちょろいって思われて……」
 一松は絵でも描くように、涎と血でべちゃべちゃになった首筋を撫で、頬を撫で、唇を撫でた。
「うち、兄弟多かったから……おやつを買って隠そうが名前を書こうが速攻で食われるんだよ。唾つけても意味ないか」
 ああ、唾ってそういう……。今や痒いだけだった首筋が痛いほどの傷になっている。
「俺みたいなヤツに会ったんじゃない」
「……それってトッティのこと?」
 少し考えてラインに表示されたナマエを口にすると、頑なに寄っていた眉間の皺が一瞬ぽかんと緩み、訝しげにまた寄った。
「そう。知り合いだっけ」
「商談したカフェで話し込んだの。ちょっと前に街中で会ったんだけど、一松と間違えた」
 一松の酒焼けしたような目を眺めながら、松野くんの澄んだ目を思い返しながら語った。キャンドルの話をしたこと。一松の話をしたこと。誘いを受けたこと。
「ふーん」
 これといって目的もなく投げ出されていただけの一松の手が、いつのまにかシャツを握りしめ、血で斑に染めていた。小さな子供が涎まみれの手で、親の影に引っ込むように。
「どうだった、トド松」聞こえるか聞こえないかの小さな声で一松が呟いた。
 仰向けに倒れたまま、ポケットからスマフォを取り出してラインを起動する。送られてきた画像を見せると、一松は黙って画面を眺めていた。
 松野さんは持ち帰ったサンプルを早速兄弟に見せたようで、松野家の居間らしい景色を背景に、松野さんや一松とよく似た誰かの顔がうつりこんでいた。

 私は松野家の間取りを想像する。
 赤塚らしい配色の調度品が、そう広くもない和室に賑やかく点在している。男所帯だから部屋は汚いに違いない。ごみ箱から外れたまるめたティッシュが壁の下で沈黙している。脱ぎっぱなしの靴下がちゃぶ台の脇でまるまっている。居間の続き間には神棚があって、同じ部屋に仏壇もあるだろう。仏壇に生けられた菊の花は瑞々しく、飾られた額の中では、一松の陰気な顔がぼやっと家族団欒を眺めているに違いない。
「帰りたい?」
 私は尋ねた。
「どうして」
 一松は自嘲気味にへっと鼻で笑った。
「俺、死んでから結構経つし、今さら行ったってしょうがないでしょ。アンタが出てけって言うなら出ていきますけど」

 十カ月ばかり前、二十そこそこに短い生涯を終えた松野一松は、どうしたことか吸血鬼として黄泉がえった。一般に吸血鬼は死んだ人間がなんらかの理由により不死者として蘇ったものと考えられているが、理由には諸説あり、お伽噺染みた話のどれが一松の身に起きたのかは見当もつかない。
 一松自身、死の前後の記憶は曖昧で事故死か病死かも覚えがないという。ただ体は酷い飢餓状態にあり、目も開かない赤ん坊が匂いを頼りに乳房にしゃぶりつくが如く血を求めていたことは覚えているという。――はたと気付けば、見知らぬ庭先で首から血を流す女を抱いていたのだ。
 わけのわからぬ夢ならもう一度死んで目覚めたいと怯える一松は、自身が牙を立てた名も知らぬ女に罰せられることが贖罪になるとでもいうように、あの日すがるように私を見上げていた。
 そんなことを求められても困る。吸血鬼にだって殺人罪や自殺幇助は適応されるかもしれない。非常に困った。しかしいかにも哀れっぽく、雨の中段ボールに捨てられた子犬か子猫のような一松は、大変私の気に入って、育てたいと思った。こいつは今、何億といる中で唯一私しか頼る人がいないのだと思った。

 一松を囲ったのが親切心か。答えは否である。
「出ていけなんて言わないよ、一松」
 上体を起こし、私は一松の顔を覗き込んだ。
「だって、ほら。一松がいるから、無料で血液検査できるし」
「嘘だろ」
「うん、それは嘘だけど。でも行かないで。お願いだから」
 一松の目がきゅっと細くなり、迷うように開け閉めした口の内部で言葉が飲み込まれたのを、私はじっと見つめていた。カービングナイフで蝋に彫刻を施すように、感覚を研ぎ澄ませて息を静め、世界に一つだけの作品を仕上げる気持ちで一松の手を握った。
「例えばさ」一松は躊躇いがちに手を握り返した。「あの日アンタに噛みついたのが俺じゃなくてトド松だったら、いくらかマシだったんじゃないの。アイツのがよく喋るし、友達多いから、俺みたいにずっと寄生しないよ」
 アンタの話ももっとちゃんと聞くし、流行りだってわかるしとぼそぼそ誉めた。
「そうだね」
 無感動を装って同意した。確かにソウデアロウが、松野さんみたいに器用な人は私でなくても生きていける。
「でも、私は一松がいいよ」
 一松は少し間をおき、そっぽを向いて吐き捨てた。
「じゃ、いるけど」
 ぶすっと顔を伏せた一松が、肩の辺りに頭を押し付けてきた。ぼさぼさの頭を撫でると髪の隙間から煤けた匂いがした。噛み傷だらけの皮膚に額をグリグリ押し付けてきて結構痛い。赤ん坊持ちの友人が、最近歯が生えてきてお乳を与える時痛いのと話していたことを思い出した。「ていうかさ」
「アンタ、早く帰るって自分で言うならそれ守ってくれない。でないと俺、何するかわかんないよ。通行人無差別に噛みついてやるから」
「わかったよ、ごめんね」
 やっぱ在宅かぁ。と昼に過った商社勤めの考えはまた蓋をされる。目を離していられない。
 私は一松の背をさすりながら顔を覗きこんだが、ぶすくれた目はまだ私を見る気はないようで明後日の方向に向いていた。追えば頑なに拗ねるに違いない幼さは到底成人済みの男性と思えず、また永い時を生きる吸血鬼の姿ではなかった。

 なんていうのかなぁ。
 長い子供時代を過ごした一松は大人になるのを後ろ倒しにしたままこの世を去り、真昼の遊園地から一転真夜中の森においてけぼりにされたような戸惑いに苦しんでいる。自身の正体さえはっきりしないのに辺りを探るのは、なにもかもがこわいことに違いない。そんな時に蝋燭の灯りがひとつでも見えたら、早足に近付いて離さないに決まってる。
 私であれば、そうする。

 身を起こそうとして動かした腕が作業台にあたり、ふっとまたひとつ灯りが落ちて、熱でぐだぐだになった蝋がぱたぱた降ってきた。
 アッツ、と一松がびっくりした声をあげた。ごめんと謝り、今度こそきちんと身を起こして歪む一松の顔を見た。頬に飛沫がかかっていた。重ねてみれば鮮やかにうつくしかった色も、器を離れて四散すると濁ってみえた。一松の薄青い肌に触れて瞬く間に硬質化した色にもはやかつての面影はなく、重ねた層に閉じ込められた皮膚は病を患っているようだ。
「痛かった?」
「いや、……ダイジョーブ」
 そっと患部に触れれば蝋はわずかにあたたかく、粘着質に張り付いた指の腹を離すと指紋付きの造形ができた。それを見た途端、自分と一松は作り合っているのだ、と私は感じた。
 一松が用意した食事を私が食べ、作り出された血液を一松が啜る。一松の体に私が流れ、表層を蝋で覆ってしまえば、万人には見向きもされないのにこの唯一人には受け入れられる、唯一が出来上がるのではないか。金銭的な価値など生じないしむしろ人に言えるものでもないのに、互いにとっての唯一というのは、なんというか、うれしいことなんじゃないか。
 人の細胞は六年で入れ替わるという。人でない一松の細胞は、入れ替わりにどれほどの時を要するのだろう。一松の六年後ってどんなだろう。私も一松も何で構成されているんだろう。
 
「もうさ、ミョウジ一松でいいと思うんだけど」
 思い至って呟くと一松はちょっと考えるように黙ってから、ヒヒ、とプラスチックみたいな牙をみせて浅く笑みを浮かべた。
「いいね、ソレ」
 同意をもらったのに、あ、失言。とすぐにわかった。
 平坦な声色だった。一松の目の奥はコツンと冷たい色をしていた。
「よかった。俺、アンタのとこ居座れて。色々と役得かも。うん。そう、たぶん……色々と」
 一松はぼそぼそと紡げない言葉を閉じ込めるように首筋に顔を押し付け、蓋をした。
 「よかった」なんて言うが、その言葉には孤独をまぎらわす優しさと甘えがこめられていたようだった。鼓膜にごく近いところで聞こえる唾液を撫で付ける音は、啜り泣きのようでもあり、下手くそな産声のようでもある。

 蝋燭の灯りだけで、あの色は溶けるのかな。
 足りないのだろう、と思った。何が、どのくらい足りないのやら。